年老いた時も

詩篇71:9-18

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71:9 年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。
71:10 私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。
71:11 彼らはこう言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕えよ。救い出す者はいないから。」
71:12 神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。
71:13 私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。
71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。
71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。
71:16 神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。
71:17 神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。
71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。

 日本の国立公園や県立公園などに行きますと、「残していいのは、足跡だけ。取っていいのは写真だけ。」という看板を見かけることがあります。「ゴミを残さないように、草花を取っていかないように。」ということを訴えているのですが、なかなか気の利いたことばです。ある人が「読書と旅行は人生の糧である。」と言いましたように、素晴らしい自然を見たり、違った国や場所で、さまざまな人に触れるのは、人生を楽しく、豊かにしてくれます。そして、旅行に行ってたくさんとりたいのは写真であり、いつまでもとっておきたいのは思い出でしょうね。しかし、中にはとりたくないものもあります。それは「年齢」です。若い人たちの話題というと、男性ならスポーツのこと、女性ならファッションのことなどですが、ある程度の年齢になると、話題はもっぱら健康のことになり、こんな食べ物がからだに良いとか、どの病院の医者が信頼できるかなどというところに話が向かっていきます。そして、最後に聞かれるのが「年はとりたくないね。」ということばです。年をとるにつれて、からだはすこしづつ衰えて行きます。若い頃は無理をしても平気だったことが、年をとると、もうできなくなってしまいます。うんと若いころは、精神的に未熟で、ちょっとした苦痛にも耐えることができないことがありますが、ある程度の年齢になると、少々のことではへこたれなくなります。ところが、さらに年をとると、壮年期には耐えることができた精神的苦痛にも耐えられなくなって、打ちのめされてしまうことがあります。老年期になると、肉体面ばかりでなく精神面でも衰えを感じることがあります。人生の残り時間を考えて、あせったり、絶望してしまうことがあるかもしれません。年を「取る」かわりに、力や勢い、地位や尊敬、健康や財産を「取られて」いるようにも思えます。そう考えると、ますます「年はとりたくないものだ。」と思ってしまいますが、年をとるのを防ぐ手立てはありません。それなら、楽しみながら、賢く、また意義深く年をとっていくしかないと思いますが、どうしたら上手に年をとることができるのでしょうか。年をとってもなお神をたたえながら生きてゆける秘訣はどこにあるのでしょうか。詩篇71篇からそのことをご一緒に学びたいと思います。

 一、神への信頼

 この詩篇は、イスラエルのダビデ王が、老齢になってから作ったものだと思われています。ここには、「年老いても」という言葉が二回出てきます。9節に「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」とあり、18節に「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。」と書かれています。一般の社会では、ある年齢までは「若い」と言われ、ある年齢を過ぎても「彼はもう年だ。」と言って軽んじられます。年齢だけで人を見るのもおかしなことですが、競争社会ではいつでも、次の世代が、先の世代にとってかわろうとしています。年老いた人々は、年齢を重ねて力が衰えてくると、自分の立場を若い人たちに奪われてしまうように感じ、不安を抱えて日を過ごすということも多くあるようです。

 この詩を作ったダビデも、年老いてから、若い世代によって、王座から追放されたという経験を持っています。ダビデは神を愛し、とても良い政治をしたのですが、どこの国でも民衆というものは飽きっぽいもので、ダビデが年をとってきて、王としての威光にかげりがさしてくると、若い指導者を求めるようになりました。ダビデの息子たちの中でも、アブシャロムは乱暴者で、彼は王の怒りにふれて首都エルサレムから追放されていたのですが、計略を働かせてエルサレムに戻ってきました。しばらくは謹慎中だったのですが、ダビデの部下を脅して謹慎を解かせ、王位を狙って不平分子を集めはじめました。そのことが、サムエル記第二15:2-6に次のように書かれています。

「その後、アブシャロムは自分のために戦車と馬、それに自分の前を走る者五十人を手に入れた。アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」

 この部分で「こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」というくだりはドキッとさせられますね。アブシャロムは一方では策略をめぐらしながら、もう一方ではいかにも、国を愛する正義のリーダのように振舞いました。自分の父親から王位を盗み取るために人々の心を盗みとったのです。お金や品物は盗まれたならすぐ気が付きますが、人は、心を盗まれていてもなかなか気が付かないのです。あとになって、「どうしてあんなことに賛成したのだろう。あんな人間についていったのだろう。」と思うことは、現代も、政治の世界やビジネスの世界でよく見られますね。神を神とも思わず、自己実現だけを目的にしている人々は、その目的を達成するために、人の心を盗むのです。そのことはいつの時代も変わりませんから、私たちは、主イエスにささげた私たちのこころを盗まれないように、みことばにより、聖霊により守っていきたいものです。ともかく、アブシャロムは四年間、計略を練りに練って、ついに反乱を起こしました。クーデタの知らせを聞いたダビデはエルサレムから逃れ、エルサレムはアブシャロムの手に陥ったのです。

 ダビデは若い頃、前の王サウルに命を狙われ、荒野を転々としたことがあります。その時のダビデはまだ若く、サウルのしつこい追及の手にも屈しませんでしたが、アブシャロムの反乱の時には、ダビデはすでに年齢を重ねており、自分の敵が自分の息子であるという悲劇的な出来事のため、ダビデは、このことにまったく打ちのめされてしまいました。「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」との祈りはこの時の祈りだったのかもしれません。ダビデのこの祈りに、神は答えてくださり、アブシャロムの反乱は失敗に終わりました。ダビデはふたたびエルサレムに戻ることになりました。このことは、力のある者だけが、勢いのある者だけが勝つのではないということを教えています。神に信頼するものが勝利を得るのです。神が私たちの味方であるなら、私たちがどんなに知恵や力に乏しくても、力ある者、勢いのある者に勝つことができるのです。「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。」との祈りに、神は、イザヤ46:4で「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と答えておられます。社会は、年をとった人々を軽んじたり、退けたり、冷たくしたりするかもしれませんが、神は、私たちがどんなに年齢を重ねていったとしても、神は変わりない愛で、私たちを愛し、守り、いつしんでくださるのです。この神の永遠の愛、変らない愛により頼み、神の力と助けとを体験しようではありませんか。

 二、神への奉仕

 楽しく、賢く、意義深く年齢を重ねていくには、第一に、神に信頼することですが、第二には、神への奉仕を忘れないことです。多くの人は「年をとってしまったら、若い人のようには神に仕えることができない。」と考えていますが、ほんとうにそうでしょうか。確かに教会で力仕事をするのは無理でしょうし、何かの部門をまかせられて運営するというのもかなりのエネルギーのいることです。遠くまで、しかも夜のフリーウェーを運転していくのも徐々に出来なくなるかもしれません。しかし、何歳になっても出来ること、しかも、神が一番喜んでくださる奉仕があるのです。それは「礼拝」です。神を賛美し、神をあがめ、神に祈り、神のみことばに聞くことです。神は私たちが何をするよりも、礼拝をささげることを一番喜んでくださいます。神は、私たちが礼拝するために、私たちを造られたといってもよいのです。このことは、最近良く読まれているリック・ウォレン牧師が書いた "Purpose Driven Life" (邦訳『人生を導く五つの目的』)という本にも、くわしく書かれています。その本の中でリック・ウォレン牧師は、すべての人は人生の目的を神から与えられており、それは次の五つであると言っています。

第一、あなたは神の喜びのためにデザインされた。
第二、あなたは神の家族のために形造られた。
第三、あなたはキリストのようになるために造られた。
第四、あなたは神に仕えるために形造られた。
第五、あなたは一つの使命のために造られた。
この五つの目的をそれぞれ一週間づつ黙想する四十日間のプログラムを教会全体でやろうという機運が、英語部の執事から提案され、今、日英合同執事会で話しあっています。私たちの教団では、ウェストロスアンゼルス教会が今年の2月にこのプログラムを実施しています。とても良いプログラムなので、私たちの教会でも実現すると素晴らしいと、個人的には思っています。五つの目的のうちの第一、「あなたは神の喜びのためにデザインされた。」というのは、礼拝のことをさしています。礼拝で私たちが神を喜ぶこと、それが神の一番喜んでくださることであるというのです。リック・ウォレン牧師が言っていることはどれも、目新しいことではなく、聖書にはっきり書かれていることであり、教会がずっと大切にしてきたことばかりです。詩篇71:6に「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。」とあるように、私たちは神を礼拝するために造られました。エジプトから救い出された神の民が、その後最初にしたことが、神殿を作って神を礼拝することだったように、私たちは、神を礼拝するために、キリストによって救われたのです。神を喜ぶことが私たちの人生の目的であるということは、今から357年も前に英国で作られた「ウェストミンスター小教理問答」(1647年)にすでに、こう書かれていました。
問一、人のおもな目的は何であるか。
答え、人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。

 どんなに年を重ねても、私たちは神を礼拝することができます。神を賛美し、神に祈り、神を喜ぶ礼拝からリタイアすることはないのです。たとえ、日曜日の礼拝に出席できなくなったとしても、伊藤兄弟のお母様のように、百歳になっても、賛美を歌って神を礼拝することができるのです。天に召された後、彼女はもっと高らかに、神を賛美しているでしょう。天国では、私たちはすでにキリストのように変えられています。そこではすべての人が神を見て知っていますから、伝道する必要もありません。人生の五つの目的のほとんどは天国ではもう果たされているのです。しかし、天国でも永遠に続くのは神への礼拝です。18節では「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」とあります。ダビデの賛美は年老いて衰えていくものではありませんでした。「しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。」(14節)「私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。」(22-23節)と言っているように、ダビデは老年になってさらに心をこめて神を礼拝しています。私たちもダビデのように、何歳になっても、礼拝という最高の奉仕に励むものでありたく思います。

 三、神の訓練

 楽しく、賢く、また意義深く年をとっていく秘訣の第三は、若い時に神の与えてくださる訓練を軽んじないことです。年老いても、神の力をいただき、神を喜び、神に喜ばれる人生は、一朝一夕にできあがるものではありません。若いときから神を信頼し、神を喜び、神に喜ばれることを大切にしていなければ、年老いたからといってすぐに、気持ちを切替えられるものではないからです。ダビデは5節で「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。」と言い、17節で「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。」と言っています。たしかにダビデは、若いころから、神のさまざまなレッスンを受けました。そのレッスンによって巨人ゴリアテに立ち向かっていく勇気を学びました。サウル王から追われた時も、それによって忍耐を学びました。バテシバのことで罪を犯した時は、神の前にへりくだり、こころから悔い改めることを学んだのです。「ダビデ」という名には「神に愛された者」という意味がありますが、ダビデは神からの多くの訓練を受けたという意味でも、まさに神に愛された人でした。聖書に「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:6)とありますが、ダビデは神に愛されたゆえに、多くの訓練を受けたのです。そして、その訓練は無駄にはならず、老年のダビデを支えました。試練や訓練は、それを受ける側に謙虚な態度と信仰の忍耐があれば、それによって自分を向上させる素晴らしい機会になります。

 私たちは人生で、さまざまな訓練を受けます。出口が見えないような試練に、長い間苦しまなければならない時もあるでしょう。また、ものごとが順調にいっている時、突然のようにして、とんでもないことが起こる時があります。しかし、それらは無意味に、無駄に起こるのではなく、神は、そうしたものを通して、私たちに忍耐や謙遜を学ぶよう訓練しておられるのです。どんな訓練も試練もその時は喜ばしいと感じることはありません。訓練が神の愛のしるしであると言われても、「神さま、もう耐えられません。聖書に、主は愛する者を懲らしめるとありますが、そんなに私を愛してくださらなくて結構です。」と言いたくなってしまうことがあるかもしれません。しかし、神の訓練から逃げ出さないでいるなら、後になってかならずその成果を見ることができます。今朝は、楽しく年をとるということで、お話しを始めましたが、神の訓練を受けるという部分は、「楽しく」というわけにはいかないかもしれません。しかし、若い頃からの訓練の積み重ねは、人を年齢とともに輝きを増すものへと成長させてくれます。もう一度、17節と18節を読みましょう。「神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」神に頼りながら、試練を乗り越えてきた者だけが、神の恵みを体験し、それを喜びと感謝をもって語ることができます。それによって神をあかしすることができます。神は、私たちの人生を深い愛をもって今日まで守ってくださいました。どの年齢の方も、神の恵みのあかしを持っていることでしょうが、とりわけ高齢の方々は、多くのあかしを持っておられることと思います。これからも、神の恵みを若い方々とわかちあってください。そのようにして、若い者たちも高齢の者も互いに励ましあって、神が私たちに与えてくださった人生の目的を追い求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今年もこのようにして、敬老礼拝を守ることができありがとうございます。ご高齢の方々をあなたの力で支え、あなたが与えてくださった人生の目的のために用いていてくださることを感謝します。ここにいる私たちひとりびとりが、あなたを信頼するこを学び、あなたの与えてくださった人生の目的を理解し、あなたからの訓練を受け、あなたと共に生きてこられたご高齢の方々の良い模範にならうものとしてください。主キリストのお名前で祈ります。

10/17/2004