自然と神の栄光

詩篇19:1-14

指揮者のために。ダビデの賛歌
19:1 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
19:2 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
19:3 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。
19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。
19:6 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。
19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

 この夏、旅行に出かけた方、これから旅行に出かけられる方も多いと思います。アメリカはあまりにも大きな大陸であるため、長い間、自然が人目に触れることなく、人の手が加えられないまま残されてきました。アメリカには279の国立公園があって、そうした自然が連邦政府によって管理され、保存されています。グランドキャニオンやイエローストーンなど、その多くはユネスコの世界遺産に指定されており、アメリカの国立公園を巡るのも、有意義で楽しい旅になるかと思います。

 息を呑むような雄大な自然、また、目を見張るような美しい自然に触れる時、私たちは、大地が、大空が、木々が、私たちに語りかけてくるのを感じます。それは耳に聞こえることばではありませんが、そこには、たしかにメッセージがあって、私たちに何かを語りかけて来るのです。こうした体験は、いつの時代も、どの国の人にも共通したもので、それは聖書にも記されており、詩篇19篇は、自然や聖書を通して、私たちに語りかけて来るメッセージについて歌っています。

 一、自然界からの声

 詩篇19篇には三つの声があります。第一の声は、「自然界からの声」です。1〜4節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」とあります。自然界は、確かに何かを語りかけています。それで、古代の人々は自然には意志があり、人間を支配していると考えるようになりました。中東の人々は夜空を仰いで、そこに無数に輝く星のどれかが、自分の星で、それが自分の人生を導くと考えました。彼らは杯に星を写して、自分の運勢をうらなったのです。しかし、聖書は、自然に意志があるとか、それが私たちを支配しているとは言っていません。この大自然を超えたところに、この大自然を造り、大宇宙を支配している神がおられると教えています。自然も宇宙も、自らの意志ではなく、神のご意志によって動いており、私たち人間は、機械的な法則によって支配されているのでなく、私たちを愛し、慈しんでくださっている、生きた神によって導かれているというのです。

 よく、「聖書は、古代の中東で書かれ、その当時の人々の世界観を反映しているにすぎない。」と言われますが、これはあたっていません。聖書は、その時代の人々の世界観とはまったく違ったことを教えているからです。創世記を開いてみますと、「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。「天と地」つまり世界はそれ自体が神であると考えられていた時代に、世界は神そのものではない、神の作品なのだと言っているのです。神は、太陽、月、星を造られた時、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」(創世記1:14-15)と言われました。人々が太陽や月、星が神々であると信じていた時代に、太陽や月、星でさえ、神が人間のために、造られたものにすぎないと言っているのですから、本当に驚かされます。神はイスラエルの先祖、アブラハムに夜空の星を仰がせ、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」とおっしゃり、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束されました(創世記15:5)。星がアブラハムとアブラハムの子孫を支配しているのでなく、無数の星を造られた力ある神が、アブラハムの子孫を増やし、神の民としてくださったのです。星はアブラハムに語りかけました。しかし、それは星自体のメッセージではなく、神からのメッセージでした。自然は、自らの言葉、メッセージを私たちに語りかけてくるのでなく、その造り主である神からのメッセージを語りかけているのです。1節に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあるように、自然界は、それをお造りになった神の知恵や力、ご性質、つまり、神の栄光を私たちに語りかけているのです。

 科学の専門家でない私たちでさえ、自然の景観に息を飲み、庭に咲く花の美しさにみとれるのなら、広大な宇宙や、「マクロの宇宙」と言われる生物のからだや、原子のなりたちを研究している学者たちは、なおのこと、自然のみごとさに驚き、そこに神からの声を聞くことができるのではないかと思います。実際、メンデルやパスカル、ニュートンなど、著名な科学者の多くは神を信じる人々でした。私が日本でお会いした黒住一昌先生も、そのような科学者のひとりでした。黒住先生は、群馬大学の内分泌研究所の所長で、日本での電子顕微鏡によるホルモン研究の第一人者でした。黒住先生を講演にお招きしました時、私は先生のお供をして、普通の人は入れない、赤十字病院の電子顕微鏡の部屋に入れていただきました。電子顕微鏡を見たのははじめてのことでしたが、その電子顕微鏡のそばに先生の著書がありました。「私の本は、日本中のどの電子顕微鏡のそばにあるんですよ。」と言って、先生は、その本の最初のページを開いて、私に見せてくれました。そこには、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた被造物によってよって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)という聖書の言葉が書かれていました。黒住先生は、ホルモンの研究を通して、神のすばらしい知恵と力を発見し、神を信じる者、クリスチャンとなり、その信仰をご自分の著書の中に、聖書のことばをもって表したのです。多くの科学者が、自然を探究すればするほど、神が存在されること、聖書が確かな真理であることを証言しています。私たちも、自然に触れる時、造り主である神を想い、神からのメッセージを聞き取りたいと思います。

 二、聖書の声

 第二の声は「聖書の声」です。自然界からの神の声は、「声のない声、言葉のない言葉」ですから、それを無視しようと思えば、無視することができます。実際、雄大な自然を見ても、繊細な生命の営みを見ても、それらを造られた神を否定する人が大勢います。それで、神は、ご自分の思いを人間の言葉で表わし、それを書物にしてくださいました。それが、聖書です。神は、自然界からだけでなく、聖書から、もっとはっきりとした神の声を聞くことができるようにしてくださったのです。自然からの声は、自然を見て感動した時からしか心に響いてこないかもしれませんが、聖書は、神のことばが文字となり、書物となったものであって、誰もが、それを客観的に調べ、そこから神の声を間違いなく聞き取ることができるのです。

 7節では、聖書が「主のみおしえ」と呼ばれています。自然界からの声は、私たちに神の偉大さや知恵を教えてくれますが、複雑な人生のさまざまな問題には、答えを与えてくれません。しかし、聖書には人生のほとんどすべての問題に対する答えがあります。ある人が、聖書 B-I-B-L-E は、"Basic Instruction Before Leaving Earth" だと言いましたが、ほんとうにそうですね。私は、聖書は、神が私たちに与えてくださった人生の "User's Manual" だと思っています。何かの製品を買うと、必ず「使用説明書」というのがついてきますが、そのことです。そこには、まず「警告」が書かれます。こんなふうに扱ったら危険ですよ、壊れてしまいますよということが書いてあります。続いて、それをどう使ったらいいか、どう手入れをしたらいいかが書かれており、中には、"Tips" とか "Hints" などもあって、こんな便利な使い方もできますよと書かれています。故障をしたらどうしたらいいかも、ちゃんと書かれているのです。多くの人は "User's Manual" を丹念に読みませんが、私たちの人生の "User's Manual" である聖書は、きちんと読む必要があります。一度しかない私たちの人生が壊れてしまわないように、無駄になってしまわないように、また、トラブルがあった時にどう解決したら良いかを知るために、聖書をを学びましょう。多くの人が人生に行き詰まりを感じた時、聖書のことばによって道を見出しています。心が疲れ果てた時、聖書のことばによって新しい力を得ています。7節のはじめに、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」とある通り、聖書は私たちの人生にインストラクションを与え、私たちの人生を生かす神のことばなのです。

 7節の後半には「主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」ともあります。聖書が「主のあかし」と呼ばれているのは、神が聖書によってご自身を私たちに示してくださっているからです。世界にはさまざまな書物がありますが、それらによっては、神を正しく知ることはできません。聖書だけが、神がどのようなお方であるかを私たちに示すのです。「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」(詩篇14:1)とあるように、神を否定して生きる人生は、決して賢い生き方とは言えません。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)とあるように、神を認めて生きることによって、本当の知恵、正しい知識を得ることができるのです。

 8節には「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ」とあります。聖書は私たちに真理を教えます。そして、私たちの心は、真理を知る時に本当の意味の満足を味わいます。真理を求め、真理を知ることを喜ぶ、これは人間にしかできないことですが、聖書は、私たちに真理を知る喜びを与えてくれるのです。

 次に「主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」とあります。私たちは、聖書によって、物事を正しく判断できるのです。

 9節で、聖書が「主への恐れ」と言われているのは、聖書が、私たちに、きよく、偉大な神を心から愛し、敬うことを教えるからです。

 9節の後半で、聖書が「主のさばき」と呼ばれるのは、神が、ご自分のことばをもって世界を裁かれるからです。

 10節では、聖書は「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」とあります。聖書は金や銀よりも価値あるもの、蜂蜜より甘く、私たちの心を喜ばせてくれるものです。聖書は金や銀では買えないものを私たちに与えてくれます。金や銀を蓄えるよりも、聖書のことばを蓄えるほうが、私たちをもっと豊かにします。聖書は、それを学び始めた人にとっては、謎めいた書物、無味乾燥なものかもしれませんが、忍耐して学んでいくうちにそれが蜂蜜よりも甘いことが分かってきます。聖書が難しくてつまらないと感じている人、厳しすぎて苦痛だと感じている人は、まだ聖書のすばらしさが分かっていないのです。神の言葉の甘さ、素晴らしさを常に味わっていないと、苦いものばかりが多いこの世で、私たちの心まで苦くなってしまいます。神のことばを心に蓄え、それを味わうことができるまで、聖書をしっかりと学び続けていきましょう。

 三、人の声

 詩篇19篇は、第一に、自然界から聞こえてくる神の声、第二に、聖書を通して語られている神のことばをとりあげましたが、第三に「人の声」「人間の言葉」もとりあげています。詩篇19篇を歌ったダビデは、自然界からの神の声、聖書からの神の声に耳を傾けるうちに、「完全」「確実」で「正しく」、「きよい」もので「不変」「真実」な神のことばに比べて、彼の言葉が、なんと不完全で不確実なものかということに気づきました。誰でも、神のことばに耳を傾ける人は、ダビデのように自分のことばの不完全なことに気がつきます。自分が神の前にいかに小さい存在であるかが分かってくるのです。そのような時、素直に自分の罪を認めて、神にゆるしと助けを願う人は幸いです。

 「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」(12節)とダビデは祈りました。私たちは、神のことばによって心を照らされる時はじめて、自分の罪、あやまちを知ることができますが、それでも、自分の罪の全部を知っているのでなく、知らないで犯している罪やあやまちも、まだまだ多くあるのです。神は、罪を認めない人よりも、自分の罪を認める人を受け入れてくださるのですが、自分の罪を認める場合でも、「私は、あのことでは間違っていたが、この点では、私は正しい。」などと、神の前で言い張ることをしないで、謙虚に「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。」と祈るべきです。私たちが犯す罪で一番大きな罪は「傲慢の罪」かもしれません。謙遜であれば、たとえ、失敗しても、それを悔い改め、神の恵みを受けることができますが、傲慢になって、自分の罪や過ち、失敗を認めなければ、神の恵みを受けることができないのです。人は傲慢のゆえに大きな失敗をし、大きな罪を犯します。ですから、「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」(13節)と私たちは祈る必要があるのです。このように絶えず祈っていないと、自分でも気がつかないうちに、「私には分かっている。」「私は、そんな誘惑には会わない。」「私にはそんなことは、いつでもできる。」などといった傲慢が、私たちの知性や、感情、意志に潜んで、私たちを神の恵みから引き離すのです。

 私たちはみな、言葉で失敗しない者はなく、かならずと言って良いほど、いやな言葉、冷たい言葉を口から出してしまいます。それで、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」(14節)と祈るのですが、この祈りは、聞き入れられるのでしょうか。ことばが全くきよめられるのは不可能なことのように思えます。しかし、ダビデは、この祈りが聞かれると信じて祈りました。なぜなら、ダビデは、神を「わが岩、わが贖い主、主よ。」と呼びかけているからです。ダビデは、神が「贖い主」であることを知っていました。神は、罪を犯し、いわば、その罪に売られ、罪に支配されてしまっているような私たちを、そこから「買い戻し」「連れ戻し」「解放し」「自由にし」てくださるお方、「贖い主」なのです。神は私たちに罪を犯さないように厳しく命じ、私たちが罪を犯したならそれを容赦なく罰されるというだけのお方ではありません。私たちが謙虚に祈るなら、私たちの罪、それは心で犯す罪であれ、言葉で犯す罪であれ、また、行いで犯す罪であっても、それをゆるし、私たちをその罪から救い出してくださるのです

 自然を通し、聖書を通し神が語りかけてくださる時、私たちは、神の栄光やきよさに圧倒されることがあります。そのような時、神が栄光の神であるとともに、贖い主でもあることを覚えましょう。そして、神のことばがきよいものであるように、「私の語る言葉もきよめてください。」と祈り求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、あなたの造られた大自然を見る時、そこにあなたの栄光を見ます。そして、あなたの栄光に触れる時、私たちは「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。」と祈らざるを得ません。自然を通して、聖書を通して私たちに語りかけておられるあなたのことばに、悔い改めと、謙虚な祈りの言葉をもって答える私たちとしてください。私たちの贖い主となられた主イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/7/2002