幸いな人

詩篇32:1-11

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32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
32:6 それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

 皆さんはどんな人がいちばん「幸いな人」だと思いますか。財産のたくさんある人でしょうか。姿容(すがたかたち)のいい人でしょうか。自分の願いを成し遂げた人でしょうか。それとも、平凡であっても、健康で、そんなに辛い目に遭うことなく暮らしている人でしょうか。どれもみな多くの人が願っていることですが、聖書は、別の種類の幸いを教えています。それは、健康で、お金があって、自分のやりたいことができて、人々の注目を浴びるというような「幸い」ではありません。それは、それがなければ健康、財産、能力、機会(チャンス)などといった「幸い」が無意味になってしまうものです。それは人間の幸いのすべてを支えている「幸いの中の幸い」と言ってもよいもの、「罪の赦し」です。詩篇32:1,2で歌われ、聖書のいたるところで宣言されている、「罪の赦し」の幸いです。

 一、日々の幸い

 「罪」とは、神のみこころにかなわないすべてのことを意味します。それは、かならずしも、「犯罪」とはかぎりません。人を刃物で傷つければ犯罪になりますが、言葉や態度、冷たい視線で傷つけても、犯罪にはなりません。しかし、犯罪にはならなくても、神の前には罪です。神が「してはいけない。」と言われているのに、それを破って罪を犯すこともあれば、「しなさい。」と命じられているのに、それを怠ってしないことによっても、私たちは罪を犯します。聖書が「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っているように、私たちはみな、神の基準に足らない罪人です。「自分はあの人のような悪いことをしていない。」「この人よりも善良だ。」と言いっても、それは神には通用しません。「罪」の反対語は「義」(正しさ)ですが、たとえ、積極的に罪を犯すことがなかったとしても、神の求められる「義」に欠けている分だけ、私たちには罪があるのです。神が人間に要求される義が100のレベルで、私たちが持っているものが10以下のレベルであれば、私たちは90以上のレベルの罪があることになります。神の義にとうてい届かない私たちにとって「罪の赦し」ほど必要なものはありません。

 もし、「罪の赦し」がなければ、心の平安がなくなります。心の平安がなければ、どんなにお金があっても、安楽な生活をしていても、心は惨めです。そして心が惨めであれば、どんなに頑丈な身体を持っていても、その人は本当には健康とは言えません。私たちの心と身体は密接にかかわっているからです。3,4節に「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」と書かれています。医学の研究が進み、「骨が疲れる」「骨髄がかわく」というのは、比喩の表現とばかりはいえないことが、わかってきました。私たちの心の状態が身体に大きな影響を与えていることがわかってきたのです。罪を持ったままで、心に平安のない人は、罪の赦しを体験し、それを確信している人にくらべて、骨の病気にかかりやすかったり、免疫能力が落ちたりするのだそうです。

 また、「罪の赦し」がなければ私たちは、人間関係の泥沼に落ち込んでしまいます。人間関係で傷つかない人はおそらくいないでしょう。身近な人と愛し合えないという悲しい出来事が起こるのは、そこに赦しがないからです。人は、まず、神から「罪の赦し」を受けてはじめて、他の人を赦すことを学びます。「罪の赦し」がないところでは、人を恨んだり、妬んだり、嫌ったりしたまま一生をすごさなければなりません。

 さらに、「罪の赦し」がなければ、過去に縛られたままの人生を送らなければなりません。実際、多くの人が自分の過去の罪や過ち、失敗にいつまでもとらわれて、出口のない生活をしています。「親がちゃんと育てていてくれたら…」「あんなことが起こらなかったら…」と、過去を悔やみ、誰かを責めながら生きるようになります。そこには何の希望もなく、将来もありません。しかし、もし「罪の赦し」があることを知り、それを体験するなら、私たちは過去から解放されます。「罪の赦し」は私たちが幸いな人生を送るためになくてならないものです。

 二、永遠の幸い

 「罪の赦し」は、私たちに地上での幸いな日々を与えるだけでなく、永遠の幸いを与えます。神は人間のたましいを永遠のものとして造られました。人は死んで終わりではないのです。死ぬとき肉体は朽ちてなくなりますが、たましいは残ります。聖書に「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。」(ヘブル9:27)とあるように、死後、神のさばきを受けます。この地上でどう生きたによって、永遠をどう過ごすかが決まるのです。もし、死後のさばきがなかったら、この世はほんとうに不公平なところです。聖書が、悪人について「彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。」(詩篇73:3-4)と言っているように、悪いことをした人がかならずしも、悪い目に遭うとはかぎりません。もし、神のさばきがないのなら、辛い思いをして正しく生きるよりは、生きているうちにしたいことをして楽しめばよいということになります。聖書は「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしょうではないか。」(コリント第一15:32)という言葉を引用して、神のさばきをあなどっている人々の姿を描いています。

 しかし、神のさばきはかならずあり、地上でのいっさいの悪は正され、不公平は埋め合わせられます。正しい神は、この世の悪をそのままにはしておかれませんし、正しい者の苦しみを見捨てておかれはしません。神のさばきにより、正しい者は天国に入り、罪あるものはそこから締め出されます。天国は、神が治められるもっともきよいところですから、罪を持ったままではそこに入ることができないのです。もし、そこに罪があれば、そこは天国ではなくなってしまいます。しかし、地上には罪のない人など誰もいませんから、神の基準に従うなら、誰ひとり天国に入ることができなくなってしまいます。けれども、罪人をあわれんでくださった神は、天国の扉を開く鍵を私たちのために備えてくださいました。それが、「罪の赦し」です。天国の扉は、どんな罪人をも寄せ付けないほどに高くそびえ、いっさいの罪や悪の汚れに対して完璧なセキユリティが施されています。しかし、「罪の赦し」という鍵があれば、そこを開けて入ることができます。体当たりしても、道具を使ってこじ開けようとしても、決して開かない頑丈な扉でも、鍵さえあれば、ちいさいこどもでも、簡単にそれを開けることができるのと同じです。「罪の赦し」が天国の扉を開ける鍵です。

 罪が赦されるためには、その罪を埋め合わせるものが必要です。旧約の時代の人々は罪の赦しを得るために動物の犠牲をささげました。その犠牲が罪を埋め合わせ、その流す血が罪を覆ったのです。しかし、動物の犠牲は一時的なものであり、やがて来るもののひな型にすぎませんでした。神のひとり子イエス・キリストが人となって地上に来られました。イエス・キリストは、私たちに罪の赦しを与えるために、あの十字架の上で、ご自分を「神の子羊」としてささげ、全人類の罪のために犠牲となられたのです。私たちは、このイエス・キリストの十字架によって、「罪の赦し」という天国の鍵を受け取ることができるのです。ある人が「天国の鍵は十字架の形をしている。」と言いましたが、天国の鍵は、イエスの十字架によって作り出されたものです。あなたは、もうそれを手にしているでしょうか。「罪の赦し」は、地上の幸いだけでなく、永遠の幸いも私たちに与えるのです。

 三、告白の幸い

 ではどうしたら「罪の赦し」は私たちのものになるのでしょうか。赦しは神のなさることです。神が私たちを赦してくださるのは、神の一方的な恵みとあわれみによることです。神は、私たちの罪の赦しのために、すでに、イエス・キリストをこの世に遣わし、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、今は、天に帰って、父なる神の右の座で、あわれみ深い大祭司となって、わたしたちのためにとりなしていてくださっています。罪の赦しに必要なことはすべて備えられているのです。赦しは神のものです。しかし、罪は私たちのものですから、私たちには自分の罪に対して、しなければならないことがなお残されているのです。それは、罪を認めること、罪を悔い改めること、そして罪を言い表すことです。

 まず、第一に、自分には赦されなければならない罪があることを認めましょう。ある注解書に「『幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。』とのことばは、『幸いなことよ。自分のうちに何の義もないと認める人は。』と言い換えるとき、一番その意味が分かる。」とありました。まさにその通りだと思います。自分には、神に受け入れられるような正しさを何一つ持ち合わせていないことを知っている人だけが、神の義を求め、それを受け取ることができるからです。聖アウグスティヌスは「人が最初に知らねばならぬことは、自分が罪人であるということである。」と言っています。

 第二は、その罪を悔い改めることです。罪を悔い改めるためには、神と自分にしっかり向き合わなければなりません。3,4節に「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」とありました。ここで、「黙っていたとき」というのは、神に対して自分の罪を言い表さなかったことを言っています。しかし、同時に、悔い改めの準備として沈黙のときを持って、自分を点検していたということかもしれません。しばしば見られることですが、人は、神に対して何か隠し事をしているときのほうが、よくしゃべります。あのこと、このこと、他の人のことをしゃべるのですが、肝心の自分の罪のことには決して触れません。クリスチャンの霊的な訓練のひとつに、"Solitude and Silence"(ひとりになって静まる)というものがあります。「ひとりになって静まる」のは、最初は怖いものです。沈黙の時を持つと、自分の心がいかに騒がしく、焦点が定まっていないかが分かります。最初は混乱します。しかし、神の助けを求めながら続けていくと、自分の姿が見えてきます。もう忘れてしまっていた過去の罪、ふだんあまり心に留めていない罪にも気付かされて、深い悔い改めに導かれていくのです。忙しく、騒がしい現代にこそ、「ひとりになって静まる」ことが必要です。

 第三に、罪を言い表すことです。漠然と「自分は罪人です。」と言って終わるのでなく、「私はこの罪を犯しました。」と罪に名前をつけ、それを声に出して言い表すのです。そのとき、神は私たちの罪を赦してくださるのです。詩篇に「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(5節)とあり、新約聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)とあるとおりです。もし、私たちが自分の罪を認めないなら、神はそれを責められるでしょう。また、私たちが罪を隠しているなら、神がそれを暴かれるでしょう。しかし、私たちが自分の罪を隠さずに言い表すなら、神がそれを覆い隠してくださいます。私たちが罪を認めるなら、神は、私たちのうちにある罪を見逃してくださるのです。1節に「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」とあり、2節に「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」とある通り、神は、私たちが言い表した罪を覆い、私たちが認めた罪を、私の罪として認められないのです。罪を言い表すことには、こんなに素晴らしい力があるのです。

 いつ、告白すればよいのでしょうか。早ければ早いほうが良いのです。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エペソ4:26)とあるように、一日が終わるまで告白を済ませましょう。もし、それができなかったなら、次の礼拝を迎えるまでには、罪を言い表し、赦しを頂きましょう。それでも、持ち越しているものがあるなら、二ヶ月一度の聖餐の前には処理しておきたいものです。聖餐がある前の一週間、「聖餐に備えて祈りたい方はアポイントメントをとってください。」と毎回呼びかけてきました。そうした時を活用してください。神に告白するとともに、信頼できる人にも告白することは大きな力になります。ヤコブ5:16に「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と教えられています。

 コンピュータに「リセット」ボタンというのがあります。プログラムが固まってしまったら、それを押すと、最初からやりなおしてくれるものです。「罪の赦し」は人生の「リセット」ボタンのようなものです。それによって、人生をやり直すことができるのです。バプテスマ(洗礼)は、人生最大の「リセット」ボタンですが、聖餐は、第二の「リセット」ボタンです。洗礼は生涯にただ一度ですが、聖餐はくりかえされます。それは、洗礼を受けた者たちも、その後、罪を犯し、失敗するからです。それで神は、聖餐のたびごとにやり直しの機会を与えてくださるのです。聖餐は再洗礼のようなものです。詩篇65:3-4に「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」とあります。神が、私たちに、罪の告白を求めておられるのは、刑事が犯人に「白状しろ。」と迫るようなこととは違います。神は私たちに「罪の赦し」を与えることによって、私たちを罪から解放し、きよめ、もっと神の近くに引き寄せようとしておられるのです。神の宮の良いもので満ち足らせてくださるためです。自分の罪に苦しむとき、その咎が自分を圧倒するとき、そこでへこたれることなく、罪を言い表し、「罪の赦し」を頂いて、世界一「幸いな人」へと変えられていきましょう。そして、その喜びの声で、この礼拝を満たしましょう。

 (祈り)

 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」(詩篇130:3-4)恵み深い神さま、あなたが赦しの神であることを感謝します。「罪の赦し」とそこから来る幸い以上の幸いはこの地上には存在しません。私たちを常に「赦し」の恵みの中に生かしてください。そしてそこから「きよめ」へと「奉仕」へと導いてください。恵みの主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/17/2008