復興の祈り

詩篇51:18

詩篇51:18
51:18 どうかご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。

ローマ8:22-28
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 9月11日から、もうすぐ一年が経とうとしています。テロの直後、私たちは心を合わせて、被害に遭われた方々を覚えて祈りましたが、あれから一年目を迎えるこの時、もう一度、このことを覚えて祈りたいと思います。今朝は、この一年をふりかえりながら、何をどう祈ったらよいかということについて、いくつかのことを提案したいと思います。

 一、テロの被害者のために

 第一は、このテロの被害者を覚え、その心とからだのいやしを祈ることです。

 世界貿易センターの跡地を整備するのに、一年はかかるだろうと言われていましたが、思ったよりも早く、5月中に完了しました。瓦礫の中にあった最後の鉄骨が運び出されるセレモニーを、皆さんもテレビでご覧になったと思います。国防省の修理も進んでいます。ニューヨークの復興が進んでいく中で、あの悲惨な出来事が、早くも過去のものになろうとしていますが、あのテロによって、亡くなられた2,819人の家族の悲しみはまだいえてはいないことでしょう。その日の朝まで元気で、仕事に出かけた人が、突然帰らぬ人となったのです。サンクスギヴィングにも、クリスマスにも、イースターにも、そして、この夏休みも、そこにいるはずの人がいない、そんな寂しさを、ご家族の方々は味わっておられることでしょう。二つの高層ビルが崩壊した衝撃はすさまじく、瓦礫の下には、遺体と呼べるようなものも見つからないほどの状態で、ほとんどの遺体は家に帰ることがなく、亡くなられた人の記念になるものも、ほんのわずかだったと言われています。

 災害や事故によって、突然、愛する人を亡くすということはめずらいいことではありません。しかし、9月11日のことは、災害でも事故でもなく、それは、戦争のようなものでしたが、宣戦布告をして兵隊たちが戦場で戦う戦争というわけでもありませんでした。無防備な一般市民を狙った卑劣なテロでした。それはニューヨークだけを狙ったものというよりは、すべてのアメリカ市民を標的にしたものでした。このことは、すべてのアメリカ市民に、またアメリカに住む者に大きなショックとなりました。私たちは、災害や事故、あるいは病気など、大きな苦しみに遭う時、"Why me?" 「どうして私だけが…」という気持ちになるものですが、9月11日のテロの場合は、それ以上の、すぐには解決のつかない深い疑問、心の傷が、残りました。私たちも、「こんなことがあっていいのか」というような思いにかられました。

 直接被害を受けなかった人々でも、それを目の当たりにした人々の中には今も、その光景が目に焼きついて夜も眠れないという人があるそうです。ワールド・トレード・センターの後片付けにボランティアとして参加された人の手記を読みましたが、その現場のあまりに悲惨な様子と過酷な労働のため、ボランティアの多くの人が精神的なケアを受けなければならなかったと書いてありました。私たちの知らないところで、多くの人が肉体的ばかりでなく、精神的なダメージを受けました。私たちは、そうした方々のために、具体的なことは何一つできないかもしれませんが、その心のうめきを共有して祈ることはできると思います。テロの影響は、シリコンバリーにも及んでおり、私たちの生活を直撃しているわけですから、私たちもニューヨークの人々の気持ちに少しなりとも共鳴できるはずです。聖書は「すべての聖徒のために」また、「すべての人のために」祈るよう、教えています。私たちの祈りの輪を、いま少し広げましょう。そうするなら、私たちの祈りも深められていくことでしょう。テロの直接の被害に遇われた方のことを考える時、私たちは複雑な思いになり、何をどう祈ってよいか分からなくなることもあります。しかし、祈り続けていくなら、神は、その人たちを導いてくださるばかりか、祈っている私たちにも、この出来事についての理解へと導いてくださるでしょう。そして、そのことは、同じように、人生の中で痛みと苦しみを体験している私たちに大きな助けとなることでしょう。

 聖書は「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル13:3)と教えています。苦しみと痛みの中にある人々への心からの同情をもって、神のいやしが届きますようにと祈り続けたいと思います。

 二、指導者たちのために

 第二は、国の指導者のため祈ることです。

 アメリカは、独立戦争以降、国内で戦ったことはあっても、外国から攻められたことのない国でした。唯一の例外は、パールハーバが日本軍によって攻撃されたことだけでした。しかし、9月11日にはメインランド、しかもアメリカを象徴するニューヨークが攻撃されたのです。このことによって、私たちは国の安全ということをもう一度考えさせられました。安全は、大切なものです。国が守られているからこそ、私たちは安心して生活ができます。しかし、国の安全はたんに軍備を増強すれば良いとか、セキュリティを厳しくすれば大丈夫というわけにはいかないものですね。それは、経済や外交などと深くかかわっており、いろいろ複雑で難しいことがあることでしょう。そのような中で、大統領や閣僚をはじめ、国の指導者たちが間違いのない選択ができるよう、祈りたいと思います。

 聖書は「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(テモテ第一2:1)と教えています。私は聖書にこの箇所があることを良く知っていましたが、実際には、国の指導者のために祈ることが少なかったように思います。私が国の指導者のため祈るよう、励まされたのは、十数年前に「全米祈りの日」を知ってからでした。「全米祈りの日」はリンカーンの時代に始まり、リーガン大統領の時に、毎年五月の第一木曜日と定められました。サンノゼでは、今年、市役所の庭で諸教会が集まっての祈り会が行われ、私も参加しました。今年はテロ後はじめての「祈りの日」ということもあって、軍や警察、消防からゲストが招かれ、その証しの後、十人づつぐらいの祈りの輪を作って祈りました。来年は、私たちの教会からも大勢参加して、日本語で祈る「祈りの輪」を作れたらと願っていますが、その時、ゲストに招かれた警察官は「自分たちも生身の人間であり、家族もあります。私たちの安全のため祈ってください。ポリスカーを見たら、そこに乗っている警察官が、あらゆる危険から守られるように祈ってください。」と訴えておられました。ファイヤー・トラックを見た時も、消防士のために祈りましょう。前線にいる兵士たちのためにも祈りましょう。こうした人々は私たちの祈りを必要としています。考えてみれば、私たちの安全を守るために働いている人々が一番危険にさらされているのですから、私たちには、そうした人々のために祈る責任があるのです。

 三、私たち自身のために

 第三に、9月11日に祈ることは数多くあると思いますが、私たち自身のために祈りたいと思います。

 教会はアメリカの隅々にあって人々の生活に深くかかわっており、テロの直後、多くの人が教会に集まり祈りました。聖書も良く読まれるようになりました。この出来事を通して神を求めた人も多くあったと思います。テロ以降の経済の落ち込みやさまざまな不安が広がっていく中で、教会が、そして、私たちクリスチャンが、人々に希望を与えるところとなり、平安をあかしする者となれるよう祈りましょう。私たちに与えられている希望や平安は、単に言葉だけのものではありません。それは、私たちがハッピーな時だけしか通用しないものでもありません。あのような大惨事に対しても、決して揺るがない確かな希望、確かな平安なのです。

 9月11日のことを思う時、なぜ、あのようなことが起こったのか、神はなぜそれを防ぐことをなさらなかったのか、そのような疑問は、私たちクリスチャンにもあります。その答はすぐには見つからないかもしれません。世の終わりに、神の救いが完成する時まで待たなければならないかもしれません。私たちが頭で納得のいく「解答」はすぐには見つけられないかもしれません。しかし、神は、私たちがその悲惨な状態の中から一歩踏み出すことができるように、実際的な「解決」を見せてくださっています。神は、悲惨な出来事の中からも、いくつかの良いものを導き出してくださいました。9月11日を機にしてアメリカ市民がさまざまなバックグラウンドを超えて一致団結できたこと、多くの暖かい援助の手が差し伸べられたことなどを、私たちは見てきました。ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という、皆さんも良くご存知のみことばがあります。私たちは、このみことばの完全な成就をまだ見てはいませんが、このみことばが真実であることを知り、確信しています。それは、神がこのみことばのとおり、キリストの十字架という最も悲惨な出来事の中から、私たちの救いという最も素晴らしいものを生み出してくださったからです。神は、罪の中にある人間を救おうとして、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。しかし、人間は、自分たちの救い主を憎み、ののり、あざけり、辱かしめ、十字架にかけて殺してしまったのです。これこそ、前代未聞の大惨事ではないでしょうか。その時、人間は滅ぼされてもやむを得なかったのですが、神は、人間を愛し通し、キリストの死を無駄にはなさらず、キリストをよみがえらせ、私たちの救いの道を開いてくだいました。神は、憎しみの中から愛を、辱めの中から栄光を、裏切りの中から真実を、そして死の中から命を生み出してくださったのです。イエス・キリストを信じる私たちは、この救いにあずかっているのですから、どんな状況の中でも、キリストにある希望を、神の平安を見失わないようにしたいと思います。

 神は、回復の神です。神はイスラエルの国がバビロンに滅ぼされた後も、バビロンに曳いていかれた人々をイスラエルに連れ戻し、完全に破壊された神殿を、もう一度建て上げてくださいました。「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを立て直す。」アモス書9:11に神が約束しておられた通りです。アメリカもまた、回復を必要としていますが、昔、その民を回復し、復興させてくさった同じ神が、アメリカをもう一度回復させてくださることを、信じて祈りましょう。詩篇51篇は、ダビデの心からの悔い改めの祈りで、多くの人にとって大切な詩篇ですので、いつか日を改めて学ぶことにしますが、今朝はその18節だけを見ておきましょう。「どうかご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。」とあります。このダビデの祈りは、国の復興のためにバビロンから戻ってきた人々の祈りとなり、復興に携わった人たちは、ダビデが詩篇51篇で祈ったのと、同じ真剣な祈りと信仰をもって働いたと伝えられています。彼らは廃墟を前にしてもたじろがず、「主がしてくださる」「恵みによってしてくださる」との信仰をしっかりと持っていました。

 9月11日の考えると、心の整理がつかないという方もあるでしょうが、私たちは、あの大惨事に打ち負かされたままでいてはならないと思います。もっと悪いことが起こるのではないかという不安に呑み込まれたままであってもなりません。この大きな出来事の前に畏縮して無力さを嘆くだけであってもなりません。そこから立ち上がり、将来に向かって一歩踏み出したいと思います。私たちの信じる神は、「すべてを働かせて益としてくださる」お方、「倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを立て直す」と約束していてくださるお方です。希望と平安と、そして勇気を主からいただきましょう。アメリカの回復と共に、個々人にも、破れ繕わなければならない部分、回復を願わなければならない部分があるかもしれません。そのような場合にも、「あなたの恵みによって、城壁の破れを繕ってください。私の城壁を築いてください。」と祈りましょう。そして、希望と平安を求めている人々にそれを分かち与えることができるよう、祈り、励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、9月11日の出来事の中に、被造物のうめきを感じ、また、御霊のうめきをもって祈ってきました。いつの日か、あなたは、私たちに祈りの答を与え、このうめきを喜びに変えてくださることを、私たちは信じます。そう信じて、痛みと苦しみの中にある人々のため、また、国の指導者のため祈り続けます。あなたは、私たちのために、いいえ、全被造物の回復の時を定めていてくださいます。ここに、私たちの希望があります。このことを、多くの人々にあかしすることができますよう、私たちを用いてください。「万事を益に」と約束してくださった主イエス・キリストの御名で祈ります。

9/8/2002