欠けがあるから

詩篇8

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8:1 【聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌】主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
8:6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
8:7 すべての羊と牛、また野の獣、
8:8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
8:9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

 一、欠けある人間

 神は人をどのように造られたのでしょう。詩篇8:5に「ただ少しく人を神よりも低く造って」とあります。「低く造って」というのは、もとの言葉、ヘブライ語で「ハサル」と言い、「欠ける」という意味があります。

 この言葉は旧約聖書の数多くの箇所で使われていますが、創世記18:28にわかりやすい例を見ることができます。その箇所で神はソドムの町を滅ぼそうとしていることをアブラハムに打ち明けています。それでアブラハムは甥のロトが住むその町のためにとりなし、願いました。アブラハムは、最初、こう言いました。「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。」(創世記8:23-24)アブラハムはへりくだってですが、熱心に、誠意を込めて神に願いました。神はそれに答えて「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」(創世記8:26)と言われました。けれども、アブラハムの心に不安が横切りました。ソドムは大きな町ですから五十人くらいは正しい人がいるだろうと思ったのですが、もし、五十人いなかったらどうしょうと考えたのです。それでこう言いました。「もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか。」(28節)神は四十五人いたら滅ぼさないと答えました。アブラハムは、それでも心配だったので、この後、四十人、三十人、二十人と粘り強く神と交渉し、最後に「十人ではどうでしょうか」と神に願いました。神はソドムの町にたった十人しか正しい者がいなかったとしても、その十人のためにその町を滅ぼさないと約束されました。この箇所は、神のあわれみがどんなに大きいか、その神のあわれみを引き出すのに祈りがどんなに力があるか、粘り強く祈ることや親族の救いのために祈ることがどんなに大切なことかを教えている大切な箇所です。そのことをもっと学びたいのですが、今朝は、「五人欠けたなら」という言葉だけに目を留めておきましょう。

 この例にあるように「欠ける」(ハサル)という言葉は、完全な状態に及ばないこと、足らないこと、乏しいことを表わす言葉です。 ですから、詩篇8:5の「低く造って」は、直訳すれば「人を欠けさせた」「人を欠けある者として造られた」という意味になります。人が「欠けある者」だというのは、神や自然とくらべた時の人間の小ささを表わしています。詩篇8:3に「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います」とあります。この詩を書いたのはイスラエルの王ダビデですが、ひとり夜空を仰いで、大宇宙の中で自分は塵や埃のような者だ、この大宇宙を造られた神の前では、自分は何者でもないと感じたのでしょう。人は小さく、もろく、その一生もまた、はかないものです。詩篇103:15-16ではこう歌われています。「人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。」

 上智大学で聖書学を教えておられる雨宮 慧先生が、一般教養の科目で、こうしたことを教えたあと、学生に講義の感想を書いてもらいました。するとその中に「だったら、造るな」という乱暴なことが書いてあったそうです。こんなことを書いた学生は、おそらく先生の講義をちゃんと聞いていなかったのでしょう。神が人を「欠けある者」として造られたことを、神が人を「欠陥品」として造られたかのように考えたのかもしれません。「欠けある者」というのは、決して「欠陥品」という意味ではありません。神はすべてのものを見事に造られました。創世記の創造の記述には「神は見て、良しとされた」という言葉が繰り返されています。みなさんが何か品物を買ったとき、そこに「合格」とか「検査済み」などといったスティッカーが貼ってあるのを見たことがあると思います。それはその製品が欠陥品ではないというしるし、また保証です。神もまた、この世界をお造りになったとき、そのひとつひとつを「見て、良しとされた」のです。それが決して欠陥品ではないという保証をしてくださったのです。ですから、神の造られた人間が欠陥品であるわけはないのです。

 いや、欠陥品でないばかりでなく、人間は神が造られた他のどんなものにもまさっているものです。聖書は、この世界のあらゆるものの中で人間だけを「神のかたち」に造られたと言っています。ですから、詩篇8:5の「低く造って」、あるいは「欠けある者とした」という言葉は決して人間を卑しめた言葉ではありません。それはその後に、「神よりも少し」という言葉が続くことからも分かります。神は人間をほんの「少し」だけ神よりも低く造られました。これは、言い換えれば、人間は神に次ぐ者として造られたということになるのです。

 詩篇8篇でダビデは「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(4−6節)と歌っています。大宇宙を見上げ、それを造られた神を思って、自分の小ささに気付くだけでなく、同時に、そんな小さな人間を、神の次の位置に置き、造られたすべてのものの上に置いてくださった神の愛に驚き、感動しているのです。

 皆さんは、造られたすべてのものの中で、自分が最も神に近い者であることをご存知でしょうか。神に一番近く造られた者として神に近づこうとしているでしょうか。

 二、欠けと神のかたち

 人間は「神のかたち」に造られました。しかし、このことは人間が神の複製品として造られたとか、人間自体が神々しい者として造られたということではありません。人間が持っている「神のかたち」とは、そこに神が入ってくださる場所です。神が人間にある「神のかたち」の中に入り、そこに住むことによって「神のかたち」は意味を持つのです。ちょっと卑近なたとえですが、「神のかたち」を「たい焼き」にたとえてみましょう。「たい焼き」は、魚の形に刻んだくぼみの中に粉を溶かしたものを入れ、アンコを乗せ、もうひとつの型をかぶせて焼きます。人間に与えられた「神のかたち」は、この「型」のようなものです。「たい焼き」の型があっても、中身がなければ、あの魚の形をした食べ物は出来上がりません。同じように、その中に神を迎え入れることなしには、「神のかたち」はからっぽのままなのです。「神のかたち」に造られた人間は、その心に、生活に、人生に、神を受け入れ、神がその中で働いてくださってこそ、「神のかたち」としての人間になることができるのです。

 「たい焼き」の「型」を作るためには、金属を削って窪みを造らなければなりません。神が人を「欠けさせた」と言われているのは、人のうちに、神がお入りになる「型」、「神のかたち」を造るためだったのです。人に与えられた「欠け」とは、実は、人に刻まれた「神のかたち」のことだと言ってよいと思います。自分のうちにある「欠け」に気づくこと、そして、それが神以外の何者によっても決して満たされないことを知って、この「欠け」を満たしていただくため、神を迎え入れること、それが信仰なのです。

 子どものおもちゃに、丸、三角、四角、星などの形をした穴のあいた箱に、同じ形のブロックを入れていくものがあります。丸い穴に四角いブロックを入れようとしても入りませんし、星形をした穴に三角のブロックを入れようとしても入りません。同じように、人のたましいの中にある「神のかたち」には神ご自身しか入ることができないのです。それなのに、人は、そこに神以外のもの、金銭や財産、地位や名声、異性や快楽などを入れようとして、結局は満たされない人生を送ってきました。自分には何の「欠け」もない、神に頼る必要がないと考えてきました。神を締め出し、神なしで完全になろうとしてきたのです。その結果、人間は「神のかたち」を損ない、いびつなもの、欠陥を持つ者となりました。欠陥のある人間が作る社会もまたいびつなもの欠陥だらけのものになりました。社会は正義を失い、犯罪が生まれました。人は愛を失い、差別が生まれました。差別から憎しみが生まれ、憎しみから戦争が生まれました。人間と人間の社会が欠陥だらけなのは、人間が神から与えられた「欠け」を認めず、神のように完全な者になろうとしたからです。アダムとエバは「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)という誘惑にやすやすと乗ってしまいました。「神のようになる。」これがこの誘惑の中心です。神に「善悪」は決めてもらう必要などない、自分が善と思うものを善、悪と思う者を悪とすれば良いと考えたのです。人間はあらゆることについて善悪を判断できるほど賢いのでしょうか。いいえ、それができるのは神だけです。人間は自分が完全な者、神になろうとし、そのために最初に持っていた良いものを失くしてしまったのです。

 皆さんも、それぞれの人生を振り返ってみるとき、自分のこころが満たされなかったのは、自分にある「欠け」を神以外のもので満たそうとし、自分の努力で完全なものになろうとしていたことに気づかれると思います。クリスチャンであれば、自分が神の立場に立とう、神にとってかわろうなどと考えないかもしれません。しかし、知らず知らずのうちに、神だけが自分の「欠け」を満たしてくださることを忘れてしまい、神への信頼を失くしていることがあります。

 三、欠けを満たすもの

 では、神以外のものや自分の力でこの「欠け」を満たそうとして、気がついたら欠陥だらけの自分になっていたとしたら、どうすればよいのでしょうか。大丈夫です。神は、あらゆる「欠け」を満たしてくださるお方です。アブラハムのとりなしを思い出してください。五十人に五人欠けるだけでなく、四十人欠けても、神は「その町を滅ぼさない」と言われたではありませんか。五十人のうち四十人は80パーセントにあたります。人間の基準では80パーセント大丈夫なら、なんとか、受け入れるでしょうが、神は、80パーセントがだめでも、なお、受け入れてくださるというのです。なんという大きな恵み、あわれみでしょうか。神を信じるとは、この恵みの神を信じ、そのあわれみを願い求めることです。そのとき、わたしたちの人生の欠陥は修復されていきます。わたしたちのたましいの「欠け」が満たされるとき、そうした欠陥を通しても、神の恵みが現れてきます。「欠け」があることは恥ずかしいことではありません。もっと恥ずかしいことは、「欠け」があるのに、何の「欠け」もないかのようにふるまうことです。自分の「欠け」を受け入れるのでなければ、それは決して満たされることはありません。「欠け」は神の恵みによって満たされるためにあるのです。「欠け」があるからわたしたちは神につながっていられるのです。「欠け」があるから、それを通して神の恵み、力、栄光を表わすことができるのです。

 ダビデは「欠ける」(ハサル)という言葉を使って、こう歌いました。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」(詩篇23:1)「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。」(詩篇34:9-10)「わたしには乏しいことがない。」「主を求める者は良き物に欠けることはない。」これは信仰の生涯を貫き通した人の証言ですが、同時に、神の約束の言葉です。神がわたしたちのうちに造ってくださった「欠け」、そこに神をお迎える者には、神によって満たされた日々が約束されているのです。礼拝で、また、日々の生活の中で、この約束の成就を見ながら、この人生を歩みたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたがわたしたちにお与えになった「欠け」が、じつは、あなたの恵みであることを知ることができ、感謝します。これから守る晩餐式で、その恵みを味わい、あなたによって満たされる喜びを体験させてください。救い主イエス・キリストによって祈ります。

10/5/2014