誠実な歩み

詩篇26:1-12

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26:1 私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。
26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。
26:3 あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。
26:4 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。
26:5 私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。
26:6 主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。
26:7 感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。
26:8 主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。
26:9 どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。
26:10 彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。
26:11 しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。
26:12 私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。

 一、この世の不誠実

 最初に、日本昔話を一つ。昔々、あるところに与助という商人がおりました。与助は、商売は繁盛しているものの、不幸なことに一人娘を嫁入り前に亡くし、少し前には長年連れ添った奥さんを亡くしたばかりでした。こどものいない与助は、甥の義三を大番頭に迎えて、身代をゆずることにしていました。そんなある日のこと、与助が義三を連れて、取引先から帰る途中、ひとりの旅の女が道にうずくまっているのを見ました。与助が近づいてみると、なんと、その女は亡くした娘によく似ているではありませんか。与助はかわいそうに思って、義三に女をおぶわせ、店に連れ帰りました。

 店に帰って、女の世話を女中に頼みましたが、あいにく新しい女中が入って、部屋がないということでした。与助は「わしの部屋に泊めてやればいい。わしは義三の部屋に行くから。」と言いました。義三は、「旦那様の部屋には大事なものが…。万一のことがあれば…。」というのですが、与助は「いや、あの女は、わしの娘に似ていてな、悪い人とは思えんのじゃ。大事なものはみな錠前のある戸棚に入っておる。大丈夫じゃ。」と言って、その女を自分の部屋に泊まらせました。

 翌朝、旅の女が与助のところに来て言いました。「旦那様のおかげですっかり良くなりました。しかし、このまま旅立ってしまったのでは、あまりにも申し訳ございません。せめてもう一日、旦那様の身の回りの世話をさせていただき、ご恩に報いたいと思います。」与助は「そんなことは気にしなくて良い。」と言うのですが、女があまりに願うので、「では気の済むようにしなさい。」と、女をもう一晩泊めることにしました。この女の良く働くこと、よく気がつくこと、それは長年与助に仕えてきた女中や下男にもおよびませんでした。与助は「鶴の恩返しという話があるが、まるでそのようじゃなぁ。」と言って、上機嫌でした。

 女が旅立つ日となり、与助は、見送ってやろうと部屋に行くと、中から「旦那様、今、お部屋を片付け、旅支度をしております。それまで、すこしお待ちください。」という声が聞こえました。与助は店に戻って待っていましたが、いつまで経っても女は出てきません。義三をやって見てこさせると、「女の姿は見えません。」との知らせ。かけつけてみると、戸棚の錠前があけられており、そこに入れてあった大金がごっそり消えていました。それを見て与助は言いました。「あの女がもう一晩泊めてくれといったのは、錠前破りのための時間かせぎだったのか。ああ、鶴の恩返しかと思ったが、鶴どころか、あの女はサギじゃった。」

 これはたわいもないジョークですが、現実には、笑ってすまされない話がいっぱいあります。ニュースでよくとりあげられますが、多くの人が詐欺に遭い、財産を失っています。だますほうも悪いが、儲け話につられてだまされる方も悪いと言われることがありますが、そうとばかりは言えません。借金を背負っている人が「肩代わりをしてやるから」といわれ、もっと大きな借金を背負わされるようになったり、病気の人が「これを買えば病気が治る」と言われて、効きもしない高額の品物を買わされることも多いのです。以前、耳の不自由な人に「障害のある人が安心して暮らせる福祉施設を作るから」と言って大金をだまし取った詐欺事件がありました。この事件をおこした女性は手話ができたので、手話で語りかけて、耳の不自由な人たちを信用させていたのです。社会的に弱い立場にある人をだますなど、とんでもないことですが、詐欺師たちは、高齢者など、弱い立場にある人たちを狙うのです。

 このような犯罪でなくても、約束を平気で破る人、責任を果たさないでみんなに迷惑をかける人、打ち明けた秘密を誰彼かまわず言いふらしてしまう人、責任者や担当者でもないのに、勝手な口出しをして自分の思いどおりに事を運ぼうとする人たちに、皆さんも、困らせられた経験があることでしょう。聖書は「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」(テモテ第二3:1-5)と預言しています。このことばのとおりに、今日、人々は、誠実さなど一銭の得にもならないと思うようになっています。聖書は「こうした人々を避けなさい。」と教えていますが、「人々を避ける」というのは、世の中から引きこもってしまうことを意味していません。もしそうなら、私たちはこの世で生きていくことができなくなります。これは、この世の中に生きていても、この世の中の不誠実さに染まってしまわないようにということなのです。それに染まらないばかりでなく、そんな時代の中にも、誠実さに価値を置く人がなお多くいると信じて励むことなのです。かつてアブラハム・リンカーンが小さな商店を開いていたころ、お客さんに渡す釣り銭が間違えていたのに気付き、わずかなお金でしたが、一日がかりでそれを返しに行ったことがありました。そのときからリンカーンに「正直者のエイブ」というニックネームがつくようになりました。リンカーンには政治上の敵、政敵が多くいたのですが、その誠実さによって彼は、政敵をも味方につけていき、アメリカで一番愛される大統領となりました。神は、クリスチャンに世の不誠実に巻き込まれることがないようにというだけではなく、誠実さを求めている人々の希望のともしびになりなさいと教えておられます。世の中を暗いとつぶやくだけでなく、その中で誠実さを貫き通し、人々の光となることによって、神を信じる者は同じように誠実に生きたいと願う人たちの励ましとなることができるのです。

 二、神からの誠実

 詩篇26はそのような神の求めに対する応答の祈りです。1節は「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」と言っています。これは、とりようによっては、ずいぶん傲慢な祈りに聞こえます。自分は誠実さにおいては何の問題もないと、自信たっぷりに言っているようにも受け取られます。「義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯している。」のです。きよい神の前には、誰も私は大丈夫と言うことができません。しかし、この祈りをささげたダビデは、自分に何の罪もないと言っているのではありません。すべての人に罪があっても、それを悔い改め、赦していただき、神のあわれみを求め、それによって罪から離れて歩む人もあれば、どうせ人間は罪人なのだからと言って罪の誘惑にやすやすと乗ってしまい、それを楽しむ人とは区別されなければなりません。ダビデは、詩篇25:6ー7で、こう祈っています。「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」ダビデは、自分の罪を知っている人でした。そればかりでなく、自分の罪を赦してくださった神の大きなあわれみを知っている人でした。詩篇26:3では、「あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。」と祈っています。神の真理のうちを歩み続けることができたのは、自分の力によってではない、神の恵みによってですと、告白しています。ダビデは自分の正しさに頼り、自分の誠実さを誇っているのではなく、神の正しさにより頼み、神から来る誠実さについて語っているのです。

 ダビデが言っている誠実さは神からの誠実さです。「誠実」という言葉には「分かたれていないもの」という意味があります。身近な言葉で言えば、「ふたごころがない」「裏表がない」ということです。多くの人は、こちらの人の顔色をうかがい、あちらの人の顔色をうかがい、あちらに調子をあわせ、こちらに調子をあわせながら生活しており、そのことを悩んでいます。自分の友だちがまわりの人々からいじめられているのに、自分もその人たちからいじめられることを恐れ、その人たちに調子をあわせ、自分の大切な友だちを守ってやれなかったということを後悔している人の話を聞いたことがあります。誰かに危害を加えてやろう、人をだましてやろうとしなくても、悪意をもって何かを企んでいる者、自分たちの思い通りのことを成し遂げようとしている者たちに調子を合わせたり、是認したりしてしまうと、結果として、その悪事に荷担することになります。そうした者たちに苦しめられている人たちへの加害者になってしまうのです。こちらのグループに合わせ、あちらの人たちにあわせして、二つの顔を、いや、二つどころか三つも四つもの顔を使いわけている人たちがなんと多いことでしょう。その中には、無意識でしている人もあれば、心を痛めながらも、そうすることを強いられている人たちもいます。

 しかし、神は一つの顔しか持っておられません。神は一つのこころしかお持ちになっておられません。神にはできないことが何一つないのですが、ただ一つできないことがあります。そればご自分を偽ることです。神はご自分を偽ることができないのです。神はいくつもの顔を使いわけることはありません。心変わりされるお方ではありません。神は神をないがしろにする者にはどこまでも厳しく、神のあわれみを求める者にはどこまでも寛容なお方なのです。神は、まっすぐに、ひたすらに、その真実を貫き通されます。神は、私たちが神に対して不誠実であったときにも、私たちに真実を貫き通されました。ローマ5:8に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあるではありませんか。私たちが「神なんかいない。イエスが神であるわけはない。」と言っていたその時に、いやそれ以前、2000年前に、神はすでにイエス・キリストの十字架による救いの道を備えていてくださっていたのです。私はよく、「今から2000年前のキリストの十字架が、なぜ、21世紀に生きている私を救うのですか。」と質問されることがあります。多くの人は、なにごとも、時間が経てば力がなくなると思いこんでいるのです。しかし、神の愛は、神の真実は時間が経とうと変わるものではありません。2000年前の十字架が今の私たちを救うのは、永遠に生きておられる神が2000年間、変わらず、私たちを愛し続けてくださったいたからです。それが、2000年たっても変わらない愛と真実だからこそ、私たちを救うのだと、私は、答えたいのです。キリストを信じた者はみな、この神の真実に、いつか、どこかで出会ったのです。ギリシャ語では、「信仰」という言葉も「真実」という言葉も同じ言葉が使われています。神の真実に私たちの精一杯の真実が出会うとき、そこに信仰が生まれ、この信仰から、私たちの誠実な歩みが生まれるのです。

 ですから、「私は誠実に歩みました。」というのは、「私は、もとから、十分に誠実な人間です。」という、誇り高ぶったことばではなく、「真実で誠実な神よ、私は、あなたによって真実なものとされ、誠実な歩みをさせていただきました。」という信仰のことばなのです。ダビデは「私は誠実に歩みました。」と言ったあと、「よろめくことなく、主に信頼しました。」と言っています。ダビデは、自分の誠実さではなく、どこまでも誠実な神の誠実さに、その神を信じる信仰から来る誠実さに、より頼んだのです。ですから、ダビデは、神に向かって「私を弁護してください。」と祈っているのです。ダビデの神に対する信仰をいちばん良く知っているのは神だからです。信仰者の誠実さは、それが第一に神に向けられているので、しばしば人に誤解されることがあります。しかし、主は、それを一番良く知っておられます。誤解をうけ失望するようなときには、主に訴えましょう。主は、誠実な者を弁護してくださいます。

 三、神への誠実

 私たちの誠実さは神から来ます。では、次に、どのように、神への誠実さを表したら良いのでしょうか。4節と5節に「私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。」とあります。これは、詩篇第一篇を思い起こさせますね。詩篇1:1「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」とあります。この詩篇の最初のことばは、詩篇全体のテーマ、「正しい者の幸い」をみごとに描いています。正しい者は悪者と一緒に歩くこと、罪人と共に立つこと、あざける者と共に座らないのです。つまり、そうした者たちと、同調しない、妥協しない、行動を共にしないのです。では、正しい人は、どこに歩み、どこに立ち、どこに座るのでしょうか。まず、26:6に「主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。」とあります。正しい人は、神の祭壇のまわりを歩き、神に感謝をささげるのです。そして、26:12には「私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」とあります。正しい人は、正しい人のつどいに立ち、そこで神を賛美するのです。さらに、26:8には「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」とあります。正しい人は神の家に座り、そこで、神と神のことばを深く想うのです。

 「あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所」というのは、ダビデの時代には神殿でしたが、今日の時代では教会です。イスラエルは旧約時代の教会であり、教会は新約時代のイスラエルです。教会とは、しばしば言われるように建物のことではなく、神を信じる人々の集まりのことです。たとい、教会堂がなく、野外で集まったとしても、そこは教会になります。しかし、単に人が集まれば教会になるかといえば、そうではありません。教会には、「人の集まり」以上のものが必要です。スタジアムには人が大勢集まります。人々は、そこにある野球のダイヤモンドやフットボールのコートを目指して集まります。そして、選手達の活躍に興奮し、彼らの栄誉をたたえるのです。コンサートホールにも人が大勢集まります。人々はステージに注目します。そこで見るもの、聞くものを喜び、ミュージシャンやダンサーに拍手を送るのです。では、教会では何に向かって集まるのでしょうか。何を喜び、ほめたたえるのでしょうか。その目に見える場所は聖餐のテーブルです。聖餐のテーブルは、新約時代の祭壇です。そこには、イエス・キリストが私たちの罪のためにご自分をささげられた尊い犠牲がささげられる新約時代の祭壇です。イエス・キリストはその死と、復活によって、全世界のための救いのわざをなしとげられました。そして、もう一度、この世界に来られて、その救いを完成してくださいます。イエス・キリストの死と復活と再臨を覚える場所、主がそこにおられる場所、聖餐のテーブルに向かって人々が集まってこそ、その集まりは教会となるのです。それぞれが別々の目的で好き勝手に集まってもそこは教会になりません。そこでイエス・キリストにお会いし、イエス・キリストによって養われ、いやされ、励まされ、ひとつになっていくところ、それが、教会であり、教会の礼拝です。

 世の中は甘くはありません。誠実に歩むことに何の価値も置いていない人々が渦巻いています。そんな中で誠実に歩むことはたやすくはありません。信仰者でさえ、「自分ひとりが誠実に歩んだところでどうにもならない、得をするのは要領良くやっている人だけだ。」という気持ちになって、誠実さを失ってしまうことがあります。そうならないために、私たちは、正しい人のつどい、礼拝に来るのです。5節に「私は、悪を行なう者の集まりを憎みます。」とあるのは、とても強いことばに聞こえますが、これは、「私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」ということばと一体になっています。主の家を愛する者が同時に、悪を行う者の集まりを愛することはできません。偽りを憎むことなしに、真実を愛することはできません。闇を憎むことなしに、光を愛することはできません。憎しみを憎むことなしに、愛を愛することはできないのです。このようなきっぱりした態度を、礼拝で養われてこそ、私たちは世の中に出て行っても、不誠実に流されることなく、神からの誠実さを示すことができるようになるのです。そうでないと、悪を行う者に対して腹を立てて終わったり、不正を行う者に対してねたみを起こしたりするだけで終わってしまいます。詩篇37:3-4は「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」と言っています。神への誠実さを、礼拝によって養われ、私たちに誠実を尽くし続けておられる神を、誠実な歩みによってあかししていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちに「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)と語ってくださっています。あなたの誠実な愛こそ、私たちの誠実な歩みの土台です。私たちはあなたの誠実さにより頼みます。私たちを、この世であなたの誠実さを表す道具としてください。暗い世に、輝くともしびとして用いてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/6/2008