イエスは主

黙示録1:1-8

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1:1 イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。
1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 一、文化のイエス

 「イエスはあなたにとってどんなお方ですか?」そう質問されたら、皆さんはどう答えますか。さまざまな答えがあるでしょうが、中でも一番多い答えは「イエスは私の友だちです」という答えだと思います。最近、アメリカや日本では、「イエスはあなたの友です」というメッセージがとてもポピュラーになっているからです。

 イエスは、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15:15)と言って、弟子たちを「友」と呼びました。人々はこのことばから、イエスは自分たちと同等のお方、「お友だち」なんだから、イエスに対してそんなにかしこまらなくても、もっと気安く付き合えば良いのだと考えるようになりました。

 イエスのご生涯を描いた、ある映画を観ていたら、そこに登場するイエスが、母マリヤをからかったり、弟子たちと水をかけあってふざけたりするシーンがありました。イエスが、神の御子でありながら、人間と少しも変わらない姿になられたことを伝えようとしたのでしょう。いままでの映画に登場するイエスは、どちらか言えば、重々しい話し方で弟子たちや群衆を教えていましたが、この映画では、イエスはとても快活に、ジョークを交えながら、弟子たちや群衆に語っていました。まるで、アメリカのユース・パスターが若い人たちに話すような調子でした。私の観た映画は、決して聖書のメッセージを否定しようとしたものではありませんが、現代アメリカの文化に傾きすぎ、聖書の描くイエスを十分に伝えていないように思いました。

 私たちは、今の時代に生きているのだから、現代にあてはまる、「自分にとっての」イエスを、それぞれが思い描けば良いのだと言うことを良く耳にします。しかし、それでは、ブルース・バートンのように、イエスをベンチャー・ビジネスの元祖にしてしまい、聖書のイエスを見失ってしまうことになります。

 ブルース・バートンは、のちに世界最大の広告会社となる会社を作り、ビジネスで成功した人です。政界にも進出し、下院議員を二期勤めています。しかし、ブルース・バートンが有名になったのは、1925年に書いた「誰も知らない男」("The Man Nobody Knows")という本によってです。この本でイエスは、大衆の心理を的確に掴み、人々に語りかける言葉を持ち、わずか12人の弟子たちから、その後、今に至るまで続いているグローバル・エンタープライズを始めた天才的なビジネスマンとして描かれています。

 確かに、イエスは最高のリーダーであり、教育者であり、コミュニケーターでした。聖書からビジネスの原則を引き出した本は、バートン以来、数多くあります。聖書をビジネスの観点から学ぶのは、興味深いことですし、聖書が「自分たちには関係のない本」と考えている人々を聖書に振り向かせることができるかもしれません。しかし、イエスをリーダーシップの模範、ビジネスのお手本とするだけなら、それはイエスについて誤った先入観を植え付けることになります。そして、そのような先入観が信仰の目を曇らせ、聖書が伝える本来のイエスの姿を見られなくしてしまうこともあるのです。

 二、友であるイエス

 「イエスが友である」というのも、現代の文化だけで理解するなら、間違って受け取られかねません。私たちが普通、「友だち」に期待するのは、一緒に食事したり、買い物に行ったりすることだろうと思います。とりとめもないことを話しても相槌をうってくれ、愚痴や不満をぶっつけても、黙って聞いて自分を肯定してくれること、また、落ち込んだときに、ちょっぴり「元気」を分け与えてくれる、そんなことだろうと思います。「イエスが友」であるというのを、そのように受けとめているとしたら、それはイエスに対する大きな誤解です。

 イエスが弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼びました」と言われたのは、その後で、「なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(ヨハネ15:15)と言っておられるように、イエスが弟子たちにご自分がこれからなさろうとしておられることを明かされたからです。旧約時代にアブラハムが「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれたのも、神がご自分のなさろうとしておられることを、アブラハムに明かされたからでした。親しい友だちの間では、夫や妻にさえ隠していることを明かすことがあります。弟子たちが「友」と呼ばれたのは、イエスからみこころを示されたからであって、弟子たちは、そのみこころに従うことによって、イエスの友であり続けることができたのです。ですから、イエスが弟子たちを「友」と呼んだからと言って、弟子たちがイエスを「お友だち」扱いし、自分たちの「仲間」のひとりにしてしまって良いということではありません。イエスは弟子たちを「友」と呼びましたが、弟子たちは決してイエスを「友」とは呼ばず、「主」と呼び続けました。

 後に、イエスを「友」と呼ぶ賛美が生まれました。「いつくしみ深き友なるイエスは」、「ああわたしにある友はイエス」、「友なる主よ、喜びなるキリストよ」といったものがそうです。こうした賛美でイエスが「友」と呼ばれている場合でも、それは決して軽い意味では使われていません。イエスはヨハネ15:13で「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われました。親が子のために命を捨てる、子が親のために命を捨てる、また、兵士が国や民族のために命を捨てる、それらは気高い愛ですが、その愛は血のつながりに基づいていたり、義務や責任から来ています。けれども、友がその友のために自分の命をささげるというのは、血のつながりや義務、責任を超えたもので、さらに純粋な愛です。ヒットラーの時代、ユダヤ人のために自分の命をささげたドイツ人も少なからずありましたし、敵・味方というへだたりを越えて友情を交わし、民族の壁を超えてその友のために尽くした人々が、過去にも、また、今も、世界中に大勢います。そうした愛は、イエスが、血のつながりの全くない異邦人、全世界の人々のためにご自分をささげられた愛から来ています。賛美の作者たちがイエスを「友」と呼んだのは、イエスが罪人の友となり、命さえささげられた、あの十字架の愛を歌うためでした。

 「世には良き友も」(新聖歌426)という賛美は、そのことを次のように歌っています。

世には良き友も かずあれど
キリストに勝る 良き友はなし
罪びとのかしら われさえも
友と呼びたもう 愛の深さよ
ああ、わがため いのちをも
捨てましし友は 主なる君のみ

 三、主であるイエス

 どの時代の信仰者も、イエスをたんなる「お友だち」とは考えませんでしたし、教会は「お友だちイエス」を宣べ伝えたりはしませんでした。「イエスは主。」これが教会のメッセージでした。信仰者たちは、自分なりに考え、思い描いたイエスを信じたのではなく、聖書が教える、主であるイエスを信じました。

 一世紀の末、ローマ皇帝は、みずからを「主」(ドミヌゥス)、また「神」(デウス)と呼び、皇帝礼拝を強要し、それに従わないキリスト者を迫害しました。使徒ヨハネも迫害を受け、エペソを追われパトモスの鉱山に島流しになっていました。キリストは、パトモス島にいたヨハネに、ご自分があらゆるものの主であり、今起こっていることも、これから起こることのすべてのことをも支配しておられることをお示しになりました。そのことを書き記したのが、今朝の聖書、「ヨハネの黙示録」です。

 黙示録1:5で、イエス・キリストは「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者」と呼ばれています。当時の世界はローマ皇帝に支配され、キリスト者たちはそのローマ皇帝に苦しめられていました。しかし、キリストは言われるのです。「その王たちを支配しているのは、このわたしなのだ」と。

 5、6節には、「主」であるイエスの、教会に対する愛が書かれています。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」これは、キリストの贖いのみわざの見事な要約です。「その血によって私たちを罪から解き放ち」という言葉は、キリストの十字架による救いを示しています。「主」であるお方が、友となって、罪人をあわれんでくださった、しもべとなって仕えてくださった、犠牲となって死んでくださった。ここに神の愛があります。私たちの「主」が愛の「主」であるというのは、なんと大きな慰めでしょうか。

 8節では、キリストは「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者」と呼ばれています。「神である主」というところは、ラテン語で "Dominus Deus" です。皇帝ではなく、キリストが「主」(ドミヌゥス)であり「神」(デウス)であるとの宣言がここにあります。このキリストの宣言は、迫害の中にあったキリスト者をどんなに励ましたことでしょうか。

 9節からは、キリストの姿が、比喩の言葉を使って描かれています。このキリストの姿は、文字通りにとると、私たちの目にはグロテスクに写りますが、キリストを描くために使われている言葉を旧約聖書にさかのぼって調べてみると、それが、どんなにかキリストの力と栄光とを表わしているかが分かります。この、栄光に満ちた神、力ある「主」であるイエスの姿を見たとき、ヨハネは「その足もとに倒れて死者のように」なりました(17節)。これは、預言者イザヤが神の栄光の前にふるえおののいて、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(イザヤ6:5新共同訳)と言ったのと同じです。聖書は、このように、イエスが全世界の「主」であることを、はっきりと教えています。

 イエスは、死んだようになったヨハネに、その右の手を置いて、「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(17、18節)と言われました。人がその姿を見ただけで死んでしまいかねないほどの栄光に満ちたイエス・キリストが、私たちに近づき、その手を差し伸ばして、赦し、いやし、慰め、励まし、助け、守り、導いてくださる。このようなお方は、イエスの他ありません。

 初代のキリスト者は、明日のいのちが保証されないような迫害の中にありました。そのような中で、彼らを支えたのは、イエスが、万物を治め、王たちを支配し、「死とハデスのかぎを持っている」お方であるという信仰でした。アメリカに住む私たちには、信仰上の迫害はありませんが、毎日のニュースで見聞きすることは、戦争や内乱、災害や伝染病、犯罪や事故、不況や失業など、私たちを不安にさせることばかりです。私たちは、時として、自分の財産や才能・能力が明日を保証しているかのように思い違いをしています。恵まれた生活をしていると、今の豊かさや幸いがいつまでも続くかのように思い込んでしまいます。けれども、ほんとうは、現代の私たちにも、明日の保証はないのです。ですから、私たちもまた、初代のキリスト者と同じように、私たちを永遠の安息に導き入れ、限りないいのちに生かしてくださる、「主」であるイエスが必要なのです。困難や苦しみの中にあるときには、とくに、イエスが力に満ち、愛にあふれた「主」であることを信じる信仰が必要です。

 信仰者たちが、様々な苦しみに出遭っても、人生を力強く生きていくことができるのはどうしてでしょうか。何事にも恵まれた生活をしていて、あまり心配がないからでしょうか。教会の仲間がいて励ましてくれるからでしょうか。その人が強い信念を持ち、頑張っているからでしょうか。いいえ、そうしたことは、第二、第三のことです。キリスト者が力強く生きていけるのは、キリスト者が信じ、頼っているイエス・キリストが、力ある「主」だからです。もし人が、手を動かすこともできない「偶像」や、愛もあわれみもない「自然の力」、また、気まぐれな「幸運の女神」を信じているだけなら、たとえ、その人がどんな強い信仰心を持ったとしても、そこからはどんな力も得られません。信仰者の力は、その人の力でなく、その人が信じるお方の力だからです。イエスを「主」として信じ、イエスが「主」として歩むことが、キリスト者の力となるのです。

 イエスをあらゆるものの「主」と信じる信仰から来る、勝利の宣言を読んで、このメッセージを終えたいと思います。ローマ8:31-39です。

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 (祈り)

 「王であるキリスト」を覚えるこの日曜日に、主であり、王であるイエス・キリストを見上げることができ、感謝いたします。この世は、キリストではなく、人間がこの世界の「主」だと言います。私たちは、「おまえが主なのだ。だから、神に従う必要も、他の人に仕える必要もない」というメッセージを絶えず聞かされています。そのようなものに惑わされることなく、聖書のことば、教会のメッセージに耳を傾け、イエスを「主」とする信仰を持ち、イエスを「主」とする生き方を確立することができるよう、私たちを助けてください。栄光のうちに、すべてを治めておられる主イエスのお名前で祈ります。

11/25/2012