主は私の光

詩篇27:1-3

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27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

 一、闇の世界

 夏になると、思い出すことがあります。それは、こどものころ「肝試し」をしたことです。星も月も見えない、明かりなど何一つない夜に、お墓の裏口から入って、表に抜け出るのですが、「キャー」とか「ワー」とか声を立てると負けで、声を立てないで出てきたら勝ちという遊びです。私はお化け屋敷だの、肝試しといったものは好きではありませんでしたが、無理矢理やらされたことがあります。昼間なら、なんともないところでも、夜、真っ暗な中を歩くのは、とても怖いものでした。今では、墓地にも照明が行き届いていていますが、もし、停電になって、真っ暗だったら、やはり、怖いと思うでしょう。照明など何一つなく、他に車も走っていない山道をひとりでドライブするだけでも、とても不安になりますが、そんなところで、もしヘッドライトが切れたら、どうでしょう。たちまち恐れに取り囲まれてしまうのではないでしょうか。

 私たちは闇を恐れますが、その闇には、実際の闇だけではなく、私たちの人生の中に起こってくるさまざまな問題、困難、危機も含まれます。突然病気になったり、思いがけない出来事が起こったりするとき、闇に取り囲まれたように感じます。しかも、いつ病気が治るのかわからない、いつ事態が好転するのか全くわからない、また、問題の解決がいつまでたっても見られないといったとき、私たちは闇の中に閉じこめられているように感じます。たとえそれが遠くても、また、小さくても、少しでも先に光が見えていれば、それでも、前に向かって進むことができるのですが、何の光も見えないとき、私たちは恐怖と絶望の中に投げ込まれてしまうのです。たとえ、今は健康にも、経済にも、また、家庭にも恵まれていても、それが来月も、来年も続くという保証はどこにもありません。「一寸先は闇」ということばがあるように、明るく、楽しい人生が突然、暗く、悲しい人生に変わらないともかぎらないのです。

 二、心の闇

 また、闇は、私たちの外側だけでなく、私たちの心の中にも入り込んできます。不平、不満、不安がいつも心にあれば、たとえ、どんなに恵まれた環境の中でも、私たちはそれを感謝することができません。疑いや劣等感、ねたみがあれば、どんなにまわりの人が良くしてくれたとしても、それを喜ぶことができないのです。どこに行こうと、何をしようと、そこは暗い闇に閉ざされたところになってしまいます。自分の中に闇があるのですから、どこに行っても、闇がついてまわるのです。

 南カリフォルニアのリバーサイドに、ハーベスト・クリスチャン・フェローシップという、全米でも有数の大きな教会があります。この教会のグレッグ・ローリ牧師は、ハーベス・クルセードという大きな伝道集会を各地でひらいています。一昨年はサンノゼでもハーベストクルセードがありました。このグレッグ・ローリ先生は、17歳のときイエス・キリストを信じたのですが、それまでのグレッグ少年は、実は、たいへん荒れた生活をしていました。彼の母親は、アルコール症で、七回結婚と離婚を繰り返しました。母親の結婚相手が裕福だったため、お金には困りませんでしたが、彼の心の中はいつも空っぽでした。人生の汚い面をいやというほど見せつけられてきたため、17歳の時にすでに70歳の老人のように感じたそうです。母親のアルコール症を、あれほど嫌っていたのに、彼はパーティで酒を飲み、そして二年間ドラッグに手を染めました。しかし、アルコールも、ドラッグも、心を満たすものではありませんでした。グレッグ少年の心を深い闇が支配していたのです。しかし、彼のハイスクールに、カルバリ・チャペルの伝道者が来て、学校の中で伝道集会が行われました。グレッグは最初、そのメッセージに反発して聞いていたのですが、「もし、それが本当だったらぼくの問題は解決するかもしれない。」と思うようになりました。「どうやったら、自分は変わることができるというのだ。キリストを信じるしか他はないじゃないか。」と気付いたのです。「イエス・キリストを信じる人は前に出て来なさい。」との招きにグレッグ少年は答えました。そのとき、彼は心の闇から解放されたのです。

 三、闇から光へ

 イエス・キリストを信じるとき、私たちは、私たちを取り囲む闇からも、私たちの心に入り込んでいる闇からも 解放されます。聖書に出てくる使徒パウロは、もとはクリスチャンを迫害する人でした。すぐれた学者であり、宗教に熱心な人でしたが、自分でもそれとは気がついていませんでしたが、心に暗闇を持っていたのです。しかし、イエス・キリストを心に迎え入れたとき、彼もまたその暗闇から解放されました。パウロはその時の体験を「それは、彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(イエス・キリスト)を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」(使徒26:18)ということばで言い表しています。使徒ペテロも「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(ペテロ第一2:9)と聖書に書いています。「闇から光へ」という体験は、いつの時代の、どこのクリスチャンにも共通のものです。私も、グレッグ・ローリ先生が闇から光へと立ち返ったその5年前に、日本で、同じ体験をしています。

 イエス・キリスト「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言っておられます。あなたはいのちの光を持っていますか。それに囲まれて生活していますか。イエス・キリストを、あなたの心に、あなたの生活に、そして、あなたの人生に迎え入れるなら、闇から光に向かうことができます。あなたを囲む闇を恐れることはなくなるのです。あなたの内側にある闇も追い払われるのです。あなたもイエス・キリストを「私の光」として心に迎えませんか。「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」(詩篇27:1)

 (祈り)

 私たちの光である主イエス・キリストよ、私たちの心を絶えず照らし、私たちの光となってください。そして、あらゆる闇に打ち勝つ者としてください。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊のまじわりが私たちとともにありますように。アーメン。

7/13/2008