年老いてもなお

詩篇92

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92:1 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。
92:2 朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。
92:3 十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。
92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。
92:6 まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。
92:7 悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。
92:8 しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。
92:9 おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。
92:10 しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。
92:11 私の目は私を待ち伏せている者どもを見下し、私の耳は私に立ち向かう悪人どもの悲鳴を聞きます。
92:12 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。
92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。
92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
92:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。

 一、長寿の目的

 10月6日(金)、キャンベル・メモリアル・チャペルで深田ナツノさんのメモリアル・サービスがありました。深田ナツノさんは、佐藤芳子姉妹のおられるサントマス・カンバレッセント・ホスピタルにおられた方で、佐藤マス・ジョイス夫妻の紹介で、私がメモリアル・サービスをさせていただくことになりました。サービスが始まるのを待っておりましたら、そこに川上悦子姉妹が来られました。深田ナツノさんは川上姉妹の親戚にあたる方とのことでした。川上姉妹と「世界は狭いですね。」と話し合ったことでした。深田さんの遺族にはクリスチャンの方があまりいないようなので、どのようにサービスを進めていこうかと思案していましたが、お孫さんのひとりが Amazing Grace と You Are My God のふたつの賛美を、きれいな声で歌ってくれました。深田さんの家族はとてもタラント豊かな人たちで、祭壇やレセプションテーブル、リフレッシュメントなどをクリエィティブなデザインで飾ってくださり、サービスと、その後のレセプションはとても順調に進みました。これは、メモリアル・サービスの記念品として配られた折り鶴ですが、紙ではなく、布で作ってあります。スターチをつけてはアイロンでプレスするという、とても手間のかかるものですが、たくさん作って、みなさんに配っておられました。プログラムシートもとても良く作られており、レセプションで上映されたスライドショーもとても良くできていました。ふだんは、ご遺族の方々にかわってプログラムシートを作ったり、祭壇のセッティングなど、アドバイスをさしあげているのですが、今回は、その必要がまったくなく、私のほうが学ばせていただくことが多くありました。カメラを持っていかなったので、テーブルのセッティングなどを写真に撮ってこれなかったのが残念でした。

 深田ナツノさんは、106歳まで元気で生きられた方で、私がメモリアル・サービスをさせていただいた中で最高齢の方でした。106歳というと、ちょうど1900年生まれということになります。深田ナツノさんは20世紀をまるまる生きてこられたわけで、彼女のパーソナル・ヒストリーは、そのまま20世紀の歴史でした。106歳まで元気だったというと、誰もが、彼女の長寿の秘訣を知りたいと思うでしょう。プログラム・シートに書かれている長寿の秘訣を紹介しましょう。

 私は、深田ナツノさんとは、カンバレッセント・ホームで一、二度お会いしただけですが、90歳、100歳というご高齢の方々には、今まで何人もお会いしてきました。サンディエゴにも長寿の方が多く、岩間さんという、当時100歳の方と、野村さんという当時90歳の方がおられましたが、100歳の岩間さんのほうが元気で、90歳の野村さんの手をとって助けてあげているというほほえましい光景を見てきました。今から50年前(1955年)の日本では、男性の平均寿命が63.60歳、女性が67.75歳でしたが、2005年の統計では男性が78.53歳、女性が85.49歳となりました。この50年で男性が15年も寿命を伸ばしています。80歳、90歳でもお元気な方がもっと多くなるでしょう。テキサスの大学の調査によると、教会生活を守っている高齢者は、実年齢よりも若々しい人が多いとのことです。教会には、一般の社会以上に、元気な高齢者が増えることでしょう。

 そういう方々を見ると、私は、今朝の詩篇に、「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14)とある、神の約束は、ほんとうに真実だと思うのです。聖書は、神に信頼する正しい人々をなつめやしの木、レバノンの杉にたとえています。年老いても衰えることなく、豊かな実を結ぶ姿が「なつめやし」に、神の祝福を受けて、世を去る日まで霊的に成長していく姿が「レバノンの杉」にたとえられているのです。神は、長寿の祝福を与えてくださいましたが、それは、私たちに、なつめやしのように実を結ぶことと、レバノンの杉のように成長することを期待しておられるからなのです。

 二、実を結ぶこと

 「なつめやし」は、聖書の舞台になっている中東に昔からあった木です。なつめやしは、たくさんの実を実らせ、その実が重くなると、垂れ下がってきて、木のまわりに鈴なりになります。なつめやしは、砂漠のオアシスに生えており、砂漠を旅する人たちは、なつめやしの実、デーツを食べて、過酷な砂漠の旅を耐えました。デーツには、鉄分、カリウム、マグネシウムなどの多くのミネラルや、体調をととのえる食物繊維、精神安定効果のあるビタミンA、B1、B2などがバランスよく含まれています。なつめやしの幹や葉は、乾燥させて家の屋根にし、樹木の繊維からは縄を作りました。なつめやしは、古代のイスラエルの人々にとって、とても親しみ深く、また、利用価値の高い樹木でした。イエスがエルサレムに入城された時、人々は、木の枝を手にとってイエスを出迎えましたが、それは「なつめやし」の枝だったと言われています(ヨハネ12:13 新共同訳)。

 神は、神を信じ、神に従う者に、実を結ぶことを期待しておられます。エペソ人への手紙5:11には「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」テトスへの手紙3:14には「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」と教えられています。どんなに長い人生を送ったとしても、そこに実が結ばれることがなかったら、なんとむなしいことでしょうか。主イエスは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため…です。」(ヨハネの福音書15:16)と言っておられます。主イエスの弟子である私たちは、実を結ぶことが期待されているのです。

 では、この「実」とは何でしょうか。神を知らない人々は、子孫や財産、名声や業績を残すことだと考えるかもしれません。しかし、聖書がいう「実」はそのようなものではなく、もっと霊的なものです。たったひとりでアメリカにわたってきた一世の方々が、結婚して多くのこどもや孫に恵まれ、アメリカの地で大家族になっていったというのは、日系人社会でよく見聞きすることです。それもすばらしいことであり、この地に残した実のひとつだと言えますが、たとえ子宝に恵まれなかった人でも、霊的な子孫を残すことはできるのです。まるで母親のような愛情で若い人々の面倒を見、息子、娘のような人を主イエスに導き、その信仰を育ててきた人たちを、私は何人か知っていますが、そうした人たちは、信仰の子どもという霊的な実を結んだのです。私の知っているひとりの姉妹は子どもがなく、ご主人とふたりで暮らしていました。自分の子どもがいないことを寂しく思ったかもしれませんが、そのようなことは少しも口に出さず、多くの若い人々を主イエスのもとに導いてきました。彼女は最近、ご主人を亡くされましたが、決してひとりぽっちになったのではありません。多くの信仰の息子、娘たちが、実の息子、娘にまさって、彼女を慰め、励まし、支えています。彼女は、ごく普通の女性ですが、神から頂いた愛を他の人々に分け与えることによって、その人生で素晴らしい実を結んできたのです。

 財産や名声、業績などといったものは、永遠には残りません。そうしたものはやがて消えていきます。しかし、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(コリント第一13:13)とあるように、神のことばによって養い育てられた信仰は、いつまでも残ります。私たちは「信仰」という、いつまでも残る実、他の人に感化を与え、次の世代に引き継ぐことのできる実を結びたいと思います。財産や名声、知識や業績などは、人々の注目を浴びはしますが、決して、他の人に感化をあたえ、その心に神への信仰を呼び覚ますことはできません。それができるのは、その人の持っている信仰だけです。信仰は信仰を持つその人にとっての力となるだけでなく、他の人をも変えていく力になるのです。信仰から希望が、希望から愛が生まれます。信仰がなければ、希望の実も、愛の実も結ぶことはできません。私たちは、まず、信仰の実を結び、多くの人にそれを分け与えるものになりたいと思います。

 三、成長すること

 神は、また、神を信じるものに、霊的な成長を求められます。木の寿命は、環境によって大きく変わりますが、桜の木で200年から300年と言われます。杉はもっと寿命が長く、1000年から1600年も生きるそうです。しかも、木は、その命が尽きるまで、絶えず成長し続けます。杉の木は年輪を加えるにつれて、根を張り、枝を広げ、天に向かって高く伸びるのです。神を信じる者も、同じように、その生涯の最後まで霊的な成長、信仰の成長を求めていくのです。

 信仰の成長には、もうこれで良いということはありません。私たちは、「きよめ」の恵みを信じる者たちですが、「きよめ」もまた成長し、深められていくものであって「きよめられてしまって、もうすることはない。」ということはあり得ません。ヨハネ8:1-11にある「姦淫の女」の記事で、この女を「石打ちにせよ。」と迫る人々に、主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。すると、イエスに迫った人々が「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」ました。「年長者から始めて」とあるように、人は長く生きればそれだけ罪を多く犯し、自分が罪人であることがより分かるのです。そして罪が分かれば、分かるほど多くの悔い改めに導かれ、悔い改めが深まれば深まるほど、よりきよめの恵みに成長することができるのです。

 確かに、年齢を重ねると、記憶力は衰退します。聖書のことばを、若い時のように暗記するのは難しくなるでしょう。けれども、聖書を学ぶというのは、たんに聖書の知識を詰め込むことではありませんから、たとえ記憶力が衰退しようと、長い人生の経験によって、また、神との交わりの積み重ねによって、神のことばを若い時よりもより深く理解できるようになるはずです。私は、若いころは、神学校で教わったとおり、聖書をヘブル語やギリシャ語で読み、文法や単語の意味を調べて、できるだけ正確に、そのことばの意味を理解しようと努めてきました。そのような努力は今もしていますが、年齢を重ねてからは、書かれたことばの意味だけでなく、どんな気持ちでそのことばが書かれたのか、神はなぜそのようなことばを書かせたのかに重点を置いて考えるようになりました。聖書を分析し、解釈し、新しいことを発見するという喜びだけでなく、みことばを黙想し、それを味わうという喜びを体験しています。これは、年齢を重ね、経験を積むことによって与えられた恵みだと思っています。

 イザヤ書56:3に、こう書かれています。「主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される。』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ。』と。」神は、神に頼る者をレバノンの杉のようにしてくださるのですから、たとえ、年を取って力が衰えてきても、神を信じる者は、「私は枯れ木だ。」などと言わないようにしましょう。神は、こうも言われます。「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(エゼキエル書17:24)短い年月で成長する木は、幹の密度が薄く、害虫に弱く、すぐに折れ、寿命は短いのです。しかし、レバノンの杉のように、長い年月をかけて成長する木は、1000年以上も生きます。神は、人間的なものを誇って、もう成長はいらないと言う「高い木」を低くし、神の前にへりくだって成長を求める「低い木」を高くされます。神は、財産や地位、知識や業績などという葉を身につけて自分を誇っている人の「緑の木」を枯らし、たとえ、自分は「枯れ木」のようだと思っていても、神のためにほんものの実を結びたいとへりくだって願い求める人には、その「枯れ木」にも、新しい芽を出させてくださるのです。

 どんな木もやがて寿命が来て、枯れていきます。時が来て、その場所から取り去られる時がきます。しかし、その実は残るのです。実の中には種があり、種の中には命があります。信仰によって撒かれた種は、あなたの家族の中に、コミュニティの中に、そして、多くの人々の中に芽生え、ふたたびそこで実を結ぶのです。レバノンの杉は切られても、神殿の材料として生かされました。神が与えられた人生を、最後まで、信仰の成長を求めて生き抜いた人は、神の家である教会をささえる、柱となり、梁となることができるのです。木は材木になった場合でも、その木が生きた年月、朽ちることなく、建物を支えると言われています。500年生きた木からとった材木で家を建てれば、家は500年持つそうです。教会は、神の宮、神殿です。クリスチャンはひとりびとりその材料です。教会は、信仰の年輪をしっかりと重ねてこられた方が多ければ多いほど、しっかりと建てられていきます。年月がたっても、この世の嵐にうちたたかれても、びくともしない教会になります。たとえ、その人が天に帰られたとしても、その人が残していった信仰は、教会を支える柱となり、梁となるのです。

 ですから、私たちは、先輩のクリスチャンが神の恵みを受けて、なつめやしのように多くの信仰の実を結ぶよう、また、レバノンの杉のようにその信仰が成長していくよう、祈りましょう。後に続く私たちも、しっかりとキリストにつながり、みことばに養われて、先輩のクリスチャンに続くものになりたく思います。そして、「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」とのみことばが真実なことを、人々にあかししていきたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちが、あなたのために実を結び、あなたに向けて成長していくことが、あなたのみこころであることを、教えていただき、感謝します。私たちが実を結び、さらに成長することができるため、私たちをあなたの家に植え、その大庭で育つものとしてください。キリストに根ざし、御霊の実を結ばせてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/22/2006