死に至るまで

黙示録2:8-11

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2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。―しかしあなたは実際は富んでいる。―またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』

 ヨハネの黙示録の2章と3章には、七つの教会に宛てられたキリストのメッセージがしるされています。七つの教会へのメッセージには共通したパターンがあります。まず、キリストの自己紹介があり、次に教会の現状が語られ、そして、教会に対する叱責のことばや励ましのことばが続き、最後に、天国での約束が宣言されます。スミルナの教会へのメッセージも、同じように「キリストの自己紹介と教会の現状」、「教会への励まし」、そして「教会への約束」の三つに分けて学ぶことにしましょう。

 一、教会の現状

 主イエスは、どの教会に対しても、その教会の現状を指摘する前に、まず、ご自分の姿を示されます。スミルナの教会に対しては、「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」という自己紹介があります。なぜ、このような自己紹介があるのでしょうか。それは、キリストの姿を正しく知らなければ、教会の姿を正しく知ることができないからです。教会はキリストのからだであり、キリストのものです。教会はこの世に対してキリストの姿を映し出すものですから、キリストの姿を見つめていなければならないのです。

 教会は、歴史を通して、さまざまな機能を果たしてきました。教会は礼拝の場であり、学びや訓練の場であり、まじわりの場であり、助け合いの場であり、いやしの場であり、伝道の場でした。人々は教会で神を礼拝し、教育を受けました。教会のまじわりを通して実際的な助け合いをしてきました。学校も病院もさまざまな福祉施設も、もとは教会から始まったものです。今日では、学校も、病院も、福祉施設も教会から独立しましたので、人々は教会をコミュニティの場、ミュージックを楽しむコンサートホール、講演を聴くカルチャー・センターとして考え、そのような教会が増えてきました。しかし、それが、本来の教会の姿でないことは聖書を読めば明らかです。キリストから目を離すと、教会はキリストが求めておられる姿から離れ、世の人々が求めるものになってしまいます。主イエスは、教会にご自分の姿を示すことによって、教会が、この世の姿に形づくられていくのでなく、キリストの姿に形づくられていくことを願っておられるのです。"Church is in the world, but not of the world." 教会は、この世にあります。しかし、この世のものではありません。「主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(コリント第二3:18)教会は、キリストの姿を見つめることによって、はじめて、「キリストの教会」としての本来の役割を果たすことができるのです。

 主イエスは自己紹介に続いて、教会の現状を指摘します。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。―しかしあなたは実際は富んでいる。―またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」主イエスが教会に対して「わたしは…知っている。」と言っておられるのは、なんと慰めに満ちたことばでしょうか。キリストは全知全能の神なのだから、すべてのことを知っておられるのは当然だと思ってはなりません。ここで「わたしは…知っている。」とあるのは、主イエスがその能力によって知っておられるというのではなく、その愛によって知っておられる、教会の苦しみを深く理解していてくださるという意味なのです。医者はどの病気にはどんな痛みが伴うか知っています。しかし、知識によって知っているだけで、患者が症状を訴えても、医者から「分かってますよ。我慢しなさい。」という答えしかえってこないことがあります。しかし、同じ病気をした人に話すと、「良く分かりますよ。私もつらい思いをしました。」と、心から分かってもらえ、そのことばが励ましとなります。それは、その人が病気の苦しみを知識によってでなく、体験によって知り、病気の人の痛みを愛をもって受け止めることができるからです。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。」「ののしられていることも知っている。」と言われた主は、苦しみと貧しさを体験し、人々のののしりを受られたお方です。「わたしは…知っている。」と言われたとき、主は、教会の苦しみをご自分の苦しみとし、教会に対する非難や中傷をご自分への非難や中傷として受けておられたのです。

 主がスミルナの教会に「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。」と言われたように、スミルナの教会は貧しくなりました。当時はまだ教会堂というものがなく、人々は裕福なクリスチャンの邸宅に集まり、そこで礼拝をしていましたが、教会を迫害した地方の役人たちは、そうした裕福なクリスチャンをターゲットにし、その財産を没収しました。そうすればクリスチャンは礼拝する場所を失って散り散りになり、またその財産も地方の役人の懐に入るというわけで、それこそ迫害をする人には「一挙両得」でした。多くの裕福な人々が財産を奪われ、一夜にして貧しくなりました。教会は迫害によってメンバーを失い、財力を失いました。スミルナの町は、小アジアで三番目に大きく、また美しい町で、町の人々は「スミルナこそアジアのメトロポリスだ。」という誇りを持っていました。スミルナ教会もきっと豊かな教会だったことでしょう。しかし、教会は迫害により貧しくなってしまいました。スミルナの教会は、貧しくなった自分の姿を見て嘆いたかもしれません。しかし、主イエスは「あなたは実際は富んでいる。」と言われます。それは、地上の財産のことではなく、信仰の富のことです。ヤコブ2:5に「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」とあります。教会は、迫害によって人数を減らし、財産を失い、人の目にも、自分の目にも貧しく見えたことでしょう。しかし、主イエスの目にはそうではありませんでした。迫害によって本物のクリスチャンが残ったために、教会の霊的な力は高められ、地上の財産を失った分だけ、信仰が増し加わり、霊的に豊かな者になったのです。自分の目だけで自分を見てはいけません。主イエスの目で自分を見ましょう。その時、私たちも「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(コリント第二6:10)と言うことができるようになります。私たちも、信仰に富む教会、御国を相続する教会でありたいと心から願います。

 二、教会への励まし

 第二に、教会への励ましのことばを見ましょう。10節に「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。」とあります。主イエスは、さらに迫害の手が伸び殉教者が出ることを預言したうえで、「忠実であれ。」との励ましを与えています。

 主イエスが教会に求めておられることは、ただひとつ、忠実であることです。主は私たちに、才能や目に見える結果ではなく、忠実さを求め、それを喜んでくださいます。「タラントの譬」はそのことを教えています。主人から5タラントを預かったしもべはもう5タラントを儲け、2タラントを預かったしもべはもう2タラントを儲けました。ところが、1タラントを預かったしもべはそのお金を隠しました。主人は5タラント儲けたしもべにも、2タラント儲けたしもべにも同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言って喜びました。もし主人が、しもべに能力や結果を求めたのなら、5タラント儲けたしもべをうんと誉め、2タラント儲けたしもべはふつうに誉めたかもしれません。しかし、主人は、しもべの能力や結果ではなく、その「忠実さ」を見て、ふたりのしもべを同じように誉めたのです。1タラントを預かったしもべは、与えられたものに対して忠実ではなかったので、「役に立たぬしもべ」と呼ばれています。主が喜んでくださるのは、教会の人数でも力でもなく、忠実さです。教会が主に対して忠実であるなら、神はかならず教会に救われる人々を、まことの神の民を多く与えてくださり、伝道の力を与えてくださることでしょう。もし、教会が霊的に停滞しているなら、どこか主に対して忠実でないところがあるからです。それを悔い改めないかぎり、決して前進することはできません。悔い改めなしに、人間的な方法で教会を元気付けようとしても、それは、一時的なもので、決して教会を生かすものにはなりません。

 私たちは主が教会に託してくださったものに忠実でなければなりませんが、では、主が教会に託してくださったものとは何でしょうか。多くのものがありますが、第一のものは、福音です。神からの救いのメッセージ、みことばです。主イエスは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と教会に命じられました。福音の中心はイエス・キリストご自身です。主イエスはスミルナの教会に「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」と自己紹介をされました。教会は、主イエスのおことばどおりに、主イエスが人となってこの世に来られたこと、私たちの罪のために十字架で死なれたこと、三日目に死人の中から復活されたこと、やがて来て救いを完成させてくださることを、あらゆる努力をして人々に伝えなければなりません。福音を宣べ伝えるのに、知恵や知識、巧みな弁舌やコミュニケーションの技術などが必要なこともあるでしょう。しかし、何にもまさって大切なのは、福音に対する「忠実さ」です。教会は福音の管理者であり、管理者に要求されるものは「忠実さ」です(コリント第一4:4)。社会は常に変わっていきます。教会が置かれている地域も変化していきます。伝道するのに、良い時もあれば悪い時もあります。今は、おそらく、霊的には「悪い時」でしょう。人々の心には神への求めや飢え渇きが無いように見えます。しかし、だからと言って、福音を人々に受け入れられやすいように変形させたり、水増ししたりしてはならないのです。それはかえって人々を神から遠ざけることになります。聖書は「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4:2)とみことばに忠実であるように命じています。私たちは、今、忠実でしょうか。

 「死に至るまでも」というのは非常に強いことばです。殉教することがあっても、なお忠実でありなさいと教えられています。今のアメリカや日本では「殉教」という言葉は、私たちと無関係のもののように思われていますが、そうではありません。「殉教者」という言葉は「証しをする」ということばから来ています。すべてのクリスチャンは証し人です。殉教者は死をもってキリストを証ししましたが、私たちは、毎日の生活をもって証しをします。死によってであれ、日々の生活であれ、私たちもキリストの証し人、福音の証し人であることは、殉教者と変わりません。「死に至るまで」とは「地上を去る日まで」という意味にとることもできます。生涯の終わりまで主の証し人であり続けるよう、主は、私たちを励ましておられるのです。信仰を持ったばかりのころは証しに燃えていたが、今はその熱意もなく、自らも信仰から離れてしまっているということのないよう、主に忠実な者であり続けられるよう、日々に祈り求めましょう。

 三、教会への約束

 第三に「教会への約束」を見ましょう。主イエスは、主に対して忠実な者に、「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と約束しておられます。聖書には「朽ちない冠」(コリント第一9:25)、「喜びの冠」(テサロニケ第一2:19-20)、「栄光の冠」(ペテロ第一5:2-4)、「義の冠」(テモテ第二4:8)など、さまざまな冠が出てきますが、これは、信仰生活がオリンピックの競技にたとえられていることと関連があります。古代オリンピックでは競技に勝った人に月桂樹の冠がかぶせられ、その栄誉がたたえられました。しかし、木の葉で作られたものはやがて朽ちていきます。この世での賞賛も、木の葉の冠と同じように、長くは留まりません。金や銀で作られ宝石で飾られた冠であっても、永遠ではありません。しかし、主がくださるのは、朽ちることなく、いつまでも無くなることのない、永遠の「いのちの冠」です。それは永遠の命を意味でしています。

 私たちは、イエス・キリストを信じたとき、永遠のいのちを受けました。キリストを信じた者は、神の子どもとして生まれたのです。神の子どもを生かし、育てるのは、神のいのち、永遠のいのちです。両親から受け継いだ肉体の命は、使えば減っていく命で、寿命が尽きるとき、人は世を去るのですが、永遠のいのちは増えていく命です。肉体の命がなくなっても、たましいは永遠のいのちに生かされ続けるのです。永遠のいのちは、地上では、人の目にあきらかではありませんが、世を去るときにはそれは形をとって現れます。キリストが再び世に来られるときには、キリストにある者は復活し、栄光のからだを受け継ぎます。永遠のいのちが完全な姿を表わすのです。主イエスに忠実な者は、永遠のいのちと死後のいのち、そして復活と栄光のからだを与えられるのです。

 信仰生活は競技にたとえられています。競技と信仰には共通点が多くあります。どんな競技でも、ルールに従い、そのために節制し、訓練を受け、ゴールを目指す必要があります。信仰生活でも、神のことばに従い、神の訓練を受け、そして、地上の報いではなく天の報いを、人から誉められることではなく神に喜ばれることを求めます。どんな競技も辛いもの、苦しいものです。しかし、ゴールを見つめるなら、それに耐えることができます。信仰の創始者であり、完成者である主イエスを見つめるなら、走り抜くことができます。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)とある通りです。「初めであり、終わりである」主イエスが信仰の競走のスタートであり、ゴールです。あなたの信仰は主イエスから始まっているでしょうか。そして、主イエスを目指しているでしょうか。そうであるなら、「いのちの冠」の約束は揺るぐことはありません。なぜなら、主イエスは「死んで、また生きた方」だからです。復活の主、いのちの主が、永遠のいのちを、いのちの冠を与えてくださるのです。

 スミルナの教会に、ポリュカルポスという使徒ヨハネの弟子がいました。彼は、155年2月23日にフィラデルフィヤ教会の11名のクリスチャンとともに殉教しています。ポリュカルポスはスミルナの円形競技場に引き出されました。そこで競技をするためではありません。人々の前で火あぶりにされるためです。しかし、競技場が殉教者たちの人生の最後の場であったのは意味深いことです。彼らは、最後まで信仰の戦いを走り抜いたからです。円形競技場に現れたポリュカルポスがあまりに高齢なのを見て、総督は「老人が死ぬのを見たくない。キリストをのろえ。そうしたら許してやろう。」と言いました。ポリュカルポスは「86年間、私はキリストに仕えてきた。その間キリストはわたしになんの悪もなさらなかった。私を救ってくだったわたしの王を、どうしてののしることができよう。」と答えて、火刑台に進んでいきました。ポリュカルポスが死をも恐れなかったのは、主イエスから目を離さなかったからでした。ポリュカルポスが、死に至るまでも忠実であったのは、「いのちの冠」の約束を握り締めていたからでした。私たちも、同じ約束を握り締め、信仰のレースを走りぬきたいと思います。

 (祈り)

 永遠に変わらず、今も生きておられる主イエスさま。あなたが私たちを愛をもって知っていてくださることを感謝します。同じように、私たちもあなたを愛をもって知る者としてください。あなたが、私たちに忠実であり続けてくださったことを感謝します。私たちも生涯の終わりまで、あなたに忠実であることができますよう、助けてください。忠実な者に「いのちの冠」を約束してくださり感謝します。互いに冠をかぶせあったり、みずからに冠をかぶせることなく、あなたの手から冠をいただくその日を目指して歩ませてください。あなたのご降誕の光によって私たちを新しい年に向かって歩み出させてください。父なる神をあがめ、聖霊によって祈ります。

12/30/2007