夕ごとに

詩篇6:1-10

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6:1 【聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌】主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。
6:2 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:4 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか。
6:6 わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。
6:7 わたしの目は憂いによって衰え、もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9 主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる。
6:10 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 詩篇6篇で、ダビデは三つのことを祈っています。第一は「わたしに怒り続けないでください」、第二は「わたしを救ってください」、そして第三は「あなたはわたしの祈りを聞いてくださった」です。この三つの祈りを「神への畏れ」、「神への嘆願」、「神への感謝」の順で見ていきましょう。

 一、神への畏れ

 ダビデは、じつに神に愛され、神を愛した人でした。ダビデという名前には「愛された者」という意味があります。ダビデは神の愛を良く知っていました。なのに、ダビデは、1-3節で「主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください」と言って、「わたしに怒り続けないでください」と、神に祈っています。なぜダビデは神の怒りが自分に向けられていると感じたのでしょうか。

 それが分かるためには、神の正しさや聖さをしっかりと理解している必要があります。神はどこまでも正しく、どこまでも聖なるお方です。神は罪や悪に対してどんな妥協もなさいません。人間が、ちょっとした嘘やごまかしを「必要悪」だと考えたとしても、神はそれを悪と見なされます。このくらいのことは許して受け入れてくれてもいいのではと思っても、神はどんな罪も受け入れることはありません。神は愛なのだから、私たちの悪を悪とはみなさず、私たちの罪を罪としては裁かないと考えている人に、私は時々出会いました。神を、孫をかわいがるおじいさんのように、甘いお方だと考えているのです。しかし、神はそんなお方ではありません。神が私たちの罪を赦し、受け入れてくださるのは、罪をいい加減に扱い、適当に妥協してのことではなく、私たちの罪を償い、それを清算した上でのことなのです。神はそのためにご自分のひとり子イエス・キリストを代償として差し出されたのです。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(ヨハネ第一4:10)
神が罪をいい加減になさらず、私たちの罪の償いのために、御子を犠牲にされた、そこにこそ神の愛があるのです。神の正しさ、聖さが分かってこそ、はじめて神の愛も分かるのです。

 神の「怒り」は、神の正しさ、聖さの現われです。神が悪に怒り、罪を憎まれるのは、それほどに正義と公平を愛し、人間が罪からきよめられることを心から願っておられるからです。人間の場合、「怒り」は、たとえそれが「義憤」であってもそこから様々な罪が入りこんできますから、気をつけなければなりません。しかし、神が怒る場合は違います。神はその「怒り」によって、私たちに、守るべき正しさと聖さとを示されるのです。

 2006年にダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」が映画になり、物議をかもしました。原作に「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」とあるのですが、その言葉自体がフィクションで、数々の矛盾点が指摘されました。なにより、この映画ではイエスが偏見をもって描かれており、カトリック教会ではこの映画のボイコットが呼びかけられましたが、プロテスタントのクリスチャンの間では、「たかが映画のことでしょう」と言って、あまり話題にもなりませんでした。そんなとき、ある牧師が、あるカンファレンスで、「私は、私の愛する主が、映画の中であのように描かれているのに憤りを感じる」と発言しました。私は、彼の怒りの中に、主への愛を感じ、その発言に共感しました。大切なものを守ろうとする愛は、ときに怒りという形をとることがあるのです。神の罪に対する怒りは、私たちを罪から救おうとする神の愛の表われなのです。

 ダビデは、この詩篇を詠んだとき、敵に取り囲まれ、大変な苦しみの中にありました。ダビデは、こんな苦しみがやって来るのは、神が自分の罪を怒っておられるからだと、考えたのでしょうか。物事が順調に行っているのは、神の愛のしるしで、苦しみがやって来るのは神の怒りのしるしというのは、分かりやすいといえば分かりやすいのですが、人生はそう単純ではありませんし、ダビデも、そのように考えていたわけではありません。何もかも恵まれ、問題のない人生を送っていても、それを神に感謝することも、神に信頼することもなく、神の愛から遠く離れて生きている人もいれば、様々な困難があっても、その困難を乗り越えるために、神に頼り、祈り、それによって神の力を受け、神の愛の中を歩んでいる人もいます。苦難が神の愛のしるしであることもあるのです。

 ダビデは、王になるまで長い苦しみの時、忍耐の時を過ごし、何度も命の危険にさらされましたが、そのつど、神の救いを体験してきました。ですから、苦しみには意味があることをよく知っていました。けれども、苦しみがあまりにも長く続くと、耐えられなくなり、神の愛を見失ってしまうこともあります。神との親しいまじわりを体験してきた人にとって、それが途絶えたように感じることは、ほんとうに苦しいことです。そんなとき、人は、自分の無力を感じ、神に信頼しきれていない自分の不信仰に気付き、それを嘆くのです。具体的な、行いに表れた罪だけではなく、自分の性質の中にある「罪深さ」というものを感じるのです。それは預言者イザヤが「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と震えおののき、使徒パウロが「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫んだ、あの体験です。ダビデが祈った「主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか」との祈りは、聖なる神の前で、畏れとおののきを持ったたましいの叫びでした。これは、真剣に、神の光の中を歩もうとする信仰者が共通して持っているものです。神について何かを知っているだけではなく、神ご自身を知り、神との交わりの中に生きようとしている人々の中に見られる、聖なる神への畏れです。

 私はアメリカに来たばかりのとき、アメリカの教会の礼拝で、"Have you enjoyed our service?" と尋ねられて、戸惑ったことがあります。「礼拝は、コンサートでも講演会でもないのだから、それってエンジョイするものだろうか」という思いがあったからです。"Enjoy" という言葉が「主を喜ぶ」ことを意味していることは分かっていました。礼拝は暗い気持ちで行う「お勤め」ではなく、喜びに溢れたものです。しかし、その喜びは、たんに「楽しかった」といったものではなく、「主を畏れる」ことに基づいたものだと思います。神の聖なる怒りに震えおののくほどに、神の聖さに触れていく。そういうことが根底にあって、ほんとうの喜びあふれた礼拝が生まれてくるのです。ダビデの祈りから、聖なる神への畏れを学ぶことができれば幸いと思います。

 二、神への嘆願

 次にダビデは、神に「救ってください」と願っています。4-5節でダビデは、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか」と祈っていますので、このとき、ダビデは命の危険にさらされていたのかもしれません。あるいは重い病気にかかっていて死ぬほどだったのかもしれません。「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたを/ほめたたえることができましょうか」というのは、死後の解決ではなく、生きている間の解決を願っている言葉です。ダビデは「神さま、今、私が生きている間に救ってください」と願ったのです。

 私たちは、困難に立ち向かい、命を落とすようなことがあったとしても、それが無駄でないことを知っています。生きている間には、問題が解決しなかったとしても、自分のしたことが必ずどこかで実を結ぶことを信じています。今年の8月28日は、バプテストの牧師、マーチィン・ルサー・キング・ジュニアが "I Have a Dream" という演説をしてからちょうど50年目でした。1964年7月2日、公民権法ができ、キング牧師の主張は受け入れられたのですが、法律はできても、教育や雇用などの面で、アフリカ系アメリカ人はまだまだ不利な立場に立たされていました。ベトナムへの本格的な軍事介入が始まり、自国で民主主義の恩恵を受けていないアフリカ系の若者が外国の民主主義を守るという名目で数多く徴兵されるという矛盾も生まれました。また、人種差別に反対する人の中にもキング牧師の「非暴力主義」に反対して、各地で暴動を起こすグループも現われ、キング牧師は苦境に立たされていました。そのようなとき、キング牧師はテネシー州メンフィスで、ならず者の銃弾に倒れました。1968年4月4日のことです。彼が暗殺されたとき、その「ドリーム」はまだ実現していませんでした。しかし、キング牧師の死によってその夢はさらに実現に向けて前進したのです。このような例は、よく知られているものだけでもいくつもあり、知られていないものは無数にあると思います。

 けれども、問題の種類によっては、今、ここでの解決が必要なこともあります。ダビデは、神が、今、ここで、働いてくださるようにと、嘆願しています。「いつ、どのように」祈りにこたえるかは、神がお決めになることで、私たちの祈りは、最終的には、神の決定に従うものでなければなりませんが、激しく神に訴え、嘆願する祈りが必要なときもありますし、あっても良いのです。

 ダビデは、その祈りを涙と共に捧げました。6節でこう言っています。「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」。「ふしど」(臥所)というのはベッドのことで「しとね」(褥)というのはシーツのことです。夜、眠ろうとして身体を横たえても眠れない。涙が目から溢れ出て、シーツを濡らすというのです。みなさんにそんな経験はありませんか。愛する人を亡くしたとき、治らない病気だと宣告されたとき、いわれのないことで責められたとき、誰からも受け入れられず、孤独を感じるとき、こらえ切れず涙を流してしまったことがありませんか。昼間、しなければならないことで忙しくしているときや、人前に出ているときは涙をこらえることができます。しかい、夜、ひとりになり、自分を支えていたものがなくなると、どっと涙が溢れてくる、そんな体験をした人は、ダビデの言っていることが決して大げさではないことが分かると思います。

 神は、人知れず流した涙を知っていてくださいます。祈りは、言葉だけで表されるものではありません。流す涙も祈りのひとつです。詩篇56:8に「わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください」という言葉があります。神は私たちの涙を皮袋にためて覚えていてくださるのです。イエスはご自分の友ラザロのために「涙を流された」(ヨハネ11:35)お方です。ヘブル5:7には「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」とあります。あの豪胆な使徒パウロも、何度も涙を流したと言っています(使徒20:19,31、コリント第二2:4、ピリピ3:18)。苦境に陥ったときは、涙をもって神に嘆願しましょう。たとえ、神が私の罪に対して聖なる怒りを持っておられると感じたとしても、その罪から私たちを救うことができるのは神の他おられないのですから、ただひたすらに神に祈りましょう。

 三、神への感謝

 最後に、感謝の祈りを見ておきましょう。

 涙を流し祈ったダビデは、8節では一変して、彼を苦しめたものに対する勝利を宣言しています。「すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた。」ダビデを苦しめた者は、ダビデを弱らせ、ダビデが夜ごとに涙しなければならないようになったことを見て、してやったりと思ったことでしょう。しかし、ダビデには、力強い味方がいること、彼の涙を、彼の嘆きの声を聞いてくださる、あわれみ深いお方がいることを、彼らは忘れていたのです。ダビデに敵対した人たちは、ダビデから栄光を奪い、ダビデを辱めることができたと、得意になったかもしれません。しかし、10節にあるように、今度は彼らのほうが「悩み苦しみ、…退いて、たちどころに恥をうける」のです。

 神に頼るひとりびとりは、それぞれ弱さを持っています。ダビデは、巨人ゴリアテを倒した英雄でした。サウル王の婿となり、行く所どこでも勝利を収めた勇士です。人望が厚く、ダビデのためなら命を惜しまないという忠実な部下を数多く持っていました。そののち何代も続くダビデ王朝の開祖となりました。欠けたところがないように見えるダビデでしたが、彼もまた弱さと悩みを持った、私たちと変わらない信仰者でした。罪の誘惑に陥り、その家庭に問題を抱え、友に裏切られ、敵に追い詰められました。そんな中でダビデが、そのつど苦難を乗り越えることができたのは、ただただ神への祈りによってでした。聖なるお方を畏れ、あわれみ深いお方に嘆願し、力あるお方に信頼する信仰によってでした。

 小学校一年生のタッちゃんは、電車の駅から自分の家に帰るのに、いじめっ子がいる道を通らなければなりませんでした。そこを通るたびに、からかわれたりするので、その曲がり角まで来ると、きょうはいじめっ子たちがいるのかいないか心配でなりませんでした。でもきょうは、そんな心配はひとつもありません。きょうはお父さんと一緒だからです。その道にいじめっ子がいましたが、タッちゃんは平気でした。タッちゃんのように、私たちも、神の子どもとして天のお父さまに信頼しましょう。おとなの皆さんに小さなこどもの話をしてしまいましたが、こどものようになることが、じつは、信仰の出発点であり、また本質だということを分かっていただきたいのです。ダビデは、並ぶところのない大人物でしたが、その内面は素直な神の子どもでした。苦しい時には子どものように泣き、助けの必要なときは、それを子どものように求めました。そして、神が栄光をお受けになることについては、子どものように、飛んだりはねたりしてそれを喜びました。私たちも、神の子どもとして、神に向い合い、神の前で泣き、神にあって喜びたいと思います。

 夜ごとに涙を流すことがあって、その夜はいつまでも続きません。かならず朝がやってきます。詩篇126:5-6には「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」という約束があります。おひとりびとりが「主はわたしの願いを聞かれた」という感謝を、「主はわたしの祈をうけられる」という確信をもって、この一週間を始めることができますように!

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、あなたを畏れることにおいても、熱心にあなたに願い求めることにおいても、また、祈りは聞かれるとの確信においても、足らない者たちです。しかし、あなたは、そんな私たちをも覚えていてくださいます。夕ごとに涙を流すことがあっても、あなたはそれを覚え、涙とともに捧げられた祈りに聞いてくださいあます。きょう学んだように、あなたの前に畏れをもって、また正直に、そして、確信をもって祈る私たちとしてください。私たちのために、また、私たちと共に祈ってくださる、イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/22/2013