人間と神の恵み

詩篇8

指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌
8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

 先週、詩篇19篇を学びました。詩篇19篇を歌ったダビデは、自然を通して私たちに語りかけて来る神のことばをほめたたえることからはじめましたが、最後には、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」との祈りに導かれました。神の偉大さを仰ぐ人は誰も、この神の前に謙虚にさせられるのです。人は神を知るまでは、自分の本当の姿が見えません。しかし、神を知る時、自分が何者なのかを知ることができるのです。詩篇8篇も、神への賛美から始まっていますが、やがて「人とは、何者でしょう。」という問いかけに導かれていきます。「人との何者なのか。」人間だけを見つめ、調べても答えは出てきません。偉大な神を仰ぐとき、神と人とのかかわりを理解する時に、その答えを得ることができるのです。

 一、神の偉大さ

 神学校で勉強していた時のことですが、私は、この詩篇をヘブル語で覚えたことがあり、ます。1節の「なんと力強いことでしょう」といわれている「なんと」は、ヘブル語で「マー」と言います。日本語でも驚いた時に「まぁ!」と言いますから、覚えやすいですね。イスラエルがエジプトを脱出した後、荒野で食べ物がなくなった時、神は不思議な食べ物を、毎朝、荒野に降らせてくださいました。それを見た人々は、「あれは、いったい何だ」という意味で「マー、ナー」と言いました。それから、その食べ物は「マナ」と呼ばれるようになったわけです。「マー」という言葉は、「マナ」の語源にもなっています。

 しかし、ダビデが、「マー」と言って、こんなにも驚いているのを不思議には思いませんか。ダビデは、幼いころから神を知り、神に信頼して歩んできた人です。あの巨人ゴリアテを倒した時に、ダビデは、ゴリアテに向かって「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と言うことが出来たほどの信仰を持っていました。ですから、ダビデにとっては、神が偉大で、力強いことは、当然のこと、分かりきったことだったはずです。ところが、ここで、ダビデは、神を思う時、まるではじめて紙の偉大さに触れたかのように、その偉大さに驚きの声をあげ、神をほめたたえているのです。神を礼拝する私たちにも、そのような新鮮な驚きがもっともっと欲しいですね。アメリカでもっともポピュラーな讃美歌は "Amazing Grace" で、私たちは「驚くばかりの、恵みなりき」と歌いますが、私たちは、本当に、神の恵みに、驚いているでしょうか。それを口先だけで歌うのでなく、言葉通りに、神の恵みを、いつも驚いていたいものです。

 神の偉大さは、2節に良く表われています。口語訳はここを「あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。」と訳しています。ここで言われている「幼子、乳飲み子」というのは、年齢の若い人々というだけでなく、いちばん力のない人たち、弱い人たちのことを言っています。幼子はまだ親から独立していません。親に従い、親に頼らなければなりません。乳飲み子ならなおのことです。ですから、「幼子と乳飲み子たち」とは、自分の弱さを知って、神に信頼して生きている人々のことを指すのです。神がいなくても何も困らない「強い」人たちよりも、神に頼るしかない人々が、より神の偉大さをほめたたえることができるのです。イエスは、このことばを、エルサレムに入城なさった時に引用しておられます。その時、神殿の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て祭司長や律法学者たちが腹を立て、イエスに「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」と言いました。イエスはその時、彼らに「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」と答えました。(マタイ21:15-16)イエスは、権力者たちによって賛美されるよりも、「幼子と乳飲み子たち」によって賛美されることを喜ばれたのです。

 新改訳はここを「あなたは、幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。」と訳しています。これは、神が、ご自分の力を確立されるのに、どんな後ろ盾も必要としないということを言っているのです。人間の場合、権力の座に着くためには、それをサポートする人が必要です。一国の大統領や総理大臣になるには政党の有力者や、資金を提供してくれる財界の人々、ある場合には、民衆の人気などといったのサポートが必要ですし、そうしたものなしには、権力を保つことができません。それで、どこの国の大統領や総理大臣でも、そうした人々を気にして、正しい政治ができない場合が多いものです。しかし、神はどんな有力者も必要とされません。神は、ご自分の正義を貫き通されるお方なのです。イエスが「王」としてエルサレムに入城なさったのは、ユダヤの指導者の権力によってでも、ローマの権力の後ろ盾によってでも、民衆の人気によってでもありませんでした。イエスはただ、神によって王となられたのです。永遠の王であるイエスは人間に頼る必要は何もなかったのです。私たちも、「幼子、乳飲み子」となって、偉大な主を大いにほめたたえようではありませんか。

 二、人間の小ささ

 3-4節では、神の偉大さと人間の小ささとが比べられています。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星をみますのに、人とは何者なのでしょう。」「人」を表わす言葉には「アダム」「イシュ」「ベン」「ネフェシュ」など十種類近くありますが、ここでは「エノーシュ」という言葉が使われています。それには、「弱いもの」「もろいもの」という意味があります。大宇宙にくらべて人間はなんと小さいものでしょう。他の動物に比べても、人間は「弱く」「もろい」ものです。人間には、他の動物のように身を守る角や牙、また爪がありません。危険から逃れるため早く走る脚も、ハリネズミのように攻撃から身を守るものも備えていません。他の動物の赤ちゃんは、生まれてしばらくすれば、自分の脚で歩き、自分の力で餌を食べることができますが、人間の赤ちゃんは、一年間も、なにひとつ自分でできないのです。それに、人間はとてもセンシティブで、ちょっとした環境の変化ですぐに具合がわるくなったりしていまいます。人間から見れば、ゴキブリなどの方がもっとタフかもしれません。

 しかし、人間は、他の動物にくらべ決して強くはないのに、他の動物を従えています。この大宇宙に押し潰されてしまうような存在なのに、この宇宙にある法則をさぐり出し、その法則を利用して、自然の力を活用し、今では宇宙空間まで行くことができるようになりました。人間以外のどの生物も、宇宙を探究し、そこに働く法則を探り出したものはありません。しかし、人間は自分よりもはるかに大きな宇宙を理解し、その中にある見えない法則を見出すことができるのです。パスカルは、人間の弱さ、小ささと、その知恵と偉大さとを「人間は考える葦である」という言葉で表しました。人間は河辺に生える葦のように風が吹けば折れてしまう弱いものなのに、人間はその小さな存在に大きな宇宙を取りこむことができるというのです。

 では、いったい誰が、人間を「考える葦」にしたのでしょうか。小さく弱いものがなぜこのような知恵と力を持つようになったのでしょうか。聖書は、神が人間をそのように造ってくださったからだと教えています。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」(5-6節)人間の尊厳や能力は、神の人間に対する特別な愛によるのです。創世記2章にあるように、神は人間を神のかたちに似せて造られました。人間が神の「かたち」に似せてつくられたというのは、その外形を言っているのではありません。神は人間のように肉体にしばられないお方です。「神のかたち」というのは、神の性質のことです。神が知恵をお持ちのように、人間にも他の動物にまさる知恵が与えられました。神が愛や真実をお持ちのように、神は人間を、神と人とを愛することができるもの、また、真実を求めて生きるものにしてくださったのです。他の動物は、ゴキブリのように「たくましく生きる」ことや、チンパージーのように「うまく生きる」ことは出来ても、「より良く生きる」ことはできません。人間は、神のかたちに造られたものとして、神が正しく、きよいお方であるように、正しく、きよくあることを求めて生きるのです。人間は、どこまで行っても、神に造られたもの、被造物であって、神に、造り主になることはありません。しかし、神は、造られたものの中で最高のものを、人間に与えてくださり、神の姿に向かって生きていくように造られたのです

 5節に「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」とあるところは、「人を、神の後に立つ者とされた」と解釈することもできます。神が導き、人はそれに従うのです。しかも、奴隷のようにしてではなく、神と心と心を通わせ、神を愛し、神の恵みに答えて従うのです。神は私たちを奴隷としてお造りになったのでなく、この世界を治めるパートナーとして造られたのです。

 ところが、アダムは神の後に従うよりも、神の前に出ようとして、神に逆らいました。私たちも、造り主である神に逆らい、神が中心ではなく、自分を中心にした物の考え方、生き方をしてきました。アダムが「神のようになろう」として、みじめな結果に終ったように、現代の私たちも、「神にとってかわろう」として、逆に、人間らしさを失い、他の動物よりも低い生き方をするようになってしまいました。人間は進化の最高の姿であると言いながら、造り主である神を否定して、進化どころか、堕落への道をたどってしまいました。「神を信じる」ことが、人間を不自由にし、人間らしさを損なっていると考えられた時代もありましたが、今、人々は、造り主に立ち返るところに、人間らしさを取り戻し、本当に人間らしい生き方ができるということに気づきつつあります。

 神は、私たちが、神のかたちを取りもどし、いったんなげ捨ててしまった「栄光と誉れの冠」を取りもどすことができるために、救い主イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。礼拝前のバイブル・クラスで学んでいるように、旧約にはイエス・キリストの預言が数多くありますが、6節もその預言のひとつです。6節はコリント第一15:27に引用されて、そこにはこう書かれています。「そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死をも滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。」(コリント第一15:24-27)最初のアダムは、罪を犯し失敗しました。しかし、第二のアダムであるキリストは、罪のない生涯を送りました。罪なく生きただけでなく、私たちにその正しさを分け与えるため、罪のない方が罪ある者たちのために死なれたのです。イエス・キリストを信じる者は、イエスによって、もう一度人間本来の姿を取りもどすことができるのです。

 詩篇8篇には、神の偉大さと人間の小ささが比べられているだけではありません。そこでは人間の小ささと、その人間に対する神の恵みの大きさとが比較されていました。ギリシャ語で「人間」は「アンスローポス」と言い「上を見る者」という意味があります。かって、日本のある哲学者が、「今や、若者たちは、まるで鶏のように地にあるものをついばむことに懸命で、理想を求め、上を見上げることを忘れている。」と嘆いたことがあります。天を見上げ、天におられる神を仰ぎ見、神の偉大さとその恵みの大きさに新鮮な驚きを持つこと、そこに人間の素晴らしさがあり、人間らしい生き方があります。そのように、神を見上げ、神をほめたたえながら生きる私たちでありたく思います。

 (祈り)

 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」私たちはあなたの偉大なお名前をほめたたえるには、あまりにも小さい者たちですが、そのような私たちに、あなたは、あなたのみこころを知らせてくださいました。あなたは、全宇宙のなかから、地球上のすべての生き物の中から人間をお選びになり、あなたのみこころを行うものとしてくださいました。その人間の中からも、あなたは力ある者や優れた者ではなく、自分の弱さ、小ささを知る者たちを選んで、あなたをほめたたえるものとしてくださいました。心から感謝します。あなたの偉大な栄光を見る時、常に私たちの小ささを覚えさせてください。そして、私たちの小ささを知る時には、あなたの恵みの大きさをもっともっとほめたたえるものとしてください。私たちの主、イエス・キリストの御名で祈ります。

7/14/2002