われらは恐れない

詩篇46:1-3

〜南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート〜

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46:1 神は われらの避け所 また力。/苦しむとき そこにある強き助け。
46:2 それゆえ われらは恐れない。/たとえ地が変わり/山々が揺れ 海のただ中に移るとも。
46:3 たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても/その水かさが増し 山々が揺れ動いても。 セラ

 一、「コロナ」による変化

 「神は、われらの避け所、また力。苦しむときそこにある強き助け。」マルチン・ルターには、フィリップ・メランヒトンという改革の協力者がいたのですが、よく、「フリップ、詩篇46を歌おうじゃないか」と言って、この詩篇を一緒に歌ったと伝えられています。実際、ルターは、この詩篇から、「神はわがやぐら」という讃美を作っており、それは宗教改革を導く歌となりました。このように詩篇46篇は、いつの時代も愛されてきた詩篇で、特に、困難な時に、人々の慰め、励ましとなってきました。

 2000年9月11日、同時多発テロが起こったとき、アメリカの多くの説教者たちがこの詩篇を引用して人々を励ましました。また、日本では、東日本大震災のときにも、この詩篇がよく使われました。2011年3月11日、マグニチュード9.0という巨大地震は高さが10メートルを越える津波を引き起こし、海岸沿いの町や村を破壊しました。家屋が海に浮かび、船が丘に押し上げられました。詩篇46の2-3節に「たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても。その水かさが増し、山々が揺れ動いても」と書かれていることが、現実に起こったのです。

 今年、2020年、新型コロナ・ウィルスが世界的に大流行し、アメリカが感染者も、死者も世界で一番になったとき、この詩篇が再び私の心に思いうかびました。今回のコロナ・ウィルスの大流行では、東日本大震災のときのように「山々が揺れ、海のただ中に移り…水かさが増し、山々が揺れ動く」ようなことはありませんでしたが、私たちの生活や社会が一変してしまいました。

 テキサス州には、アメリカで第10位までの人口の多い都市が3つもあります。全米第4位のヒューストン、第7位のサンアントニオ、そして第9位のダラスです。コロナ・ウィルスの感染は大都市で拡大していますので、大都市を3つも持つテキサス州では、感染防止のためのさまざまな規制をしているのですが、感染の拡大を防ぐことができないでいます。それは、全米2位のロサンゼルス、全米8位のサンディエゴ、全米10位のサンノゼという大都市を3つ持っているカリフォルニアでも同じだろうと思います。

 感染拡大が始まったばかりのころ、高齢の日本人女性が感染して亡くなりました。彼女は、ダラスの日本語教会に通っていた人でしたので、その教会の牧師に尋ねてみましたが、遺体は袋に入れられ、病院から運び出されたままで、葬式など、何一つ執り行えなかったそうです。

 また、ある姉妹は、5月末に、日本にいる母親が亡くなったという知らせを受けましたが、帰国することもままならない状態で、悲しみの中に浸っているとのことでした。

 また、ある姉妹は、5月末に、日本にいる母親が亡くなったという知らせを受けましたが、帰国することもままならない状態で、悲しみの中に浸っているとのことでした。

 別の姉妹は、今まで電車で通うことができた職場だったのが、その職場が無くなり、車で遠くまでいかなければならない職場に移りました。ダラスも、朝、夕の通勤時には道路がひどく渋滞します。新しいフリーウェーを作り、レーンを広げても、次から次へと車で埋まってしまいます。そんなときに感染拡大のため、自宅勤務となりました。最初、彼女は、「長距離通勤しなくて良かった」と思ったそうですが、自宅勤務は、思ったよりも大変で、同じく自宅勤務のご主人と、自宅学習の子どもも一緒なので、仕事も家事も進まず、ストレスの多い日々を過ごすことになったそうです。

 テキサスでは、学用品のセールス・タックスが免除される日があります。今年は8月7-9日でした。マーケットやデパートには、学用品のコーナーがあって、バックパックやペンシル・ケース、バインダーやノートブックなど、たくさん並んでいます。私の住む町の学校区では、8月18日からオンライン授業で、9月8日から通常授業が始まるそうですが、感染状況によっては予定が変わるかもしれません。オンライン授業といっても、高学年の子どもは自分でできますが、低学年の場合は、親の助けが必要で、親がつきっきりで勉強をみてやらなくてはなりません。また、教師の中には、急にオンライン授業になって、どうやって準備してよいかわらないで悩んでいる人もいます。

 コロナ・ウィルスの感染拡大は、世界の経済に打撃を与え、スモール・ビジネスを直撃しました。好調だったアメリカの雇用率も一気に下がりました。仕事を失った人、待機中の人、生活に困窮している人が多くいます。ようやく “Back to School” が実現しそうですが、“Back to Work” がまだまだの人も多いのです。じつに、今、私たちは、聖書の言葉通り、「地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移る」ほどの変化を目の当たりにしています。世界は恐れに満ちたものとなりました。

 二、思い煩い、不安、恐れ

 「恐れ」といっても、かならずしも、恐怖のあまりすくんでしまうということばかりではありません。「恐れ」は、まずは、「思い煩い」となって表れます。ニュースを見聞きしても、トップはいつも「コロナ」ですから、ほとんどの人が、「コロナ」の情報をかきあつめ、マスクや消毒用の薬品などを買いため、感染者数のグラフを毎日チェックしては、その数字に一喜一憂しています。買い物などに出かけるときは、マスクをつけ、手袋をし、帽子をかぶるなど、身支度して出かけなければなりません。家に帰ってきたら、着替えて、手洗いをし、うがいをします。そのたびにシャワーを浴びるという人もいます。野菜やくだものは専用の洗剤で洗うように言われていますし、パッケージも消毒してからパントリーにしまいます。外出は減りましたが、外出の前後にしなければならないことがうんと増え、そのため、日常の生活がかえって忙しくなりました。

 人の心には、ものごとを受け入れるのに一定のキャパシティ(容量)しかありません。その中にあまりにも多くのものが入ってくると、心が乱れてしまいます。ルカ10:41に「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」というイエスの言葉があります。「思い煩って、心を乱しています」(新改訳2017)という部分は、「心を配って思いわずらっている」(口語訳)、「心配して、気を使っています」(新改訳第二版)などと訳されていますが、「思い悩み、心を乱している」(新共同訳)や「思い煩って、心を乱しています」という訳がもとの言葉に近いと思います。「思い煩う」と訳されている言葉は、たとえばピリピ2:20に「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません」とあるように、誰かのことを心にかけるという良い意味でも使われますが、「心を乱す」という言葉は、決して良い意味では使われません。それには「おびえる」「動揺する」「妨害される」「秩序を失う」などという意味があります。

 ある時、イエスは会堂司ヤイロの娘の病気を治すため彼の家に向かいましたが、途中で娘が亡くなりました。イエスが家に着くと人々が泣き悲しんでいました。マタイ9:23に「イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て」とありますが、ここで「騒いでいる」と訳されている言葉は、ルカ10:41で「心を乱す」と訳されているのと同じ言葉です。これは使徒17:5では「暴動を起こす」と訳されています。  イエスと弟子たちを迎えたマルタは、彼らをどうやってもてなそうかと心配しました。マルタの気配りは彼女の長所でしたし、「旅人をもてなす」ことは神に喜ばれることでした(ヘブル13:2)。しかし、マルタは、そのことで心を乱しました。「心を乱す」という言葉の原語には、「警報におびえる」という意味もあります。マルタの心の中に、消防車や救急車、ポリス・カーのサイレンが鳴り響くような状態が起こり、彼女はパニックになったのです。私たちも、マルタと同じように、「コロナ」によって、今までしなくてよかったことが一度に押し寄せ、思い煩い、心を乱すようになりました。

 こうした思い煩いが繰り返されると、それは「不安」に変わります。思い煩うべき状況が改善されても、それが去っても、心が落ち着かなくなるのです。今、大丈夫なのに、そのことに安心できず、同じことがまた起こるのではないかと、たえず心配になるのです。そして、「不安」が嵩じると、それは「恐れ」となり、「恐れ」は私たちを捕まえ、私たちの人生を誤らせるのです。

 ですから聖書は私たちに「恐れるな」と言います。世界に恐れが満ちている今以上に、この言葉を必要としている時はないと思います。

 三、神への恐れ

 しかし、「恐れるな」と言われて、それで、すぐに「恐れ」が無くなるわけではありません。そのためには、まず「神を恐れる」というステップが必要です。“No Fear” という言葉を大きく書いたアパレルが流行ったことがありますが、その時、それに対抗して “Fear God” と書いたTシャツが売られるようになりました。「恐れるな」というのは、何をも恐れないということではなく、神を恐れることです。神を恐れることによってはじめて、「恐れ」が取り除かれます。イエスはこう言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)人は、「私は何も恐れない」と、どんなに表面で強がっていても、心では恐れにとらわれています。人は、この世界で主権者ではなく、全知全能でもないからです。しかし、神は、この世界の創造者、全知全能のお方で、すべてのものを支配しておられます。神を越えるものは何ひとつありません。神を恐れる者は、神によって、私たちを恐れさせる、あらゆるものの上に立つことができるのです。

 「恐」という漢字は、「恐怖」の「恐」で、「こわがる」という意味があるから、神に対しては「畏敬」の「畏」という漢字を使ったほうがいいという意見があります。しかし、神への「畏敬」は、まずは神を「恐ろしいお方」と感じるところから始まるのだと思います。

 J. B. Phillips が1953年に英国で出版した本に『あなたの神は小さすぎる』というのがあります。多くの人が神について、「雲の上の御殿に住む、白くて長いひげを生やしたおじいさん」というイメージを持っており、キリスト者でさえ、それとあまり変わらない考えを持っていないかと、その本に書かれていました。多くの人が、神が恐るべきお方であることを見落としていますが、聖書は、神について、「あなたがたの神、主は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神」(申命記10:17)と言っています。神は、侮られるようなお方ではありません。実際、神が人々に現れるときには、いつも恐れがありました。モーセが十戒を授かるときそうでした。聖書には「民はみな、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山を目の前にしていた。民は見て身震いし、遠く離れて立っていた」とあります(出エジプト20:18)。それで人々は、モーセに、「あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます」(同19節)と言ったのです。

 イザヤが神殿で幻のうちに神を見たときもそうでした。イザヤはそのとき、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と叫ばずにはおれませんでした。被造物にすぎない人間が、創造者である神の前に立つ。それだけでも恐ろしいことですが、さらに、罪ある人間が、どこまでも正しく、聖なるお方の前に出るとき、誰もが「ああ、私は滅んでしまう」と感じることでしょう。

 このことは、新約聖書でも同じです。ペテロはイエスの奇蹟を目の当たりにしたとき、足元にひれ伏し、船底に頭をこすりつけ、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言っています。

 現代は、神を恐れない時代です。神を「おそれ、かしこむ」畏怖、畏敬の思いが無いだけでなく、神を怖いとも思わなくなりました。「神なんて、“名前” だけのもので、いるのかいないのか分かったものではない。神がいても、私の助けにはならないし、いなくても困らない。人は死んだら終わりで、死んでから裁きがあるなんて信じられない」と言うのです。それで、人は、悪い事、不正なことをしても平気になりました。自分のしたことで、自分が不利になったら、反省するのでしょうが、それは「悔い改める」ということではなく、「もっとうまくやっておけばよかった」と「悔やむ」だけのことなのです。

 イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われたとき、それは明らかに、神の裁きのことを語っておられます。私たちはひとり残らず、人生の最後の時に、神の裁きを受けます。それだけでも、私たちは、神を恐れずにはおれません。まず神を「恐れる」ことから、神を「畏れ」、「畏む」ところへと導かれ、神以外の何者をも恐れない人生へと導かれていくのです。申命記7:21の言葉に聞きましょう。「彼らの前でおびえてはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、大いなる恐るべき神だからである。」

 四、助け主である神

 詩篇46は言います。「われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。」「われらは恐れない。」力強い言葉です。この詩を書いた人もまた、神を恐れる人だったのでしょう。神が「大いなる恐るべき神」であることを、知り、信じていたので、そう言うことができたのでしょう。たしかに神は「力あるお方」です。しかし、神は「暴君」ではありません。神はすべてのものを治めておられる「主権者」です。けれども神は「独裁者」ではありません。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け」です。力ある神が、私たちをかくまってくれるシェルター、避け所。力強い神が「そこにある…助け」なのです。あらゆるものを越えて高くおられるお方、すべての汚れから無縁の聖なるお方が、人々のそばに、手の届くところにおられて、「守り」となり、「助け」となってくださると言っています。

 なぜ、そんなことがありえるのでしょう。それは、神が、愛の神だからです。「全知」「全能」という言葉があります。あらゆることを知っておられる。どんなことでもできるという意味です。「全知」「全能」という言葉があるのなら、「全愛」という言葉があってもいいのではないかと思います。神の愛には限度がないという意味です。たとえ私たちがどん底に落ち込んでも、神はそこまで降りてきて、私たちを拾いあげてくださいます。人間の愛は、熱くなったり、冷たくなったりします。時が経てば変わります。しかし、神の愛は、永遠の愛です。不変の愛です。人間の愛には偽りがあります。親切そうに助けの手を差し伸ばしても、その親切や援助が純粋なものではなく、それによって人の上にたち、人をコントロールしょうとする人もいるのです。しかし、神の愛は違います。神の愛は、どこまでいっても愛です。神の愛に、表も裏も、外側も内側もありません。全部が愛です。神の愛は「全愛」です。

 神は、その愛で、罪ある人間に近づき、罪を赦し、きよめ、人間のほうからもまた、神に近づくことができるようにしてくださいました。人々は、シナイの山での神の現れに恐怖を覚えましたが、モーセは人々に神の愛をねんごろに語りました。イザヤは「私は滅んでしまう」と言いましたが、神はすぐさま彼をきよめてくださいました。ペテロは、イエスに「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言いましたが、主イエスは、ペテロから離れるどころか、ペテロをもっとご自分に近づけ、ペテロを「使徒」に選んでくださいました。

  ペテロは、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」との教えをイエスから直接聞いていました。ところが、大祭司の家の中庭で「この人も、イエスと一緒にいました」と言われたとき、彼は人を恐れて、「私はその人を知らない」と言いました。捕らえられたイエスがそこにおられた、その場所で、ペテロは自分の主を「知らない」と言ったのです。ところが、イエスはそんなペテロを赦し、受け入れてくださり、ペテロは、人を恐れることなく、「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)と説教する者となりました。ペテロは神の「全能」によってだけではなく、神の「全愛」によって、恐れから解放されたのです。

 使徒パウロも同じでした。彼は教会を迫害し、信者を捕まえては牢に送り込んだ人物です。ところがキリストは、そんな彼をも捕らえて離さず、ご自分の使徒とされました。パウロもまた、神の主権、力、栄光だけでなく、神の愛とあわれみ、恵みを知る人でした。彼は、その愛を、ローマ8章で、こう賛美しています。

8:31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
8:33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
8:35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
8:37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
8:39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 「キリスト・イエスにある神の愛」を知る者は、このパンデミックの中でも、神が、「われらの避け所、また力」であることを知ることができます。神が「苦しむとき、そこにある強き助け」であることを知り、体験します。そして「それゆえ、われらは恐れない」と言うことができるようになるのです。

 (祈り)

 「主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。主よ、私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立てるでしょう。しかし、あなたが赦してくださるゆえに、あなたは人に恐れられます。」(詩篇130:1-4)主なる神さま。あなたは、いと高く、聖なるお方であるのに、被造物に過ぎず、罪ある人間に、助けの手を差し伸ばしてくださっています。このパンデミックの中で、あなたが、私たちにとって、「苦しむとき、そこにある強き助け」であることを覚えさせてください。そして、「それゆえ、われらは恐れない」と、告白することができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/28/2020