神はどこに

詩篇42:6-11

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42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。
42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる/祈がわたしと共にある。
42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか」と。
42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

 詩篇42篇と43篇には、42:5、42:11、43:5に「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め」という同じ言葉が繰り返されています。このことから、42篇と43篇はもとは、三つの部分から成り立つ一つの詩であったことがわかります。これを現代の歌の歌詞になぞらえれば、42:1-4 が1番目の歌詞、42:5 は「おりかえし」、42:6-10 が2番目の歌詞、42:11 は「おりかえし」、43:1-4 が3番目の歌詞、43:5 が「おりかえし」となります。先々週は、第一番目の部分を学んだので、きょうは、第二番目の部分から学びましょう。

 一、苦しみの原因

 詩篇の多くがそうであるように、この詩篇も、作者の苦しみの中から生まれました。この詩を作った人は、かつてはエルサレムにいて神殿で神を礼拝していました。ところが、今は、エルサレムから遠く離れたところにいます。4節に「ヨルダンとヘルモンの地、ミツァルの山」という地名があります。ヘルモン山はガリラヤ湖のまだ北にそびえる高い山です。エルサレムから直線距離で120マイルもあります。その山が間近に見えるところと言えば、もうそこはシリアの国です。この詩の作者は、おそらく、エルサレムから自分の意志に反してここに連れてこられたのでしょう。

 住む家を失い、野宿をしなければならない辛さ。着る物、食べる物に事欠く苦しみ。家族や親しい人々から引き離された孤独。そうしたことは、災害のため避難生活をしている人々、戦争のため難民となった人々が今日も味わっています。自分ではそんな体験がなかったとしても、ニュースてそうした人々の姿が映し出されますので、わたしたちもその苦しみの幾分かを感じとることはできます。そうした姿を見るとき、それを人事と考えずに、必要な助けが与えられるようにと祈りたいと思います。

 しかし、この詩の作者には、そうした苦しみに加えて、もっとつらい苦しみがありました。それは、外国に来て、その国の人たちから「おまえの神はどこにいるのか」と言われることでした。古代では、国と国との戦争は、同時に、その国の神と相手の国の神との闘いであると考えられました。もし、この詩の作者が、イスラエルとシリアとの戦争の結果、シリアの捕虜となったのだとしたら、シリアの人たちは「自分たちの神々がイスラエルの神に勝ったのだ」と考えたことでしょう。「おまえたちの神はおまえたちを助けられなかった。いくら神に祈っても無駄だ。おまえたちの神はわれわれの神々に負かされてしまったのだ。」人々はそんな意味を込めて「おまえの神はどこにいるのか」と言って、イスラエルの神を侮辱したことになります。

 神を愛する者にとって、神が侮辱されることほど辛いことはありません。日本には、子どもが相手をなじるときに使う悪い言葉があります。それをそのまま口に出して言うことはできませんが、その言葉の最後には「おまえのかあさん、○○○」という言葉がついていて、それで相手の母親をなじるのです。自分のことなら我慢できても、母親が軽蔑されるとき、子どもはカッとなって、そこから喧嘩がはじまります。同じように信仰者にとって、自分が非難されることよりも、神が侮辱されることのほうがもっと辛いのです。

 2003年に『ダヴィンチ・コード』という小説が出版されました。この小説で、作者は史実ではないことを事実だと主張し、その作品を事実に基づいて書いたと言ったので、非難が起こりました。3年後、2006年に映画になったとき、この映画を巡ってちょっとした論争が起こりました。そのときクリスチャンの間でも意見の違いがあり、「たかが小説や映画のことで大騒ぎする必要はない」と言う人たちもいました。そんなとき、ロサンゼルの教会でカンファレンスがあり、ある牧師が説教の中で「たしかにこれは小説や映画のことかもしれません。しかし、わたしは、わたしの愛する主イエスが侮辱されていることに我慢できないのです」と話してくれました。私も同感で、『ダヴィンチ・コード』への反論を教会のニュースレターに書いていたので、思わず、そのメッセージに拍手を送りました。『ダヴインチ・コード』はわたしにとっては「おまえの神はどこにいるのか」というのと同じチャレンジでした。皆さんは今までどんなチャレンジを受けたでしょうか。

 二、苦しみの解決

 「おまえの神はどこにいるのか」というチャレンジは、多くの場合、わたしたちが何かの失敗をしてしまったときや、抱えている問題がなかなか解決しないで苦しんでいるときにやってきます。わたしたちの回りには、わたしたちを温かく見守ってくれる人もあれば、わたしたちにうまくいかないことがあれば責めてやろうと待ち構えている人もあります。そういう人たちから、「おまえの神はどこにいるのか」と言われることがあります。そうは言われなくても「それでもクリスチャンか」と言われることがあります。わたしたちは人の言葉に影響されやすいので、そんなふうに言われ、言われ続けると、ほんとうに神がどこかに行ってしまわれ、自分は神から見捨てられたかのように思いこんでしまうことがあります。詩篇の作者も、一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と言われ続けたため、そんな気持ちになってしまっていました。それで彼は「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」(9節)と言っています。

 人々が弱くなった人に「おまえの神はどこにいるのか」と責めたてるのは、「勝者には神がいても、敗者には神はいない。裕福な者には神はいても、貧しい者にはいない。健康な者には神はいても、病気の者には神はいない。喜んでいる者には神はいても、苦しんでいる者には神はいない。神が共にいないから苦しむんだ」などと考えているからです。しかし、事実は違います。神は決して苦しむ者、嘆く者から離れ去ることはありません。むしろ、わたしたちの苦しみや痛みを通して、もっとわたしたちに近づいてくださるのです。「おまえの神はどこにいるのか」という言葉に、わたしたちは「神はわたしと共におられる」と答えることができます。

 しかし、「神がわたしと共におられる」ということはどうしたら分かるのでしょうか。それは神の言葉、聖書によってですが、もうひとつは、祈りによってです。8節に「昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある」とあります。この詩の作者は夜、ひとり静かに神の前に出て祈りました。そのとき、「おまえの神はどこにいるのか」と言われ続け、心が乱れている間にも、じつは神のいつしみが自分に注がれていたのだということに気付きました。神は「わたしはここにいる」と示し続けておられたのです。彼は祈りの中で、そのことに気付きました。そして、「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」(11節)と自らを励ますことができるまでに信仰を回復したのです。

 握りしめているものを手から離し、神の前で祈る。それが問題に解決を与えてくれます。わたしたちは、問題に取り囲まれると、神に頼ることを忘れ、自分の力だけで何とかしようとして心を煩わせ、人々の言葉に心を悩ませます。そのために疲れ果て、力を失い、信仰を弱めてしまうのです。そのようなときは、祈りの中で、静かに神を待ち望むことがなによりの解決になります。

 『神が必ず聞いてくださる10の祈り』("Ten Prayers God Always Says Yes To")という本に、こんなことが書いてありました。この本の著者が友だちに自分のおじさんを自慢していました。ところが、彼の友人は「君にそんな立派なおじさんがいるなんて信じられない」と言いました。それで彼は、電話を取ってダイアルし、「もし、もし、フランクおじさん。ぼくの友だちがおじさんと話したいんだって」と言いました。彼の友人は、彼のおじさんと話して、彼の言ったことがほんとうだと分かりました。この話のように、わたしたちも神がおられるかどうかは、神に電話してみれば、つまり、祈ってみれば分かるのです。この本の著者は、「神さま、あなたがおられるなら、そのことを示してください」("God, Show me that you exist.")という祈りを、「神が必ず聞いてくださる10の祈り」の第一に掲げています。

 また、わたしの恩師はいつもこんな証をしてくれました。「わたしは友人に連れられて教会に行きました。そこに初老の女性宣教師がいました。その宣教師は『あなたの来るのを待っていましたよ』と言って、イエス・キリストのお話をしてくれました。それを聞いても、まだ、神を信じるという気持ちにはなれませんでした。そんなわたしのためにこの宣教師が一所懸命祈ってくれました。そのまぶたからは涙があふれていました。遠い英国から、日本の炭鉱や田舎で伝道し、わたしのために心を込めて祈っていてくれる。なぜだろう。それはイエス・キリストこそがほんとうの救い主だからに違いない。わたしは、聖書の言葉と宣教師の祈りによって神を知ったのです。」わたしたちもまた、聖書と祈りによって「神がおられる」ことを、いや、「わたしのために、わたしと共におられる」ことを知るのです。神がおられることをほんとうに知りたいと願うなら、聖書を学んでください。そして、心から祈ってください。さまざまな試練の中で「わたしの神はどこにおられるのか」と、神を 見失うことがあるかもしれません。そんな時は「あなたはどこにおられるのですか。わたしに示してください」と祈ってみてください。神は必ず答えてくださいます。「わたしはあなたと共にいる」と語りかけてくださいます。

 あるクリスチャンが無神論者の友人から "God is nowhere."(神なんてどこにもいない)と書いたカードを渡されました。それは、その友人からのチャレンジでした。それを受け取ったクリスチャンは、そのカードを受け取り、"nowhere" というところをクロスアウトし、"now here" と書き換えました。そして、丁寧に友人に返して言いました。「"God is now here."(神は今、ここにおられる)これがクリスチャンの確信です」と。神を信じる者、神を愛する者にも痛みや苦しみはやってきます。しかし、神はその中でも、信じる者と共にいてくださいます。わたしたちはそのことを聖書と祈りによって確信することができます。この確信のともしびを消すことなく、しっかりと守っていきましょう。

 (祈り)

 神さま、あなたが今、ここに、わたしたちと共にいてくださることを感謝します。そのことを見失うことがないよう、わたしたちに御言葉をもって語りかけてください。また、わたしたちも祈りによってあなたを呼び続けることができますように。主イエス・キリストによって祈ります。

7/19/2015