神を呼ぼう

詩篇86:1-17

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86:1 主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。
86:2 私のたましいを守ってください。私は神を恐れる者です。わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。
86:3 主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。
86:4 あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。
86:5 主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。
86:6 主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。
86:7 私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。
86:8 主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。
86:9 主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。
86:10 まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。
86:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
86:12 わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13 それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
86:14 神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求めます。彼らは、あなたを自分の前に置いていません。
86:15 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。
86:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
86:17 私に、いつくしみのしるしを行なってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。

 今年、私たちは、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)を年間聖句に選び、イエスの弟子としての訓練を受けようとしてきました。皆さんは学校でも、職場でもさまざまなトレーニングを受けてきたことでしょうが、イエスの弟子訓練はそうしたものとずいぶん違っています。学校でのトレーニングは知識を増やすことが、職場でのトレーニングは技能を向上させることが目的ですが、イエスの訓練はもっと内面的なもの、霊的なもので、信仰と人格の成長を目指しています。それは、わずか一、二年で達成できるようなものではなく、私たちが天に行くまで続く、生涯をかけての霊的な旅です。この霊的な旅の道しるべとして、さまざまなものがありますが、私たちは今、「12ステップ」から学ぼうとしています。

 12ステップの第一は「私は、自分の依存症にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」というものでした。自分のかかえている問題に、自分が全く無力であり、自分の問題が自分ではどうにもならないところにきているとしたら、「それじゃあ、全く絶望じゃないか。」と、多くの人は言うでしょう。しかし、そうではないのです。ステップ2では、「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常に戻してくれることを認めました。」と言っています。ここでいう「自分よりもすぐれた力」というのは、英語では "Higher Power" と書かれていますが、それは、ステップ3以降に出てくる「神」のことです。

 12ステップは、もとは、牧師によって、クリスチャンのために作られたものですが、これが、クリスチャンでない人々の間で用いられるようになってから、「偉大な力」は「神」でなくてもよい、電柱でも、バスでも、何でもいいということになってしまいました。電柱を見上げたときに、自分が依存症から脱却しなければならないと感じたなら、電柱が "Higher Power" であり、その人にとっての「神」であるというのです。同じようにバスが動くのを見て、自分が依存症のため家族やまわりの人々を傷つけてきたということを悟ったなら、バスが "Higher Power" であり、その人にとっての「神」であるというのです。依存症を持った人たちがお互いに助けあってそこから回復しようとするグループを「サポート・グループ」と言いますが、サポート・グループそのものが "Higher Power" や「神」になっている場合があります。サポート・グループは、回復のためにとても有益なものですが、サポート・グループ自体が人をいやすのではありません。また12ステップそのものも "Higher Power" でも神でもありません。そうしたものは神に代わることができません。聖書が教える、まことの神だけが、私たちを依存症から解放し、いやしと回復を与え、霊的に成長させてくださる力ある神なのです。

 一、力ある神

 では、聖書は、神がどんなお方であると教えているのでしょうか。

 第一に、神は、どんなものとも比べものにならない最高のお方であると教えています。神は "Higher Power" というよりは "The Higest Power" です。詩篇は、「主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。」(詩86:8-10)と言っています。神は、この大宇宙とその中にあるすべてのものを創造されたお方です。この世界に命をつくり、それを育んでおられるお方です。人間は、科学技術の発達によってこの世界にあるさまざまな法則を発見し、それを利用してきました。しかし、この世界に法則を定め、それを保っておられるのは神です。人間はなにひとつ法則を定めることはできませんし、それを変えることもできません。たしかに人間は遺伝子の成り立ちを解明し、それを操作できるようになりましたが、命そのものを造り出すことはできません。遺伝子の操作には、環境を破壊し、人類を滅ぼす危険が伴っています。人間は月にまで行き、太陽系の果てにまで宇宙船を飛ばすことができるようになりました。しかし、太陽系の外には、それと同じようなものが数え切れないほどあるのです。地球は太陽系に属し、太陽系は銀河系宇宙のに属しますが、大宇宙には銀河系宇宙のようなものが無数にあると言われています。人間が知ることができるのは、大宇宙の中では塵のように小さな部分であり、しかも、自分たちの住んでいる地球とそこにあるものについても、わずかなことしか分かっていないのです。最近地震が頻繁に起こりますが、まだ地震の予知はできません。地球の内部のことについて分からないことが多くあります。

 ところが、人間は、自分たちは何でも知っていて、何でもできると思い上がるようになり、神の力や栄光を小さいものにし、神を片隅に追いやってきました。神を人間のレベルにまで引き下げたのです。イザヤ書はそれに対して、こう言っています。「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。『それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。』と聖なる方は仰せられる。目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」(イザヤ40:21-26)イザヤ書では神は「聖なる方」と呼ばれていますが、「聖なる」という言葉のもともとの意味は、「他と比べるものがない」という意味です。神を人間のレベルに引き下げることは、神の聖なることを汚す罪です。神を信じるとは、神の栄光を小さいものいしてきた罪を悔い改め、神を聖なるお方とすることです。罪から救われた者は、「主よ。…あなたに並ぶ者はなく、…あなただけが神です。」と告白し、神を聖なるお方、大いなるお方として礼拝し、栄光を神にお返しするのです。

 自分の依存症がどんなに力があろうと、また、抱えている問題がどんなに大きかろうと、神に打ち破れないもの、神に解決できないものはありません。ステップ2の "Higher Power" は、他の何者にもくらべることのできない全能の神、聖なるお方です。私たちはこの神に自分の無力を委ねるのです。

 二、人格の神

 第二に、聖書は、神が「人格の神」であると教えています。詩篇は、神を「主よ。」(詩86:1)と呼んでいますが、この「主」という言葉は、目上の人に対して使う一般名詞ではなく、固有名詞です。神は「ヤーウェ」と言う名前を持ったお方です。また「私に御顔を向け、私をあわれんでください。」(詩86:16)とあるように、神は「顔」を持つお方です。私たちは人を顔と名前で覚えますね。なかなか名前を思い出せないときがありますが、それでも顔は思い浮かびますね。名前を聞いてまず思い浮かべるのが顔でしょう。顔は人格を表わします。神は霊であり、人間のように肉体に制限されていませんから、神の顔と言っても、それは形のあるものではなく、形を超えたもの、神のご人格そのものを意味します。神は名前と顔を持っておられ人格の神です。神は、単なる「力」でも、「原理」でも、「象徴」でもありません。知性を持ち、意志を持ち、感情を持っておられる人格者です。

 ジェームス・ヒューストン先生の『喜びの旅路』冒頭に、先生は「日本の読者へ」という一文を載せていますが、その中で次のように書いています。

日本文化について、私に最初に強い印象を与えたのは、雨の日に都心に向かう地下鉄から降りてきた人々でした。誰もが傘の中に隠れるようにして歩いていました。ですから人の顔は、ビニール袋に包まれているかのようにで、見ることができませんでした。それから、私は「自殺の小道」と呼ばれる地下鉄のプラットフォームへ案内されました。地下鉄で最も飛び込み自殺が多い場所だというのです。ホームには大きな鏡が設置されています。これは命を捨てないという最後の嘆願です。あなたが誰であるのか、誰一人わかってくれなくも、自分自身の顔をしっかりと見つめることによって、自殺を思いとどまってほしいというものなのです。このエピソードは「人の顔のない」日本文化の一面を示すものです。
ヒューストン先生は、日本語には "person" にあたる言葉がなく、そのため、クリスチャンまでもが人格を大切にし、教会でその回復と成長を求めるよりは、教会の活動そのものを目的にし、それをこなすことを最優先していると指摘しています。なぜ、そのような間違いが生じたのでしょうか。それは、神を "person" として受け入れていないからです。多くの人にとって神は小文字の "god" であって、大文字で始まる "God" という名を持った人格者ではないからです。聖書には、神がまるで、人間と変わらず、心配したり、安心したり、嘆いたり、大喜びしたりといった箇所が出てきます。ある人は、そうした箇所を全知全能の主権者にふさわしくないと言って、割り引いて読んでいますが、私は、そうした箇所に、神が、冷たい原理ではないことを見出して、とてもうれしくなります。神が人格をお持ちになり、豊かな感情を持っておられるからこそ、神のかたちに造られた人間も喜怒哀楽の感情を持つことができるのです。神は、人間や他の被造物とは比べものにならないお方、聖なるお方です。しかし、神は同時に、人間にご自分の人格の一部分をお与えになるお方です。神は、人間に神と共通する部分をお与えになることによって、人間が神の愛を感じ、また、神を愛することができるようにしてくださいました。イザヤ書57:15に「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」とあるように、愛の神は人間に知性と意志と感情という人格の要素を与え、愛によって人間とひとつになることを願われたのです。人格を持つ者だけが愛することができます。そして、人格を成長させることによって、人は、より高く、より深く、より広く、より長く愛することができるようになります。人格を持ち、人間を人格を持つものとして造ってくださった神を知り、信じ、神と交わることによってはじめて、人は、人格を成長させることができるのです。12ステップは人格の回復と成長を目指しています。12ステップの旅を続ける私たちは、この生ける人格の神とのまじわりを第一にしていくのです。

 三、恵み深い神

 第三に神は、恵み深い神です。詩篇は神の恵みについて、「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」(詩篇86:5)「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」(86:15)と言っています。神は聖なるお方です。罪を罪としてお裁きになるお方です。良心が麻痺すると神への恐れはなくなりますが、良心の敏感な人には、神の聖さや正しさは恐怖として迫ってくるでしょう。しかし、神の恵みを知ると、神を恐れながらも安心して神に近づくことができるようになります。12ステップのサポート・グループにオブザーバーとして参加した人が、みんなが自分たちの弱さや罪、欠点を話しはじめると、「よくも、そんなに正直に自分の弱さが認められますね。」と驚いたことがありました。もし、神がただ恐ろしいだけのお方であったら、できるだけ、自分の罪も弱さも隠しておいたほうがよいと考えるでしょう。しかし、聖書によって、また、体験によって、神の恵みやあわれみを知っている者は、神の前に正直に出ることができるのです。

 そして、神が恵み深いお方であることを知る人は、神が祈りを聞いてくださることを確信することができます。詩篇は「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」(詩篇86:5-7)と言っています。人間は、誰もが「祈る」心を持っています。クリスチャンでない人たちも、手紙に「お祈りします。」と書きますが、誰に祈るのかを知らないでいます。その祈りが聞かれるのかどうかもわかりません。それは「祈り」というよりは、たんなる「期待」にすぎません。しかし、恵み豊かな神に祈る者は、このお方が祈りを聞いてくださることを知っており、確信を持って祈ることができるのです。

 「苦難の日にあなたを呼び求めます。」とありますが、これは、「苦しい時の神頼み」という表現を思い起こさせます。しかし、今まで、あまり祈らなかった人が、苦しみに遭って神に祈るようになるというのは、間違ったことではありません。神がその人に苦しみをお与えになったのは、苦しみに遭っている人を祈りによってご自分のもとに近づけるためです。頑固な私たちは、苦しみに遭わなければ、自分の弱さを認めて神の力に頼ったり、自分の罪を認めて神のあわれみを求めたりしないからです。人は多くの場合、苦しみによって神に近づきます。苦しみに遭っても祈らずに、神とのまじわりを避けて通るよりは、苦しみを通して神に近づいたほうが、永遠という観点から見れば、幸いなことなのです。神は、私たちに「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)と言っておられます。

 詩篇は「わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。」(詩篇86:2)と祈っています。神を知り、心から祈る者は、神を「わが神」「私の神」と呼び、みずからを「あなたのしもべ」と呼びます。祈りは、単なるお題目ではありません。神を「私の神」と呼び、自分を「あなたのしもべ」と呼んで、神と交わることです。「私とあなた」という関係に入ることです。私たちは、祈りによって、力ある、恵み深い神と、人格のまじわりの中に入るのです。第2ステップ、「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常に戻してくれることを認めました。」の「自分よりもすぐれた力」とは、このような神です。自分の弱さを認め、罪を悔い改めて神に近づくなら、この力ある、恵み深い神が、かならず私たちに救いを与えてくださいます。ですから、神を呼び求めましょう。まごころから、神を呼び求めましょう。神は私たちの祈りを待っておられます。この確信を持って、詩篇の最後の3節を私たちの祈りとして主にささげましょう。

 (祈り)

 主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。私に、いつくしみのしるしを行なってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます。

9/16/2007