静まって知れ

詩篇46:4-11

〜南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート〜

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46:4 川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。/いと高き方のおられる その聖なる所を。
46:5 神はそのただ中におられ その都は揺るがない。/神は朝明けまでに これを助けられる。
46:6 国々は立ち騒ぎ/諸方の王国は揺らぐ。/神が御声を発せられると/地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。/ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ
46:8 来て 見よ。主のみわざを。/主は地で恐るべきことをなされた。
46:9 主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。/弓をへし折り 槍を断ち切り/戦車を火で焼かれる。
46:10 「やめよ。知れ。/わたしこそ神。/わたしは国々の間であがめられ/地の上であがめられる。」
46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。/ヤコブの神はわれらの砦である。 セラ

 一、苦しみの意味

  「なぜ、こんなことが起こったのですか。」何か大きな出来事があると、私たちは決まってそう考え、そう口にします。今回のことでも、誰もが「なぜ」と考えたことと思います。

 John McArthur、John Piper、Charles Stanley、N. T. Wright などの著名な学者や説教者が、“Corona Virus and Christ” や “God and the Pandemic” などといった本を書いたり、インターネットでメッセージを配信したりしています。「神が愛なら、なぜ地上に苦しみがあるのか。」これは、キリスト者が常に直面してきた問いです。「苦しみは人間の罪が引き起こしたもので、神に責任はない。」そう答えることができるかもしれません。しかし、それでは、神は私たちの苦しみに知らん顔をしておられ、神は私たち人間の神でなく、罪のない天使たちだけの神ということになります。「神のみこころは私たち人間には量りしれない。だから、そんなことを問うものではない」という意見もあります。これもまた神を私たちから遠く引き離すものです。心のうちを少しも開いて見せてくれない神に、私たちは心を開くことができるでしょうか。いいえ、できません。そこには神と人とのまじわりは生まれません。「神のみこころ」が秘められ謎めいたものなら、それは私たちのあずかり知らないところで定められた「運命」や「宿命」になってしまいます。

 ヨブが大きな苦しみに遭ったとき、ヨブの友人たちは神に代わってヨブを教えようとしましたが、それはヨブに何の答えにもなりませんでした。最後に神ご自身がヨブに現れ、ご自分の力を示されたとき、はじめて、ヨブは神の前に悔い改め、苦しみから救われ、以前にまさる祝福を受けました。神はヨブに理論的な「解答」を与えませんでしたが、「解決」を与えました。苦しむ者に必要なのは論理、理屈ではないからです。重い病気にかかった人が医者から聞きたいのは、どのようなメカニズムでその病気が起こり、統計的にどれだけの確率で死にいたるかといった説明でしょうか。そんなことではなく、病気を治すために医者が何をしてくれ、自分が何をしなければならないかということでしょう。私たちが神に「なぜ」と問うときも同じだと思います。

 詩篇には、「主よ、いつまでですか。悪しき者が、いつまでですか、悪しき者が勝ち誇るのは」(詩篇94:3)などといった神への訴えが数多くあります。神は、私たちがそのように祈ることを許しておられ、その祈りに答えてくださいます。詩篇103:8-13には、「主よ、いつまでですか」という問いへの答えがあります。

(8)主は あわれみ深く 情け深い。/怒るのに遅く 恵み豊かである。
(9)主は いつまでも争ってはおられない。/とこしえに 怒ってはおられない。
(10)私たちの罪にしたがって/私たちを扱うことをせず/私たちの咎にしたがって/私たちに報いをされることもない。
(11)天が地上はるかに高いように/御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。
(12)東が西から遠く離れているように/主は 私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。
(13)父がその子をあわれむように/主は ご自分を恐れる者をあわれまれる。
「主よ、いつまでですか。」神はそれに答えて、「わたしは、いつまでも争い続けない。永遠に怒ってはいない。決着の時をもたらす。あなたがたに救いを与える」と言われるのです。

 私たちは知っています。神は、御子イエス・キリストによって、その決着をつけ、わたしたちに救いを与えてくださったことを。イエスのご生涯は、苦しみの連続でした。もし、苦しみに何の意味もないなら、イエスの苦しみにも意味がないことになります。仏教では、釈尊が苦しみの意味を説き、そこからの解放の道を示したとされていますが、聖書は、イエスが、この世に来られ、私たちと苦しみをともにし、あの十字架の苦しみを受けてくださったと告げます。それは、私たちの罪を赦し、私たちを罪からきよめるため、私たちを死と滅びから救い、永遠の命と幸いを与えるためでした。イエスは、私たちに苦しみの意味を論理的に説いたり、そこから救われるための修練の道を教えたりしませんでした。イエスは、私たちの罪、汚れ、悪、欠け、傷、病いを、罪のないその身に負い、ご自分が「道」そのものになってくださいました。十字架が私たちに苦しみの意味を教えます。人は言います。「神が愛なら、なぜ苦しみがあるのか。」十字架はこう答えます。「神が愛だからこそ、御子が私たちのために苦しんでくださったのだ。」

 先にあげたどの先生がたも、「神はこのパンデミックをコントロールしておられる。これによって神の主権、支配がそこなわれることはない。パンデミックは私たちに何が最も大切なことかを教えるもので、神はこのことからも善いものを生み出す。だから、神に信頼しよう」と、私たちを励ましています。聖書は、私たちの「なぜ」という疑問に対して、その「原因」よりはむしろ、その「目的」や「結果」に焦点を合わせて答えます。過去よりも未来に目を向けるよう教えます。John Piper 先生は、そのメッセージの最後に、こう祈っています。

「主よ、私たちの惨めさと悲しみを無駄にしないでください。不毛な物質主義とキリストなきエンターテーメントによって占められた無力な思いから、あなたの民をきよめてください。サタンのエサが、私たちの口の中で嫌な味になりますように。高慢と憎しみと不義の道の根と残骸を私たちから切り取ってください。私たち自身があなたの栄光を小さくしていることに対して憤る能力を与えてください。私たちの心の目を開き、キリストの麗しさを見、味わせてください。私たちの心を、御言葉に、御子に、また、あなたの道に引き寄せてください。私たちを思いやりのある勇気で満たしてください。あなたの民の奉仕を通して、あなたの名を高くあげてください。」
 私たちも、このような祈りに導かれたいと思います。そして、このパンデミックが私たちに、どんな機会を与えてくれるかを考えたいと思います。多くのことがあるかと思いますが、「礼拝の回復」、「神の前に静まること」、そして「遣わされていくこと」、この三つをとりあげます。

 二、礼拝の回復

  アメリカでは、州や郡、また市によって、その程度は違いますが、集会が規制されています。10人までなら良いとか、収容人数の25%までなら良いとかいうので、礼拝をはじめとして、どの集まりも休んでいる教会がほとんどです。このパンデミックで、アメリカは経済的に大きな打撃をうけましたが、私は、それよりも大きな打撃は、霊的なもので、人々が集まって礼拝できないことにあると思っています。アメリカの、また、世界の祝福は、そこに礼拝者の群れがあって、途切れることなく、祈りがささげられていることにあると、私は信じています。その礼拝が出来なくなったのです。しかもイースターやペンテコステという大切な日にです。教会は、迫害のため、集会を禁止された時代にも、地下墓所などに集まりました。今日でも、信仰の自由のない国々がいくつもありますが、そのような国のキリスト者さえも、「家の教会」に集まっています。ヘブル10:25に「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」と教えられていることを、忠実に守ってきたのです。それは、主の御名によって集まることが教会の命だからです。最大限の信仰の自由のあるアメリカで、礼拝ができない! これは、私たちが思う以上に危機的なことです。過去にペストの代流行があったときも、教会は集まることを止めませんでした。それが、今年は教会の扉が閉ざされたままになっているのです。こんなことは二千年の教会の歴史でかつて無かったことでした。

 教会は以前にも増してインターネットを活用して礼拝を配信するようになりました。いわゆる「オンライン礼拝」ですが、それによって、より広く福音を届けることができたという報告も聞いています。しかし、そうしたものを利用できない人も多くいます。高齢者の多い教会のある牧師は、毎週の礼拝の式順とメッセージを印刷して、月曜日に郵送し、日曜日にそれを開封し、家庭で賛美を歌い、聖書を開いて礼拝をささげるよう指導しています。オンライン礼拝にしろ、文書による礼拝にせよ、牧師たちにとっては、ふだんのメッセージの準備以外の仕事が増えるので、負担が増します。それでも、ひとりひとりの顔を思い浮かべながらメッセージを送りとどけようとしている先生がたの愛の労苦に感謝したいと思います。

 しかし、共に礼拝に集うことができないのは、「まじわりがなくてさみしい」という以上に、教会の本質にかかわる大きな問題です。教会は、神の牧場の群れです。詩篇100:3-4には「知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ」とあります。礼拝は、礼拝者がひとつの「群れ」として集められ、神のみもとに進み出ることによって成り立ちます。地上の礼拝は、天の礼拝の「写し」(コピー)です。黙示録7:9に「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた」とあるように、天では、御使いたちと聖徒たちが、ひとつの群れとなって、御座におられる神と子羊を取り囲んで礼拝を捧げています。地上の礼拝でも同じように、贖われた者の群れが天の礼拝とひとつになって神と子羊を崇めます。

 このような天の礼拝は、詩篇46にも示唆されています。4節に「川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。いと高き方のおられる、その聖なる所を」とありますが、この「神の都」とは何を指しているのでしょうか。おそらく、「エルサレム」のことでしょう。しかし、4節に「川がある」とありますが、エルサレムには川がありません。それでエルサレムには岩盤をくりぬいて水道が引かれ、ギホンの泉やシロアムの池などに水を貯めていました。エゼキエル47章に描かれている幻には、エルサレムに川が流れ込んでくるのではなく、逆にエルサレムの神殿から水が流れ出て、それが大きな川となり、全地を潤しています。それは実際の川というよりは、神の臨在から流れ出る命の豊かさを表しているのだろうと思われます。ですから、4節の「神の都」は地上のエルサレムとともに、天にある「神の都」のことをも指していると考えることができます。

 今回のパンデミックは、礼拝とは何なのかを考え直す良い機会になりました。John Piper 先生が「不毛な物質主義とキリストなきエンターテーメントによって占められた無力な思いから、あなたの民をきよめてください」と祈っているように、どうかすれば、礼拝さえも、天の都を仰ぎ見るものであるよりは、「キリストなきエンターテーメント」になりかねない時代に、もういちど、礼拝の意味、意義を考え直してみたいと思います。教会に集まり、様々な活動を再開し、イベントができるようになったとしても、今まで通りのことを繰り返すのでなく、果たして、今までしてきたことがそれでよかったのだろうかと考え直す必要があるように思います。教会の活動が制限されている今こそ、教会がほんとうにしなければならないこと、キリスト者に必要な「ただひとつのこと」が何なのかを、もういちど、御言葉と祈りによって尋ね求めたいと思います。世の中では「ウィズ・コロナの時代の新しい生活様式」ということが盛んに言われていますが、キリスト者はすでに、キリストにある新しい生き方に招かれ、入れられているのです。もし、私たちがそこから外れ、いつしか世の中のものに同調するようになっているとしたら、今、この時こそが、本来のあり方、生き方に立ち返ることのできる時だと思います。神は、そのことのために、このパンデミックを許されたのかもしれません。

 三、神の前に静まる

 10節に「やめよ。知れ。わたしこそ神」とあります。神は、ここで、神の民に戦いを挑む国々に対して、戦いを「やめよ」と言っておられるのですが、同時に、敵にとりかこまれて恐れの中にある神の民にも、「静まれ。わたしは、あなたとともにいる。わたしがあなたを救う」と語りかけておられるのだと思います。この言葉は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と訳され、多くの英語の訳でも、“Be still, and know that I am God.” となっています。神の前に静まる。それは、キリスト者にとって無くてならないことです。私たちがこうして行っているリトリートは、じつに、日常から離れて、神の前に静まるためのものなのです。

 神の不思議な導きにより、昨年8月からテキサス州プレーノの町で日本語礼拝が始まり、私はそのお手伝いをすることになりました。ところが、まだ一年も経たないうちに、「コロナ」のため礼拝が持てなくなりました。礼拝に出られなくなった人や礼拝を控える人も出てきました。私たちも、積極的に、人々を教会に誘えなくなりました。やがて、教会の礼拝がオンラインになりました。とても残念に思いましたが、「そうだ。この時を生かして、もっと静まろう」と気を取り直しました。ところが、オンライン礼拝の準備にとても時間が取られ、かえって静まる時を持てなくなってしまいました。皆さんも、「コロナ」で何もできないなら、もっと祈ろう、聖書を読もうと決心したと思います。実際はどうでしたか。「コロナ」のためにもっと忙しくなり、神の前に静まり、神を知ることに専念できなかったという声を多く聞いています。

 現代の私たちは “Doing” の世界に生きています。勤め先を持ったうえに、習い事をしたり、趣味のサークルに加わり、教会でも、あのこと、このことと、かけもちで忙しく活動する。そうしたことが誉められ、忙しくしていないと、何か悪いことをしているように思う。現代はそういう時代です。しかし、信仰者は、“Doing” の世界だけでなく、“Being” の世界にも生きる者です。

 “Be still, and know that I am God.” ここには動詞が三つあります。“Be still” の “be”、“I am God” の “am”、それから、“know” です。“I am God” は、神がモーセにご自分を現して、“I am that I am”(わたしは有ってある者)と言われた言葉に通じます。聖書が「知れ」と言っているのは、「神について」のあれこれではなく、神が神であること、神ご自身、神の “being” です。この神の “being” を知るのは、私たちの “being” によってです。“Being”、“Doing”、“Knowing” の三つは深く結びついています。なかでも、“Being” はほとんど人の目に触れることがありませんが、植物の根のように、私たちを支えるものなのです。神の前に静まることによって、それを育てていきましょう。

 ところで、詩篇46は三つの部分に分かれています。1-3節、4-7節、8-11節です。その三つの部分のそれぞれの終わりに「セラ」という不思議な言葉が書かれています。ヘブライ語の詩篇には曲がついていて、それに従って歌われました。「セラ」は音楽符号のひとつで、「全休止」を意味すると言われています。この記号のところに来るとしばらくの間、歌が止み、楽器だけが鳴らされたようです。「セラ」が来ると、今まで歌ってきた言葉を静かに反復するのです。

 ユダヤの人々が、神の御名を直接口にするのをおそれおおいと考え、それを「アドナイ」(わが主)と読み替えたことはよく知られていますが、じつは、それだけでなく、聖書を読むときには、「アドナイ」と言ったあと、しばらくポーズをとり、自分が「アドナイ」と呼びかけた神のことをしばらく思いみました。信仰者たちは、それほどに、神の前に静まり、神を思うことを心がけてきたのです。  “Be still.” それは決して易しいことではありません。だからこそ、私たちはこのことを意識して行わなければならないのです。パンデミックによって活動が制限されているときこそ、神の前に静まることを身につけたいと思います。

 四、遣わされること

 しかし、私たちが神の前に静まるのは、次のステップに進むためであることも知っていたいと思います。すべてのものには「静」(stillness)と「動」(motion)があります。動き、休み、休み、動くのです。剣道では「静」があってはじめて「動」が活き、相手に一撃を加えることができます。弓道でもそうです。不動の姿勢をとる「静」があってこそ、そこから放たれる矢が的に当たるのです。体操でも、ダンスでも「静」と「動」のめりはりのきいたものが、美しい演技になります。現代の私たちは、「静」を忘れているために、次の「動」がいつも的外れになるのです。けれども、「静」だけで、それが「動」 につながらなければ、その「静」(stillness)はひとりよがりのものになってしまいます。

 詩篇46は「われらは恐れない」(2節)「神はそのただ中におられ、その都は揺るがない」(5節)と言っています。こうした言葉は、神の民に与えられている「平安」を言い表しています。神からの平安に満たされる、これは誰もが求めてやまないものです。しかし、私たちに与えられる「平安」には、その平安をにぎりしめ、神のみ心の道に従っていく、「派遣」が伴っていることを忘れてはなりません。

 イエスは多くの人々を癒やしましたが、その人たちに、「安心して行きなさい」と言って送り返しています。「安心して行きなさい」というのは、人を送り出すときの「あいさつ」の言葉で、旧約時代から使われていました(出エジプト4:18、士師18:6、サムエル第一1:17;25:35、列王記第二5:19)。しかし、イエスがそう言われたときには、「あいさつ」以上の意味がありました。イエスはルカ7:50と8:48でふたりの女性に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われましたが、イエスは彼女たちの罪を赦し、病気を癒やし、不安と恐れにかえて「平安」を注ぎましたが、その平安の力で、彼女たちを新しい生活へと送り出してくださったのです。

 「安心して行きなさい。」英語では “Go in peace.” です。復活ののち、イエスは弟子たちに「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言われました。弟子たちに平安を与え、彼らを世界宣教へと派遣されたのです。

 詩篇46には、「主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる」とあるように、主の平和、平安が世界に及ぶことが書かれています。神の救いにあずかり、平安を受けた神の民は、「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」という神ご自身の言葉を国々に伝えていくのです。

 外出がままならず、家にいることを、日本では「巣ごもり」と呼ぶのだそうです。鳥の巣ごもりは、卵を温め、命を育む期間です。同じように、私たちも、この時を、与えられている聖霊の命を育み、「コロナ」後の伝道と証に備え、遣わされていくために生かしたいと思います。

 (祈り)

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。」主なる神さま、この確信を私たちに与えてくださり、感謝します。この確信と、平安をお与えくださったあなたをさらに知り、人々に知らせるため、なおも、私たちを導いてください。今は、活動が停止されている、困難な時ですが、この時がただ過ぎ去るのを待つだけで終わらず、教会再開の後のリバイバルを求め、そのために備える時とすることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

8/29/2020