揺るがない都

詩篇46:4-7

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46:4 川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。/いと高き方のおられる その聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられ その都は揺るがない。/神は朝明けまでに これを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ/諸方の王国は揺らぐ。/神が御声を発せられると/地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。/ヤコブの神はわれらの砦である。

 私たちは誰も自分の人生に何かのゴールを持っています。若い人たちは、あの大学に入ってこんな勉強をしたい、あの会社に入ってこんな仕事をしたい、あんな人と結婚してこんな家庭を築きたいなどと願うことでしょう。若い時のゴールは、少し努力すれば、案外順調に達成されるものです。しかし、社会に出てからは、自分の願うことを実現させたいと思っても、そう簡単にはいきません。さまざな困難があり、反対があり、妨害さえあります。自分の力でどうにもならないことがあまりにも多いのです。そして、その中で躓いたり、失敗したり、挫折したりします。

 それは、人生で常のことですが、信仰においてもそうです。「私は神を信じ、神に祈っているのに、どうしてうまくいかないのだろう」と思うこともあるでしょう。神への信頼が薄れ、祈りが消えかけてしまうこともあるでしょう。しかし、神はそんな時こそ、私たちにもっと神に信頼すること、信じて祈ることを期待しておられるのです。神は試練をお与えになりますが、同時に助けをも備えてくださっています。もし、ものごとがすべて順調だったら、私たちは神の助けを体験することがなく、神への信頼も深まることがないでしょう。試練があるからこそ、私たちは神の偉大な力を知り、自分自身もまたより大きな困難を乗り越えることができるよう強められていくのです。

 詩篇のほとんどは、大きな困難を乗り越えた後に、そこから救ってくださった神に感謝し、偉大なお力を持つ神を崇め、共にいてくださる神への信頼を言い表しています。それは、詩篇46篇でも同じです。

 一、神の救い

 詩篇46:3では「たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても。その水かさが増し、山々が揺れ動いても」と歌われていました。「泡立つ水」は津波や洪水を連想させ、私たちに襲ってくるさまざまな困難や苦しみ、また、試練を意味しています。4節にも「水」が出てきますが、そこでは、「川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる」とあって、もはや荒れ狂う水ではなく、静かにゆったりと流れる川に変わっています。

 多くの都市は川の流れにそって建てられています。ロンドンにはテムズ川、パリにはセーヌ川、ワシントンにはポトマック川があります。ダラス・フォートワースにもトリニティ・リバーが流れています。人は水なしには生きていけません。水は、人だけでなく、あらゆる生き物、植物になくてならないものです。

 エジプトは「ヨーロッパの穀物倉庫」と呼ばれ、古代から今日に至るまで穀物を輸出してきました。ナイル川が上流にある肥えた土を運び続けているので、そこでは作物が豊かに実るからです。古代には、エジプトのナイル川をはじめ、バビロンのチグリス・ユーフラテス川、インドのガンジス川、中国の黄河などにそって文明が生まれ、育ちました。

 「川がある。その豊かな流れは、神の都を喜ばせる。」ここで歌われている「川」は、まさに、神の都に住む者を生かし、豊かな作物を与える「いのちの水」として描かれています。神に頼る者は「洪水」のように襲いかかる敵、「大水」のような困難、「泥沼」のような苦しみから救われます。神が救ってくださるのです。詩篇18:16-18ではこう歌われています。

主は いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ
大水から私を引き上げられました。
主は 力ある敵から私を救い出されました。
私を憎む者どもからも。
彼らが私より強かったからです。
私のわざわいの日に 彼らは立ちはだかりました。
けれども 主は私の支えとなられました。

 皆さんにも、困難や試練の洪水から救われ、静かな水のほとりに導かれたという経験があるでしょう。新聖歌247に「神の賜う安けさは、川のごとく流れ来て…」と歌われています。嵐のような状況から救い出され、心に、神の平安が注ぎ込まれる。これは、試練の中でも神に信頼し続けた人にだけ与えられる体験です。

 人は、誰も、すぐに、簡単に、願うものを手に入れようとします。それで、少し困難があるとそれをあきらめてしまいます。神は、みこころにかなう願いをかなえてくださいますが、しばしば、困難の後にそれをお与えになります。それは、自分が手にしたものが、神からのものであり、それを自分一人の幸いのためにではなく、神のために、他の人のために使うことができるようになるためです。

 ですから、苦しみの時、困難にぶつかったとき、慌てたり、恐れたりしないで、神に信頼しましょう。神への信頼だけが、滅びの大水をいのちの水に変えることができるのです。

 二、神の力

 次に、神に信頼することによって、神の偉大な力を見ることができることを学びましょう。

 6節に、「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らぐ」とあります。これは、多くの国の軍隊が連合して、攻め寄せてくる様子を言っています。しかし、たとえ、大軍が神の都を取り囲んでも、神の都は決して滅びません。「神が御声を発せられると、地は溶ける」からです。都の城壁を遠巻きにして取り囲んでいる軍勢の足元の「地が溶け」、彼らが地に呑み込まれてしまうのです。そのあとに神の都がそこにそびえ立っている。そんな情景を思いうかべることができます。

 ある人は、「地が溶ける」などといったことがあるんだろうかと思うかもしれませんが、実際にあるのです。大きな地震の時に起こる「液状化現象」というものがそれです。河川の土砂が堆積してできたところでは、地面が液体のようになって崩れ、地形が大きく変わり、建物が沈没していきます。2011年の東日本大震災では関東地方の各地でそれが起こりました。建物を建て、道路を作ることができるほど固い地であっても、それが「溶ける」のです。自然現象でさえそれが起こるのなら、全能の神の一言によって「地が溶ける」のはなおのことです。

 ここに、「神が御声を発せられると…」とあります。ちょうど、ライオンがひと吠えすると、他の動物が尻尾をまいて逃げ出すのに似ています。聖書はイエス・キリストを小羊にたとえていますが、同時にライオンにもたとえています。キリストは、私たちには優しく語りかけてくださいますが、私たちを苦しめる者には、まるでライオンのようにひと吠えして、彼らを退けてしまわれるのです。

 これは神の言葉の力を描いています。神は、その全能の力を言葉を通して働かせます。神は、その言葉で世界を創造されました。神が「光、あれ」と言われると光ができました。「天の下の水は一つの所に集まれ」と言われると、地表を覆っていた水が移動し、陸地が現れました。神は陸地と水面との境界を定め、大水や洪水をそのお言葉によってコントロールしておられます。たとえ、あらゆる国の大群が神の都に大水、洪水のように押し寄せてきたとしても、神が力あるお言葉によってそれを退け、神の都に住む者を護り、救ってくださるのです。

 自分の周りを見回すと、目に見えるのは、敵ばかり、困難ばかり、苦しみばかり。しかし、私たちの信仰は目に見えるものに基づいていません。神の言葉に基づいています。神が語ってくださった言葉の通りになると信じるのです。信じて待ち望むなら、やがて、神の言葉通りに地が溶け、問題が解けていくのを見るようになります。神の言葉は、色紙に書かれ、額に入れて飾られている書道作品のように、眺めて楽しむためのものではありません。神のことばは、聖書の神とインクに閉じ込められてはいません。そこから飛び出して、私たちと、私たちを取り囲む状況に働きかけ、言葉どおりの結果をもたらします。全能の神の力ある言葉を信じましょう。神の言葉によって、全能の神への信頼を養いましょう。

 三、神の臨在

 ところで、詩篇46篇で歌われている「神の都」はどこのことでしょうか。普通、「神の都」はエルサレムを指します。ところが、詩篇46篇は、「神の都」に川があると言っているのに、エルサレムには「川」がないのです。エルサレムは、標高2,474フィート、およそ800メートルの山の上の街です。エルサレムへの入り口にあるのがエリコの町で、そこは標高マイナス846フィート、マイナス240メートルで、世界でも最も低いところにある町です。エリコからエルサレムまでは1,000メートル以上上ります。私はバスでエリコからエルサレムへ向かったのですが、かなりの上り坂だったのを覚えています。山地の街は外敵から守るのに有利ですが、ひとつの欠点があります。それは水です。山の下で水の元を断ち切られたら、簡単に攻略されてしまいます。それでエルサレムがアッシリヤに攻められたとき、ヒゼキヤ王は、エルサレムの城壁の外にあるギホンの泉からの水道を地下に隠し、その水を城内のシロアムの池に引きました(歴代誌第二32:30)。エルサレムに川が流れていれば、そんな水道を作る苦労はいらなかったのです。

 ですから、この「神の都」は、地上のものというよりは、霊的なものを言っていることが分かります。それは、ヘブル人への手紙で、イスラエルの父祖たちが憧れた、天にある「神の都」のことです。

 では、私たちがこの神の都で守られるのは、私たちが世を去ってからはじめて体験できること、将来まで待たなければならないことでしょうか。いいえ、聖書は、神の都を「いと高き方のおられる、その聖なる所」と言って、神がおられるところが「神の都」なのだと言っています。

 私が南カリフォルニアから北カリフォルニアに転任するとき、あらかじめ家族で、そこを訪ねたことがありました。同僚の牧師となる人も、同じように南カリフォルニアから移ってきたので、私たちを励ますため、「住めば天国ですよ」と言ってくれました。「先生、ほんとうは『住めば都』と言うのですよ」と言って、大笑いしたのですが、クリスチャンにとっては「住めば天国」も間違いではないと、あとで思うようになりました。「天国」、それは確かに、一つの場所です。けれども「天」は神のこと、「国」は支配のことですから、神が治めておられるところ、もっといえば、神がおられるところ、そこが「天国」になりうるのです。主権者である神が治めておられない所などどこにもなく、神は、どこにでもおられるのですから、もし、私たちが、神が共におられると信じて、神に信頼するなら、自分が、今いる場所が「神の都」になるのです。神がそこにおられることを確信することができるなら、私たちも、「神はそのただ中におられ、その都は揺るがない」と言うことができるようになるのです。

 7節に「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である」とあって、神は「万軍の主」と呼ばれています。「万軍の主」というのは、神を大軍団を持つ王にたとえた言葉だと言われますが、これは、「たとえ」ではなく、神は実際に、数千、数万、いや、数え切れないほどの力ある天使たちの軍勢を持っておられます。神は、文字通り「万軍の主」です。このお方が、私たちとともにいてくださる。このお方自身が私たちの「避け所」、「砦」となってくださる。ですから、「万軍の主」である神が共にいてくださるところが「神の都」となるのです。

 詩篇46篇は、神を信頼する者は、神によって救われると教え、神を信頼する者は、神のお力を見ることができると語り、神を信頼する者には、神が共にいてくださると述べています。神を信頼する者は、「神の都」で神と共にいることができるのです。ですから、神に信頼する私たちは恐れません。もし「恐れる」ことがあれば、私たちの避け所、砦である神のもとに逃れていくことができるからです。たとえ、私たちの周りが嵐のように荒れ狂っていても、私たちは、神のそば近くで、神の都で、川のように流れる平安を味わうことができるのです。

 (祈り)

 万軍の主である神さま、弱く小さい私たちは、時として自分の尺度であなたを推し量って、偉大なあなたのお力を小さく見積もってしまうことがあります。自分の不信仰を戒めながら、全能のあなたに信頼する者としてください。あなたと共にある私たちのたましいが何者にもおびやかされることがないことを確信して歩む者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/26/2023