恐れのない人生

詩篇27:1-3

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27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

 聖書には「恐れるな」という言葉が365回あると言われています。神は、一年365日の毎日、「恐れるな」と、私たちに語りかけてくださっているのです。それは、私たちのまわりに「恐れ」がいっぱいあり、私たちの心にも「恐れ」が満ちているからです。どんなに健康でも、経済的に十分でも、安全な場所に住んでいても、必要なものがすべて満たされていても、やはり、人の心にはぬぐいきれない「恐れ」があるのです。

 どのスポーツにも怪我はつきものですが、とくに体操競技は怪我をしやすく、見ていてもハラハラします。他の選手が目の前で演技に失敗して怪我をしたりすると、自分の順番が来た時、「自分も失敗するのではないか」という恐れがやってきます。そして、「恐れ」に捕まってしまうと、自分の力を十分に発揮できなくなり、思い切った演技ができなかったり、演技に失敗したりします。ひとりの人の失敗と怪我のあと、他の選手たちが次々、演技に失敗してしまうという場面が、ロンドン・オリンピックでもありました。その逆に、怪我を乗り越えてメダルを獲得した選手が何人もいました。恐れに捕まりやすい人と、恐れを乗り越えて進んでいく人の二種類あるのですが、いったい、その違いはどこから来るのでしょうか。

 一、過去の赦し

 最初に、恐れに捕らわれやすい人について考えてみましょう。恐れに捕らわれやすい人の多くは「過去の失敗」にこだわり続けています。「私は今まで、何度も失敗した。だから、今度も失敗するに違いない」と考えてしまうのです。水に溺れたことがある人は、「水泳なんか嫌だ。自分は絶対泳げない」と思い込んでしまい、水泳をやってみようともしないことがあります。一所懸命英語で話したのに、全然通じなかったりすると、「自分は語学の才能がないのだ」と思い込んで、英語で話さなくなってしまうこともあるでしょう。人間関係で痛い目に遇った人は、他の人との関わりを避けて、自分に閉じこもるようになるかもしれません。失敗を恐れて消極的になるのは、過去にこだわっているからです。

 誰も過去を変えることはできません。しかし、将来は変えられます。恐れに捕らわれやすい人は、過去が将来を決めてしまうと思い込んで、将来を変えようとしないのです。「私は、今まで不幸だったから、これからも不幸なのだ」と思い込んでいる人が何と多いことでしょうか。最近は何かというと DNA のせいにしてしまう傾向があります。その人の体質が DNA によって決定されているように、人生も DNA で決定されているなどと言う人がいます。「私には、不幸の DNA があるんです」と言った人がいましたが、果たしてそうでしょうか。私たちは、DNA の奴隷で、何の自由もないのでしょうか。もしそうなら、人生には選択の余地が無くなり、努力も向上も要らないことになってしまいますが、本当にそうなのでしょうか。

 いいえ、私たちは日々に、また、事あるごとに、どういう態度をとり、どういう行動をするかを選択しながら生きており、それが、将来を変えていくのです。同じ環境でも、上を見上げ、胸を張って歩く人もあれば、下を向き、うなだれて歩く人もあります。穏やかな表情で人に接する人もあれば、いらいらした表情で人に不愉快な思いを与える人もあります。それはその人の選択です。人生は、DNA や「運命」、「宿命」、また、「過去」によって決まるのではありません。ひとりびとりの人生に対する態度と、その時ごとに、どういう行動を選ぶかという、選択にかかっているのです。

 過去に失敗の無い人、どんな罪も犯さなかった人はありません。同じ失敗をしたくない、同じ罪を繰り返したくないと思っているのに、どんなに努力しても、過去の罪と失敗を繰り返してしまう、それが人間です。神からの罪の赦しを得ていないと、過去に縛られて正しい選択ができず、同じ罪を繰り返してしまうのです。恐れから自由になり、将来に向って進むためには、罪の赦しをしっかり握りしめ、過去から解放されていなければなりません。

 詩篇27:1は「主は、私の光」と言っています。神が「光」と呼ばれるとき、それは神の栄光やきよさを示しています。神は、光であって、どんな影も、曇りもないお方です。どこまでもきよく、どこまでも正しいお方です。ヨハネの手紙第一1:5-6に、こう書かれています。

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
そうです。光と闇が決して交わることがないように、神のきよさと人間の罪とはどんな接点も持ちません。しかし、イエス・キリストは、十字架の上でその血を流して、罪の赦しを勝ち取ってくださいました。もし人が罪を悔い改め、それを言い表わし、イエス・キリストを心に受け入れるなら、その罪は赦されます。イエス・キリストもまた、神と同じく、光であるお方ですから、イエス・キリストを受け入れた人の心は光で満たされ、光である神との親しいまじわりに導かれるのです。ヨハネ第一1:7-9はこう教えています。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
どんな罪の闇も光にさらされると、それは光に変わります。イエス・キリストによって罪の赦しを受けた者は、光である神の前に恐れなく出て、「主は、私の光」と言うことができます。これこそが、過去から自由になる道、恐れから解放される確かな道です。ギリシャの哲学者ピタゴラスは「人間は、恐れによって死んでいき、あこがれによって、生きる者となる」と言いましたが、私たちは、イエス・キリストによって、恐れから解放され、イエス・キリストのいのちで生かされるのです。

 二、将来の約束

 では、恐れを乗り越えて進む人はどんな人でしょうか。恐れに捕らえられやすい人は過去に目が向かっていますが、恐れを乗り越えて進む人は、将来を見つめています。過去の自分の姿だけを見つめるのでなく、神の恵みによって変えられていく姿を見つめます。キリストによって変えられていく変化を待ち望んでいるのです。過去に受けた痛みや、これから受けるかもしれない苦しみを、ただ恐れるだけでなく、それが、将来、もっと素晴らしいものをもたらすということを知って、それを待ち望むのです。パウロはキリストの使徒となってから、他の人の何倍、何十倍もの苦しみを受けました。しかし、その苦しみについて、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」(コリント第二4:17)と言っています。パウロは、将来の「重い」栄光を望み見ることができたので、今の苦しみを「軽い」と言うことができたのです。キリストが「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われれたように、パウロは、将来を待ち望む信仰によって、彼に与えられた数々の患難を軽いものにしてしまったのです。

 しかし、今の苦しみが将来の栄光になるというのは、どのようにして確信できるのでしょうか。人は誰も、将来のことは分かりません。明日のことさえ分からないのです。「一寸先は闇」という言葉がありますが、まさにそうです。けれども、神を信じる者には将来を照らす光があるのです。「主は、私の光」とあるように、神ご自身が行く先を照らす光です。また、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)とあるように、神のことばも将来を導く光です。この光に従っていくとき、私たちは本当の幸いを味わうことができます。この光に導かれる道は、栄光に満ちた天につながっていきます。信仰者には、将来の祝福の約束と、それを知る信仰の知識が与えられているのです。この知識の光が、私たちを恐れから解放してくれるのです。

 三、現在の守り

 また、恐れを乗り越える人は、「主は、私の救い」であることを知っており、神の守りを信じています。パウロがコリントの町で伝道していたとき、キリストはパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいる」(使徒18:9-10)と言われました。「恐れるな…わたしはあなたとともにいる。」("Do not be afraid. I am with you.")これは旧約にも、新約にも繰り返されている神の約束です。主が私とともにいて、私を守ってくださる。これ以上に、私たちを恐れから救う、力強い約束はありません。そして、真実な神はその約束を必ず守ってくださいます。この神と、神の約束を信じて、私たちも、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう」と、その信仰を言い表わしましょう。ここから、希望が生まれ、力が湧き出てきます。

 「私の過去が赦されている」、「私の将来が約束されている」、そして、「私の今が守られている」のに、どうしてまだ「恐れ」に捕らわれているのでしょうか。それは、私たちの側から、「主よ、あなたは私の光です。私の救いです」との信仰の応答がないからです。主は、一年365日の毎日、「恐れるな」と語りかけてくださっているのですから、この主に、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう」とお答えしましょう。この主を信じる信仰によって、恐れのない人生を歩んでいきましょう。

 (祈り)

 「恐れるな」と語りかけてくださる主よ、私たちはそのことばを聞きながらも、なお、恐れに捕らわれているような者たちです。どうぞ、そのような不信仰をいやし、私たちの過去を赦し、現在を守り、将来を導いてくださるあなたに信頼する者としてください。そして、その信頼を、今週の生活の具体的なひとつひとつの事柄に生かすことができるよう導いてください。私たちの光、また救いである主イエス・キリストによって祈ります。

8/26/2012