満ち足りた人生

詩篇23

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23:1 【ダビデの歌】主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 詩篇で一番愛されているのは、おそらく23篇でしょう。皆さんはすでに、これを暗記していて、聖書を開かなくても、全部を唱えることができると思います。もし、まだでしたら、ぜひ、そうしてください。今年の年間聖句は「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ3:16)で、御言葉を心に宿すことを心がけていますが、この詩篇は、いちばん最初に心に宿したいもののひとつです。

 一、羊飼いと羊

 詩篇23篇は「言葉で書かれた絵」(Word Picture)です。これを読み、暗唱するとき、目の前にひとつの風景が浮かんできます。雲ひとつない青い空、その下にどこまでも続く緑の牧草。そこに小川が流れ、水の面は陽の光を浴びてキラキラ輝いています。羊たちは、そこで、満腹するまで草を食べ、渇きがいやされるまで水を飲んでいます。小羊は駆けまわり、疲れたら、安心して眠ります。この詩篇の最初に「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」とあるように、こうした情景は満ち足りた人生を象徴するものです。

 しかし、牧草がたくさんあり、十分な水があっても、そこが安全な場所でなければ、羊は安心して草を食べ、水を飲むことができません。詩篇23篇には「死の陰の谷」や「わざわい」(4節)、また「敵」(5節)という言葉も出てきます。羊にとっての「わざわい」とは、迷って行ったらもう戻れないような場所のことで、「敵」は、羊を襲おうとする動物のことでしょう。ですから、わたしは、詩篇23篇を心に描く時、緑の牧場の下のほうに、こうしたものを加えます。この世はすべてが緑の牧場ではないからです。成功の陰に失敗が待っていたり、楽しみの背後に誘惑が潜んでいます。安心しきっているところに突然、災難がふりかかって来ることもあります。

 ですから、羊には羊を守り、導く羊飼いが必要なのです。どんなに豊かな牧草や、渇きをいやすのに十分な水があったとしても、羊飼いなしには、羊はそれを楽しむことができません。

 それは、わたしたちも同じです。現代のわたしたち、とくに、日本やアメリカのような豊かな国に住むほとんどの人は、食べるのに事欠くようなことはほとんどありません。それなのに、多くの人が満ち足りた人生を味わうことができないでいます。不平不満や思い煩いの中に生きています。また、満ち足りた人生を追い求めることもせずに、自分の殻の中に閉じこもり、あきらめの中に生きている人も多くなりました。なぜでしょう。心の豊かさは、モノが豊かになれば自動的に増えていくようなものではないからです。神からの平安を持つまでは、たとえそこにどんなに豊かなものがあっても、それを感謝して楽しむことができないからです。

 それで、わたしは、詩篇23篇を心に描くとき、その絵の真ん中に、羊飼いを大きく描きますが、皆さんもきっと、そうするでしょう。皆さんが描く羊飼いはどんな姿をしていますか。わたしの羊飼いは、主イエスです。主は左手に子羊を抱き、右の手には杖と鞭を持っています。羊飼いの鞭や杖は、それによって羊を狙う動物を追い払うためのものです。わたしの魂を狙うものがあるとき、主は、その鞭で、それを追い払ってくださいます。また、羊飼いの杖は、その先がクエッション・マークのようにくるんと曲がっています。羊飼いはその曲がったところで、迷いだそうとする羊を捕まえて、自分のところに引き寄せるのです。そのように、主は、わたしが迷う時には、そこから連れ戻してくださいます。4節に「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」とあるように、主の鞭や杖は、わたしを守り、戒め、また導くもの、わたしを慰めるものです。

 もし、羊が弱ったり、傷ついたりしたら、羊飼いは羊をその肩に背負ったり、その胸に抱いたりして、介抱します。たとえわたしがひどく弱り、傷つくことがあっても、わたしは満ち足りていることができます。羊飼いである主の手に抱かれているからです。信仰者の満ち足りた人生は、決して環境や、その人の力から来るものではありません。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」とあるように、満ち足りた人生は、羊飼いである主から来るのです。主を「わたしの牧者」とするところにあるのです。

 皆さんは、主イエスを「わたしの牧者」としていますか。「主よ、あなたはわたしの羊飼いです」と告白していますか。羊飼いである主に従う心と姿勢を保っていますか。主をわたしの羊飼いとする信仰をいただいたのに、そこから心が離れてしまってはいませんか。主によってしか満たされないものを、他のもので満たそうとしていないでしょうか。「主はわたしの牧者」という信仰がなければ、ほんとうの意味で「わたしには乏しいことがない」と言い切ることはできません。しかし、「主はわたしの牧者」ということができれば、たとえ、わたしたちが弱く、傷ついていたとしても、そこが「死の陰の谷」であっても、わたしたちは、「わたしには乏しいことがない」ということができるのです。わたしたちを満ち足らせてくれるもの、それは「緑の牧場」や「いこいのみぎわ」そのものではなく、そこに導いてくださる主ご自身なのです。

 二、主人と客人

 さて、1〜4節は羊飼いと羊の姿を描いていましたが、5〜6節には主人とその客人の姿が描かれています。古代の中東では、主人が大切な客を迎えるときには、まず、客人の足を水で洗い、あいさつのキスを交わし、その人の頭に香油を塗るという風習がありました。それはイエスの言葉に見ることができます。イエスが、あるパリサイ人に招かれたとき、ひとりの女性がイエスに近づき、その足に香油を塗りました。それはイエスに感謝を表わす行為でしたが、そのパリサイ人はそのことを心の中で批判していました。それでイエスはこう言われました。「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。」(ルカ7:44-46)このパリサイ人は、イエスを客として迎えましたが、まごころからのものでなかったので、彼は、大切な客人にすべきことをしなかったのです。

 ふつう、客人を迎えた主人は、客人に杯を持たせ、その杯にぶどう酒をあふれるまで注ぎます。それは、「この杯に注がれたぶどう酒のように、わたしはあなたにあふれるばかりの友情を持っています」ということを表わすためでした。ですから、「あなたは…わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます」(5節)は、わたしたちが主の大切な友として、愛をもって受け入れられている喜びを歌った言葉なのです。

 しかも、この主人は「王」です。「敵の前で宴を設ける」とありますが、これは戦いに出る兵士に王がふるまう食事のことです。わたしたちは、王なる方の友として、その晩餐に招かれているというのです。これは、イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちを「友」と呼び、弟子たちにその愛を注がれたことを思い起こさせます。最後の晩餐で主は弟子たちに杯を与えましたが、その杯は、主の愛で満ちあふれたものでした。

 最後の晩餐は、詩篇23篇が言うように、まさに「敵の前での宴」でした。罪と死という敵です。主は、そのとき人類の最後の敵である死に立ち向かっておられました。主は、ご自分の死によって死を滅ぼし、復活によって、永遠の命を与えようとしておられました。羊飼いは羊を死の陰の谷から緑の牧場へと導きますが、いのちの主であるイエスは、信じる者の人生を死で終わらせないで、永遠の命を与え、永遠の御国へと導き入れてくださるのです。6節はこう歌っています。「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」信仰者は、地上にある間、生きている限り、主の恵みと愛によって満たされるだけでなく、天においても、満たされ続けるのです。これ以上に満ち足りた人生があるでしょうか。

 詩篇23篇は「主の晩餐」の中に見事に描き出されていると思います。主イエスを信じる者は主に対してはしもべでしかないのに、「主の晩餐」では、主は、わたしたちを客人として、また友として迎え、その聖なる友情を確認してくださるのです。この世に「死の陰の谷」や「わざわい」があり、「敵」が目の前にいたとしても、主は、信じる者を守り、導き、救い出してくださいます。その恵みが、この晩餐式によってしめされているのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。…わたしの杯はあふれます」という言葉のとおり、満ち足りた人生の喜びを、この晩餐式で体験したいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子をわたしたちの羊飼いとして世に遣わし、詩篇23篇を成就してくださいました。主を「わたしの牧者」とするときはじめて、わたしたちは満ち足りた人生を送ることができます。わたしたちの満足を主以外のものに求める過ちからわたしたちを救い出してください。主と共にあることをわたしたちの第一の願い、求めとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/24/2017