あなたが共に

詩篇23:1-6

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23:1 【ダビデの賛歌】主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 一、満たされた人生

 人はなぜ信仰を求めるのでしょうか。一つには、自分に満たされないものを感じるからだと思います。人には、生きる意味や目的が必要です。私の場合、子どものころ、そのことを親に聞いても、「人に迷惑をかけないように生きればいいのだ」という答えしか返ってきませんでした。学校の先生に聞いても、「よく勉強して大学に入れば分かるようになる」という答えでした。私が大学で最初に聞いた講義は唯物論で、そこには何の答えもありませんでした。その時、教授が何度も繰り返した “Sachlichkeit”(即物性、客観性)というドイツ語を未だに覚えています。「どう生きるか、いかに生きるか」ということに答えてくれるものは沢山あります。しかし、「なぜ、何のために生きるのか」を教えてくれるものはありませんでした。私は仏教にも興味があって勉強しましたが、仏教も「どう生きるか」ということは教えても、「なぜ、何のために生きるのか」には答えてくれませんでした。「なぜ、何のために生きるのか。」この人生にとって一番基本的なことを、聖書に出会うまでは知りませんでした。

 また、人は誰も、愛され、また愛することを求めています。人は、頭脳だけで成り立っていません。何かを知れば、それですべてが解決するわけではありません。人の魂は知識だけでは満たされないのです。日本では高校に「情報」という科目を加え、コンピュータのプログラミングを教えるそうですが、そういうものは選択科目にあってもいいでしょうが、必須科目にする必要があるのだろうかと思います。歴史や文学などが軽んじられ、IQ(Intelligence Quotient)だけが追求されています。それでは、いびつな社会しかできませんので、EQ(Emotional Quotient)というものも唱えられるようになったのですが、これも「どうやって感情を管理するか」だけに関心が集中するようになっているのは残念です。真実なもの、とりわけ真実な愛は、数値で測ることはできません。よく、「あの人は心の温かい人だ」と言いますが、そのような温かさがサーモメーターで測れないのと同じです。まして、神は私たちを熱く愛してくださっているのですが、その愛は、私たちの思いをはるかに超えています。私に、私を愛してくださる神を教え、その愛を知らせてくれたのも聖書でした。

 また、人は、霊や魂だけでなく、身体を持って生きていますから、内面のものが満たされるだけでなく、健康が支えられ、食べ物や着る物など目に見えるものにも満たされる必要があります。聖書は、神が私たちの必要を満たしてくださることを教えています。詩篇37:25にこうあります。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」また、ヨハネの手紙第三1:2に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」とあります。

 私には、ずっと相談相手になっていただいている先輩の牧師があります。誠実で、勤勉で、よく人の世話をする方です。柔和ですが、聖書の教えにおいては妥協することはありません。それで、ごくわずかですが、この先生を嫌って、何かというと反対の意見を言う人たちがいました。みなこの先生より若い人たちでした。ところが、その人たちが次々身体が弱ったり、中には急に亡くなったりしていきました。けれども、この先生は様々な面で祝福を受け、90歳になった今も片道20マイルを運転して、毎週説教をしておられます。神は生きておられ、忠実な人を、目に見えない霊や魂ばかりでなく、生活や健康においても祝福してくださるということを、私は目の当たりにしています。神が、信じる者を、あらゆる必要で満たしてくださる。それが真実であることを、しみじみと味わっています。

 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)皆さんも、他の人のことを見聞きし、また、自分自身で体験して、この言葉がどんなに真実であるかをご存知だと思います。

 二、困難な人生

 では、病気になったら、必要なものが手に入らなかったら、どうなのでしょうか。それは、神の祝福を失ったことになるのでしょうか。神から見放されたことを意味しているのでしょうか。決してそうではありません。信仰を持つということは、どんな苦しみにも、トラブルにも、災いにも遭わないということではありません。どんなに信仰深い人も病気になります。さまざまなトラブルに巻き込まれます。貧しくなることもあります。

 スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンは、フランスの若い学者でした。プロテスタントの信仰を持ったため弾圧を受け、スイスに逃れ、そこで改革者ギョーム・ファレルに要請され、ジュネーブでの宗教改革に加わりました。「要請された」とは言っても、それはカルヴァンには「脅迫」でした。カルヴァンは学者として静かに生涯を送りたかったのですが、宗教改革の嵐の中に引き込まれ、改革への反対や非難に何度も直面しました。

 カルヴァンは家庭的には恵まれませんでした。カルヴァンの子どもは未熟児で生まれ、わずかしか生きられませんでした。夫人はそれから3年して病気になり、さらに4年して亡くなりました。カルヴァンはその後、ずっと独り身で過ごしました。もともと丈夫な身体ではなかったカルヴァンは、晩年に、たくさんの病気をして、54歳で世を去っています。

 神は、カルヴァンに平凡な人生ではなく、過酷な人生を歩ませました。4節に「死の陰の谷」、5節に「敵」とあるように、困難な中を歩み、苦しみに直面しました。しかし、カルヴァンは自分の生涯が惨めであったとは思いませんでしたし、そう考える人は誰もありません。神はカルヴァンを神の言葉の深い思索へと導き、彼は聖書に基づく神学の基礎を築きました。その後の神学者でカルヴァンの影響を受けていない人は誰もいないほどです。ジュネーヴの町は、信仰の自由を求めてやってきた人々の避難所となりました。

 カルヴァンの紋章はハートを神に捧げている絵柄です。そこには “prompte et sincere”(速やかに、誠実に)というモットーが記されています。カルヴァンの著作には、神の栄光と神の恵みが強調されています。「恵み」とは、神の愛の一つの側面です。カルヴァンの魂はその恵みの愛に満たされていました。それで、神の栄光のためにすすんで自分の魂を捧げる紋章を作って、神への愛を言い表したのです。

 神が私たちをあらゆる良い物で満たしてくださることを、私たちは信じています。しかし、だからといって、目に見えるものだけを求めてはいません。神は、乏しい時や困難な時も、私たちにお与えになります。しかし、目に見えるものに不足しているように思えるとき、それは、神が見えない霊的な祝福を私たちの魂に注いでくださっているときです。ですから、私たちも言うのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(4節)

 三、人生の秘訣

 「緑の牧場」や「いこいの水のほとり」は、すべてが満たされ、守られている順調な時のことを表します。「死の陰の谷」や「敵」は、人生の困難な時のことを言っています。詩篇23篇は、どちらの場合でも、主が私たちを守り、支え、必要を満たしてくださると言っています。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」(5節)これは、神の恵みと祝福の豊かさをみごとに描いています。敵を前にして、すでに勝利の祝宴が準備されているのです。神は、私たちの頭に香油を注いで、大切なゲストとして迎えてくださいます。神が信じる者に注いでくださる恵みは、ほんの少しではありません。「私の杯は、あふれています」というほどに、それはじつに豊かなものです。

 そして、この恵み、祝福は「主が共におられる」ことから来ています。聖書に登場する信仰者たちは皆、「主が共におられた」ので、大きな祝福を受けました。主がアブラハムと共におられたことは、周りの人たちも認めるところでした(創世記21:22)。神はイサクにも、ヤコブにも、「わたしはあなたとともにいる」(創世記26:24、28:15)と約束されました。ヨセフは奴隷に売られたり、牢獄に閉じ込められたりしましたが、どこででも、成功者となりました。聖書はこう言っています。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり…彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(創世記39:2-3)、「しかし、主はヨセフとともにおられ、… 監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39:21-23)

 パウロはピリピ4:11-12でこう言っています。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」どんな時にも満ち足りて、どんな境遇の中でも、それに縛られることなく、恐れなく生きる。その秘訣は何なのでしょうか。それは逆境に負けない強い意志を持つことでしょうか。順調なときに慎む謙遜を身に着けることでしょうか。いいえ、パウロがいう「秘訣」は悟りや修業など、ほんのひとにぎりの人しか得られないものではありません。それは、誰もが手にすることができるもの、信仰によって受け取ることができるものです。ピリピ4:13にその秘訣が書かれています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」順調な時も、逆境の時も、「私を強くしてくださる方」イエス・キリストが共におられる。これが、「どんな境遇にあっても満ち足りる」秘訣です。

 「私の羊飼い」であるイエス・キリストが「共にいる」と言っておられるのに、なぜ、私たちは、まだ、恐れたり、これも足りない、あれも足りないと不平を言うのでしょうか。教会で何かの奉仕を頼まれて、「私は足りない者です。とてもそんなことはできません」と言う人があります。謙遜そうに聞こえますが、少し思い違いをしているようです。神のために何かをするのに、足りている人などどこにもいません。私たちはみな神の栄光に足りない者ばかりです。私たちが足りない者であることを一番ご存知なのは神です。しかし、神は、それをご存知でありながら、私たちを用いようとなさるのです。それは、私たちが自分の力で何事かを成し遂げたと言って、高慢にならないためです。人が褒め称えられないためです。イエス・キリストが私たちを用いて、ものごとを成し遂げてくださることを、私たちに教えるためです。神の栄光に足りない者を用いてご自分の栄光を表わす。これが神の方法です。

 主は言われます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)「わたしはあなたと共にいる」と言われる主の言葉を信じましょう。そして、「わたしはあなたと共にいる」という言葉に、「あなたは私と共におられます」と言って、お答えしましょう。その時、私たちは、欠乏に替えて満足を、恐れに替えて平安を、弱さに替えて力を体験することができるのです。

 (祈り)

 主なる神さま、「緑の牧場」や「いこいの水」自体が私たちを満たすのではありません。私たちを満たしてくださるのは、あなたご自身です。ですから、私たちは死の陰の谷さえも、恐れずに歩むことができます。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」と語ってくださる主イエス・キリストに、「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」とお答えし、主が共におられることの恵みを体験する私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/6/2022