幸いである

黙示録1:1-3

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1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。

 聖書は全部で66巻あります。長い年月の間、多くの人々によって書かれたものが一冊にまとめられたものです。旧約はイエス・キリストが来られる前、およそ千年の間に書かれ、新約はキリストが天にお帰りになってから、およそ40年のうちに書かれました。「ヨハネの黙示録」は95年ごろ、最後に書かれた聖書です。読むと分かりますが、他の聖書と全く違った文章表現で書かれています。このように象徴的な言葉で未来のことを描く文学を「黙示文学」というのですが、その呼び名は「ヨハネの黙示録」の「黙示」という書名から来ています。

 「ヨハネの黙示録」を学ぶには、多くの時間と努力が必要です。礼拝ではその一部しかとりあげることができません。きょうは、黙示録にある「幸いである」という言葉をとりあげます。黙示録には「幸いである」という言葉が七回出てきますが、それは、三つにまとめることができます。

 一、御言葉を守る幸い

 まずは「御言葉」、聖書の言葉を守る幸いです。こう書かれています。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(黙示録1:3)「御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った。」(黙示録19:9)「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(黙示録22:7)19:9に「これは神の真実のことばです」とあるように、聖書は神の真理の言葉です。ですから、これに聞き、これを心に留め、実行する人は幸いなのです。

 ある人が聖書 BIBLE は Basic Instruction Before Leaving Earth であると言いました。なかなかおもしろい語呂合わせです。たしかに、聖書は十戒をはじめとして、私たちになすべきこと、してはいけないことが何であるかを教えています。しかし、神の戒めは私たちを事細かな規則で縛り上げるものではありません。親は子どもに「食事をする前は手を洗いなさい。食事が済んだら歯をみがきなさい。学校から帰ったらすぐ宿題をしなさい」などと言いますが、それはみな、子どもの安全や健康のためであり、健全な生活習慣を身につけさせるためです。親の子どもに対する愛から出ています。聖書が教えることも同じです。私たちに幸せな人生を送ることができるようにと願っておられる、父なる神の愛の心から出た言葉なのです。

 人間には自由があります。しかし、それは何をしてもよい自由ではありません。魚は水の中でこそ自由に泳ぐことができますが、陸にうちあげられたら、生きていけなくなります。ダラスとヒューストンを90分、時速186マイルで結ぶ High Speed Rail の工事が始まりました。日本の新幹線の技術で造られますので、大きな期待が寄せられています。しかし、この列車が性能を発揮できるのはレールの上を走るかぎりです。レールから外れたら悲惨なものになってしまいます。私たちも、神が敷いてくださったレール、神の言葉の上でこそ、自由であり、能力を発揮し、幸せであることができるのです。

 詩篇の第一篇にこうあります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:1-2)聖書を読み、学び、実行する人は、この言葉の通り、実を結ぶ人生を送ることができます。毎週神の言葉を聞き、毎日聖書を読んで養われ、力づけられ、慰められている私たちは、聖書が「真実な神のことば」であることを証しすることができます。

 二、聖められる幸い

 次に黙示録はきよめられる幸いを教えています。「見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。」(黙示録16:15)「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」(黙示録22:14)

 ここで「着物」と言われているのは、神が私たちに着せてくださった「義(ただ)しさ」、「聖(きよ)さ」のことです。私たちは罪を持っており、どこまでも義しく、すべてにおいて聖い神の前に、そのままでは出ることができません。罪を覆ってくれるものが必要なのです。黙示録7:9-17に「白い衣」を着た人々が描かれています。一世紀の教会では、イエス・キリストを信じてバプテスマ(洗礼)を受けるときに「白い衣」を着ました。バプテスマの水はその人の罪が洗い流されること、「白い衣」は信じてバプテスマを受けた者が神の前に「義しい者」とみなされることを表しています。ですから、「白い衣」を着た人々とは、信じてバプテスマを受けた人々を指しています。聖書は「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」(詩篇32:1-2)と言っています。黙示録が「幸いである」と言っているのは、完全無欠な人の幸いではありません。罪を犯してしまっても、過去に悔やむことがあったとしても、それを悔い改め、そこから立ち返るなら、神はイエス・キリストのゆえに私たちの過去を咎め立てなさらず、一切の罪を赦してくださるのです。これに勝る幸いはありません。

 しかし、私たちは弱い存在で、赦された罪を再び犯してしまい、神が与えてくださった白い衣を汚してしまうことが多いのです。ですから、罪の咎めから救われるだけでなく、罪の力からも救われる必要があります。罪の性質が死に義の性質が成長していく、汚れた衣が洗われ再び白くされなければならないのです。そうされることが「聖められる」ということです。では白い衣はどのようにして洗っていただけるのでしょうか。黙示録はこう言っています。「彼らは、…その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(7:14)普通、真っ白な着物に血がつけば、洗っても簡単にはきれいになりません。染みが残ります。しかし、「神の子羊」と呼ばれるイエス・キリストの血は違います。それは、どんな罪も洗いきよめます。白い衣をいっそう白くするのです。これが神の言葉が告げるイエス・キリストの救いの力です。罪を赦されるばかりか、そこから聖められる幸い、このような幸いを与えてくださるお方はイエス・キリストの他ありません。

 三、死に勝利する幸い

 そして、さらに、黙示録は、死に打ち勝つ幸いを告げています。「また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書きしるせ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』」(黙示録14:13)「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(黙示録20:6)

 最初の言葉、黙示録14:13の「主にあって死ぬ死者」というのは直接的には殉教者を意味しています。黙示録が書かれた時、殉教者が続出しました。しかし、それと同時に人生の最後の時まで信仰を守り通した人も、「主にあって死ぬ人」に含まれます。主イエスのために、また、主イエスのゆえに他の人のために生きた人生は必ず報われます。人は「死んで終わり」ではないからです。聖書は「彼らの行ないは彼らについて行く」と言っています。つまり、地上での行いは天で報われるというのです。もし、人が「死んで終わり」なら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(コリント第一15:32)ということになります。上手に世渡りをし、この世のものを精一杯楽しむ人が「幸いな人」だということです。しかし、誰も、それが本当の「幸い」でないことを知っています。

 黙示録20:6に「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない」とありますが、この「第一の復活」とは、イエス・キリストを信じて、キリストとともに復活すること、神の子どもとして生まれること、ボーン・アゲインを意味しています。「第二の死」というのは、死後の審判のことです。よく言われることですが「一度しか生まれない人は二度死ぬ。二度生まれた人は一度しか死なない」のです。すべての人は、一度は死にます。しかし、信仰によって、もう一度神から生まれた者、「二度生まれた人」は、死後の裁きである「第二の死」から救われているのです。それはイエス・キリストがあの十字架で、第一の死だけでなく、第二の死も、私たちの代わりに味わってくださったからです。イエスは、二つの死に勝利して復活されました。イエス・キリストを信じる者は、すでに死に勝利した幸いな人なのです。

 神の言葉を守る人は、神の恵みに取り囲まれ、祝福された日々を送ることができます。罪を赦され、聖められていく人は人生に平安を持つことができます。イエス・キリストの救いによってすでに死に打ち勝っている人は、人生のどんな問題にも対処して勝利を収めることができます。私たちも、そんな幸いを求め、この幸いを大切にしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたがイエス・キリストを通してくださる「幸い」は私たちが普段考えている「幸い」とはずいぶん違います。しかし、そうした「幸い」があって始めて、日々の幸いな生活と人生が成り立ちます。「幸いである」と宣言してくださる、あなたの力強いお言葉に導かれ、あなたから来る幸いをを求める私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/1/2021