一つの願い

詩篇27:4-10

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27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。
27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。
27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。
27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

 一、人が求めるもの

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローは「欲求の五段階」という理論を唱えました。この説によると、人間は「生理的欲求」、「安全の欲求」、「所属の欲求」、「自我の欲求」、そして「自己実現の欲求」という五段階の欲求を持っていて、一つの欲求が満たされると、次の欲求へと進んでいくというものです。五段階の一番下にあるのは「生理的欲求」です。これは、生きようとする意欲で、「生存の欲求」と言ってよいかもしれません。「生存の欲求」のなかで代表的なものは「食欲」でしょう。年をとるといろんな意欲が衰えますが、その中でも衰えないで最後まで残るのが「食欲」だと言われています。どんな病気になっても、「食欲のあるうちは大丈夫、回復する」と、良く言われます。

 「生存の欲求」が満たされると、次に人は「安全の欲求」を求めます。安心して生活できる環境、安定した生活のための保証を求めるのです。では、人は、「生存の欲求」や「安全の欲求」が満たされれば、それで満足できるかというと、そうではなく、次に、「所属の欲求」を満たそうとします。誰か他の人とかかわりをもちたい、家族が欲しい、どこかのグループに所属していたいと願うようになるのです。

 「所属の欲求」が満たされると、次は「自我の欲求」に進みます。自分の属している社会やグループから認められたいという願いです。そして、「自我の欲求」が満たされると、「自己実現の欲求」に進みます。それは、自分の能力を発揮して、創造的なことをすることを言い、芸術や学問、さまざまな事業などに形をとって表われます。

 マズローの説によると、生存の欲求から始まって、安全の欲求、所属の欲求、自我の欲求を次々と満たし、自己実現を果たすところに人間の幸せがあることになりますが、自己実現の頂点に立つことができる人は、ごくわずかです。世界中から「アメリカン・ドリーム」を求めて多くの人がアメリカにやってきますが、その夢を実現できる人はほんのわずかにすぎません。自己実現どころか、その日の食べ物にも事欠き、生存も危うい人々が世界中に多くいるのです。世界では食糧の危機が叫ばれており、それはいつアメリカにやってこないともかぎりません。この豊かな国にも、さまざまな理由でホームレスになり、食べる物に事欠く人々が多くいます。アメリカにいれば「生存の欲求」が満たされるという保証はどこにもありません。

 アメリカは、いままで、独立戦争や南北戦争を除いて、自分の領土が戦場になったことのない国です。パールハーバーを除いて外国からの攻撃にあったこともありませんでした。世界で最も「安全」な国のはずでした。しかし、9・11ではその神話が崩れ、人々は、大きな不安に巻き込まれました。テロばかりでなく、キャンパス・シューティングなど、かつてなかったようなことが起こるようになりました。今年の教団総会は USC のキャンパスで行われました。ロサンゼルスのダウンタウンにある大学ということで、セキュリティにはとても気を遣っていました。セキュリティの車がキャンパス内を頻繁に回っており、さまざまなところに、エマージェンシー・ポストがありました。それは、人の背丈よりも数フィート高い、円筒形をしたもので、そのてっぺんにブルーの警報ランプがあり、中ほどにスピーカーが取り付けられていました。緊急時にはそれが光り、指示を与え、キャンパス・シューティングなどに対応できるようにしてあるのでしょう。キャンパスも、もはや安全なところではなくなってきました。また、近年、世界中で地震などの災害が多く起こっています。アメリカでも、水害や火災で家や財産を失った方が多くいます。保険をかけたり、銀行にお金を預けても、保険会社や銀行まで倒産しかねない時代です。いままで、当たり前のように思っていた「安全」が、あたりまえでなくなってきています。人々は、今まで満たされていたと思っていた「安全の欲求」が満たされていないことに気付き、不安に襲われています。

 「所属の欲求」も、家族の崩壊、社会の乱れによって危うくなっています。みんなが「自我の欲求」を満たそうとして競争しあい、ぶつかりあり、人の心は固くとげとげしいものになっています。では、何かをやりとげ、成功し、人々から認められ、「自己実現」を果たせば、それで、人は幸せになれるのでしょうか。そうとはかぎりません。ジョージ・イーストマンといえば、コダックの創業者として有名な人ですが、彼は、大きな事業を成し遂げたあと、ピストル自殺しています。この世は、どの欲求の段階も保証してはくれませんし、欲求の段階の頂点に立ったとしても、それが人を満たすという保証もないのです。人の心には、人間の努力によっては埋め合わせることのできないものがあるのです。最近私は、犬を預かっているのですが、飼い主が犬を置いてでかけてしまうと、食べ物をやったり、かまってやっても、犬は、飼い主を慕って悲しそうに泣くのです。犬でさえそうなら、人間はもっとです。教会の集まりのとき、ナーサリールームで小さいこどもを預かりますが、母親を求めて泣く子もいます。どんなにおもちゃをあげても泣きやみません。でも、母親のところに連れていけば、たちまち泣きやみます。こどもには、母親が与えるものではなく、母親自身が必要なのです。同じように、神に造られた私たちも、神が与えてくださるものだけではなく、たましいの親である神が必要なのです。聖アウグスティヌスは、「神は人を神にむけてお造りなった。だから、人の心は、神のうちに憩うまで、安らぎを得ることができない。」と言いました。人間は神によって、「神のかたち」に造られました。ですから、自分で気付こうが気付くまいが、その心に神への求めがあって、それが満たされるまでは、ほんとうの平安がないのです。詩篇42:1-2に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはああなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」とあるように、人のたましいはみな、心の深いところで神を求めていまるのです。

 二、求めを満たす神

 詩篇27篇は、神が、私たちの生存の欲求、安全の欲求、所属の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求を満たしてくださるお方、いや、それ以上のものを与えてくださるお方であると言っています。1節に「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」とあります。私を造り、私を生かしてくださっている神ご自身が「いのちのとりで」なのです。これ以上の生存と安全の保証があるでしょうか。また、10節には「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」とあります。父親、母親から見捨てられるというのは、一番悲惨なことです。東南アジアの国々には、親から捨てられたこどもたちが、「ストリート・チュルドレン」になって、物乞いをしたり、盗みを働いたり、犯罪に利用されたりしています。私の知人はフィリピンの「ストリート・チュルドレン」を救い出すための働きをしています。こどもは、友だちから見捨てられても、親のところに帰っていくことができます。しかし、親から捨てられたこどもは帰っていくところがなく、所属の欲求が満たされることがないのです。しかし、神は、父親や母親にまさって私たちを愛してくださり、立ち返る者を迎え入れてくださいます。イザヤ49:10に「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。神の愛は母の愛にまさる愛です。神は、きよく、正しいお方ですが、同時に、愛とあわれみに満ちたお方です。ルカの福音書15章にある放蕩息子の父親は、父なる神の姿そのものです。私たちがどんな状態になっていても、父のところに帰ってくるなら、天の父は両手を広げて迎えてくださるのです。神を求め、神に返るとき、神は私たちの父となり、母となり、また兄弟姉妹、友となってくださいます。"To believe is to belong" ということばのとおり、信じる者を神の家族の一員としてくださるのです。

 詩篇27:6をご覧ください。「今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」ここには、「自我の欲求」を満たされた人の姿があります。敵に取り囲まれ、人々から卑しめられ、自信を失っていた人が、神によって、敵から救い出され、もう一度、自分を取り戻しています。人と比べ、競ってではなく、神にあって、自分の価値を見出しています。神から離れて自分を高めようとすると、私たちはたえず他の人と自分とを比べ、優劣を競いあうことになります。そこには、背伸びしている自分か、殻にとじこもっている自分しかなく、本当の自分がないのです。自分も、他の人も、神によってかけがえのないものとして造られている、ということが分かるとき、人は本当の自分を取り戻すことができます。神を見出してこそ、はじめて、人は神に愛されている自分を見出すことができるのです。これこそが本当に「自我の欲求」を満たすものなのです。

 また、ここには「自己実現」以上のものがあります。この詩篇を歌っているダビデはイスラエルの王であり、軍人であり、政治家でした。軍人や政治家にとって敵はつきものです。相手を打ち負かして勝利を誇り、自分の名前をとどろかせること、それが、古代の王が目指したことでした。現代でも、それが、政治家や軍人の目標とするところでしょう。しかし、ダビデは違っていました。ダビデは「私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。」と言っています。ダビデは、自分の名をあげることではなく、神をほめたたえ、神の名を高く掲げることを人生の目標にしていました。単なる「自己実現」は虚しいものです。「流行り物は廃れ物」ということばがあるように、一時的に名前が知られても、やがては忘れられていきます。人にほめられることを求めても、それは長くは続きません。しかし、神をほめたたえることは永遠に残ります。神のために生きる人生、神に喜ばれることを求めてする奉仕、神がほめたたえられるためにする働きは、自己実現以上の満足を私たちに与えてくれます。満たされた人生を求めない人は誰もいないはずです。そうなら、神を求めましょう。神にこそほんとうの満足があるのです。

 三、神を求める願い

 詩篇27:4に「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」とあります。ダビデは神への求めを「主の家に住むこと」ということばで表わしています。「主の家」というのは神殿のことです。ダビデの時代の神殿は、テント作りのもので、「幕屋」も呼ばれていました。幕屋には、祭壇はあってもベッドはありません。洗盤はあってもバスルームはありません。備えのパンはあっても豪華な食事はありません。燭台はあっても、エンターテーメントはありません。王宮にはそれらすべてが揃っているのに、ダビデは、立派な王宮に住むよりはテント作りの主の家に住みたいと言っています。なぜでしょう。そこには、ダビデが恋い慕う主がおられるからです。詩篇84篇に「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。…まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」ということばがあります。これはダビデよりも後の人の賛美ですが、ダビデのもまた、同じ気持ちで、神を礼拝する場所を慕い、神を礼拝することの幸いを体験しようとしていたのです。

 クリスチャンにとっての「主の家」は「教会」です。実際、英語の Church という言葉は、ギリシャ語の「キュリコン」(主の家)という言葉から生まれました。「主の家に住む」というのは、教会を自分のホームにするということです。主イエス・キリストを信じるものは主の家族に迎えいれられ、その一員となるのです。主の家が、自分の家になるのです。今、多くの人が日本に里帰りしていますが、そのように私たちは、日曜日ごとに教会に里帰りするのです。ある人のあかしに「教会の礼拝に出て、たましいのふるさとに帰ってきたように感じました。」という一文がありました。教会は、人々のたましいのホームです。教会がほんとうの意味でアットホームなところとなり、多くの人にそのことを感じていただけるところにしていきたいと思います。

 しかし、私たちが、教会をホームにするというのは、そこで親しい人と会うことができるから、長年来ていて勝手が分かっているから、日本語でおしゃべりができるからということ以上のものです。旧約時代の主の家が礼拝の場所であったように、新約の主の家、教会も、まず第一に礼拝の場所です。詩篇27:4にあるように、ここで私たちは「主の麗しさを仰ぎ見る」のです。主と主のことば深く思い、その「思いにふける」のです。ダビデは詩篇65:4で「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」と歌っていますが、ここ、礼拝の場所で、私たちは満たされるのです。とくに、聖餐は、満たしを体験する場所です。どこの家でも、人が一番集まるところはダイニング・ルームでしょう。主イエスは、十字架にかかられる前の夜、弟子たちをダイニング・ルームに集め、「これはわたしのからだである。」と言ってパンを渡し、「これはわたしの血である。」と言ってブドウ酒を渡されました。やがて、主イエスは、文字通り、十字架の上でご自分をささげ、血を流し、私たちの罪のためのあがないの犠牲となってくださいました。私たちは、新約時代の祭壇である聖餐のテーブルのもとに集い、主イエスを仰ぎ見ます。十字架の主のお姿は、人の目には決して麗しいもの、美しいものではありません。それは残酷で目をそむけたくなるようなものです。しかし、信仰によって十字架を見つめ続けるとき、復活された主イエス、天に帰られた主イエス、やがてそこからおいでになる、栄光に包まれた麗しい主イエスを見ることができます。そして、主イエスにご自身によって私たちは、養われ、満たされるのです。このようにして、私たちは天のふるさとへ向かっていくのです。教会は天のふるさとを目指す巡礼の群れです。地上のものからきよめられ、天に住むのにふさわしいものとされていくのです。年に52回の礼拝、年に6回の聖餐を重ねることによって、天にある主の家に住む確信を強められていくのです。ダビデは詩篇23篇の最後にこう歌いました。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」これこそが、礼拝を守り、聖餐を守る者に与えられる恵みです。

 ある一世のクリスチャンがこんな句を遺しています。

主の庭の
落ち葉掃きまし
かの世にて
「アメリカにやってきて、ガーデナーとして長年働き、やっと引退したころには、もう、天のふるさとに帰るときとなった。地上にいるときも、教会の庭の手入れをしてきたが、天に帰ったなら、主の庭の落ち葉を掃いて、主にお仕えしたい。」そんな思いを綴った俳句です。平凡な歩みでも、主を愛し、主を思い、主に仕えることを第一の願いとしてきた老一世の心がよく表現されていると思います。あまりにも、多くのものに囲まれ、忙しく、騒がしい現代に生きている私たちは、「一つのこと」、「なくてならぬもの」を忘れがちです。どんなときにも第一にすべきことは、「主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見、主を思うこと」です。この「一つのこと」に思いを向け、一週間をすごし、次週の聖餐を迎えましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、私たちに、私たちが願い求めるべきものが何であるかを教えていただき感謝します。あなただけが私たちの願いを満たしてくださるお方です。一つのものを求めるとき、他のものはすべて添えて与えられます。あなたを求め、あなたからの満たしを体験することができる私たちとしてください。麗しい主イエスのお名前で祈ります。

7/20/2008