神のことばと人のことば

詩篇19:12-14

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19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。

 一、心の中の神のことば

 詩篇19篇は三つの部分に分かれていますが、三つのすべてに共通した主題があり、その主題が、順を追って深まり、発展しています。

 詩篇19篇の1-6節は、天に響き渡る神のことばについて描いています。この神のことばは直接人間の耳には聞こえなくても、私たちを取り囲む大自然を創造し、それを支配しています。

 7-11節は「律法」、つまり「聖書」の形で与えられた神のことばについて書かれています。聖書は、天に響く神のことばとは違って、誰もが聞くことができます。それは手の届かないはるかかなたのものではなく、私たちの身近にあります。申命記にこう書かれています。

まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。(申命記30:11-14)
聖書は、書物となった神のことばで、それによって、天におられる神のみこころを、この地上でも知ることができ、それによって、地上の日々を歩むことができるものです。

 この詩の第三の部分、12-14節には、心の中にある神のことばを見ることができます。天に響く神のことばは書物となって、この地上に与えられました。そして、そのことばは、聖書を素直な信仰をもって読む人の心に宿るのです。コロサイ3:16に「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ(なさい)」とあります。これは、私たちの教会の2011年の年間聖句でした。コロサイ3:16は、口語訳では「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」、新共同訳では「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」となっています。神のことばの最終的なすみかは、本屋さんでも、教会の書棚でも、みなさんの家のソファーのそばのテーブルでも、かばんの中でもありません。それは、私たちひとりひとりの心です。

 しかも、神のことばを心に「住まわせる」、「宿らせる」というのは、神のことばが私たちの心の中にずっととどまっているということです。神のことばをたまにやってくる「お客さん」のようにして迎えるのではなく、朝も、昼も、夜も、一日中いっしょにいる「住人」、「家族」のように迎え入れるのです。いや、神のことばは、もっと尊いものですから、「主人」として迎え入れるというのが、正しいことだと思います。神のことばが、そのように私たちの心にとどまってこそ、私たちは霊的に、人格的に、精神的に養われ、成長し、人生に良い実を結ぶことができるのです。

 使徒パウロはテサロニケ第一1:6-7で「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです」と書いています。テサロニケのクリスチャンが、パウロが語ったことばを、ただ情報として聞いたのでなく、それを神のことばとして心に受け入れました。テサロニケのクリスチャンは、神のことばに留まり、パウロの教えと模範にならって、キリストに従い、今度は、彼らが他のクリスチャンの模範になったのです。テサロニケ第一1:8には「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡った」とあります。テサロニケのクリスチャンが力強く神のことばを語り、広め、それを証ししたというのです。火山にマグマが満ちて、大噴火を起こすように、テサロニケのクリスチャンは神のことばを蓄え続けたので、それが大きな伝道の力、証しの力となったのです。神のことばはそれ自体で大きな力を持っています。しかし、それが私たちの心に宿るとき、その力は何倍にもなって、響き渡るのです。その響きは人を生かす命の響き、愛の響きです。

 二、罪を示す神のことば

 さて、神のことばが心に宿り、心を照らすとき、それは私たちに、心にある罪に気付かせてくれます。ダビデは、神のことばに心を探られ、12節で「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」と、赦しを願っています。12節にある「あやまち」は、故意でない罪のことです。罪や悪を避けようと願っていても、私たちは数多くの失敗をします。たとえ善意から出たことでも、方法が間違っていたり、知恵が足らなくて、結果としてトラブルを引き起こしたり、人を傷つけてしまうことがあります。神のことばは、そんな「あやまち」の罪についても、悔い改めて神に赦しを願うよう、教えています。

 次の「隠れた罪」というのは、自分で気づいていない罪です。「自分に落ち度はない」と言い張って、自分の正しさを押し通そうとしているうちは、自分の罪に気付くことはありません。自分の罪に気付かないのはじつは、恐いことです。罪に気付かなければ悔い改めることもなく、悔い改めることがなければ、赦しもきよめもないからです。しかし、素直に自分の罪を認めたとしても、なお、自分で気づいているものはその一部であって、全部ではありません。神のことばによって心が照らされるとき、そのようなことが分かってきて、ダビデが祈ったように、自分が気付いていない罪についても、神に赦しを求める思いへと導かれていきます。

 13節には「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください」とあって、「傲慢」という罪について触れられています。聖書でいう「傲慢」というのは、たんに、偉そうにするということを言っていません。「傲慢」とは、神に頼らずとも、自分は自分の知恵で、自分の力で生きていけるという態度のことです。どんなに真面目で、善良な人であったとしても、その人が自分の真面目さや善良さに頼って生きているなら、それは神の目の前には「傲慢」な生き方です。アダムとエバの罪は、神のことばに聞かずとも、自分たちが善悪を判断することができる、自分たちの感じること、考えることが、善悪の基準であると考えました。人間の最初の罪は「傲慢」の罪でした。「神のことばよりも自分のことば、人間のことばを基準にして生きる、そんな罪から私を守ってください」というのがダビデの祈りでした。これはまた、私たちの祈りでもありたいと思います。

 聖書が「罪」というとき、それは、凶悪な犯罪を犯すことや、すごくふしだらな生活をすることだけを指しているのではありません。多くの人は、犯罪に手を染めたり、不道徳なことに足を踏み入れたりはしません。自分を守り、家族を守るためにごく普通の真面目な生活をしています。けれども、だからと言って罪が無いわけではありません。聖書が「罪」というとき、それは実際の悪の行いばかりでなく、その悪を生み出す人の心を状態を問うているのです。悪は、人の心から出て、最初に言葉になり、それから行動になるのです。行動に現われたものだけでなく、言葉となって表現されたものや言葉と行動がそこから出てくる心の罪が問題にされるのです。ちょうど、球根が芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせるのと同じです。心がきよめられない限り、そこからは良いものは出てこないのです。

 神のことばに照らして自分を点検するとき、自分の言葉を点検してみるのは良いことです。「きょう、私は何を語ったか。どんな言葉を使ったか」を思い返してみるのです。言葉は人を慰めることもできれば、傷つけることもできる力を持っているからです。では、余分なことを言わなければ良いかというと、そうとは限りません。語るべきときに語らないで罪を犯すこともあるからです。また、自分が自分に語っている言葉にも気をつけたいと思います。たとい、音声にならなくても、人は絶えず、自分自身と対話しています。そして、その多くは「いやだなぁ」、「大変だ」、「なんて、つまらない」などという否定的なことばです。人はどんな言葉を聞くかによって、その心が生きもし、死にもします。一日中、自分で自分に否定的な言葉をあびせていて、どうして、その心が生きるでしょうか。他の人への不満や非難、要求ばかりを口にしていたら、心は醜いものになり、他の人との正しい関係を持つことができなくなってしまいます。自分が自分に語りかける言葉も含めて、人の言葉から、神のことばへと思いを移していきましょう。自分の心に神のことばを聞かせ、心を養いましょう。心に宿した神のことばを想い、それを唱えていきましょう。

 そして、言葉と心が一致するように務めましょう。ダビデは「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」と祈っています。ことばと心はつながっています。心はそのままで、言葉だけきれいにしたとしても、それは神に受け入れられるものではありません。詩篇55:21に「彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である」とあります。邪悪な心をきれいな言葉で隠すこと以上に、神が嫌われるものはありません。心が変えられ、きよめられることを絶えず祈り求めていきましょう。

 三、赦しを与える神のことば

 人は、だれしも、他の人には厳しく、自分には甘いものです。誰かを待っている時の5分間はとても長く感じますが、誰かを待たせている時の5分間は短く感じるものです。人の姿は見えても、自分の姿は見えていない。それが人間です。自分の尺度で自分を量っているときには、自分の姿がわかりません。しかし、神のことばで自分が量られるとき、私たちは自分の罪やいたらなさを示されます。それで、人々は神のことばを敬遠するのでしょうが、神のことばは、決して、私たちを責め、懲らしめるだけのものではありません。神のことばは私たちを赦しに導き、完全へと近づけ、きよめる力です。神のことばが罪を示し、不完全さを悟らせ、汚れを示すのは、赦しときよめを与えようとしてのことなのです。ダビデは13節で「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう」と言っています。「全き者となり、…きよくなる」というのは、キリスト者のゴールです。その第一歩が自分の罪に気付き、それを悔い改め、神に赦しを乞うことです。神はそのように祈る者に必ず答えてくださいます。なぜなら、神は、心から悔い改め、赦しを乞う者の「贖い主」だからです。

 ダビデは「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」と祈ったとき、神を「わが岩、わが贖い主、主よ」と呼んでいます。「贖い主」という言葉には「一番近い親族」という意味があります。古代には、誰かが奴隷になったとき、奴隷の代価を払ってその人を買い戻すことができるのは、その人に一番近い親族だけでした。ルツ記に、ボアズが、すべてを失って外国から帰ってきたナオミのためにその権利を買い戻してあげたことが書かれています。ボアズはナオミとその嫁ルツの「贖い主」になったのです。ダビデは、そのボアズとルツの子孫です。ダビデが神を「贖い主」と呼んだとき、きっと、自分の先祖ボアズのように愛も、力も兼ね備え、小さな者に心をかけてくださる神を想いみたこととでしょう。罪は神の栄光を、他の人を、そして自分を傷つけます。神の国に、この世界に、また社会や家族に大きな損害を与えます。そんな罪を犯している私たちの一番近い肉親となり、その損害を弁償し、傷をいやしてくださる愛と力を兼ね備えたお方はいったい誰でしょう。それは神以外にありません。

 ダビデは自然界を歌った部分では、神を「エル」、力強き者と呼びましたが、「律法」について歌った部分では、神を「ヤハウェ」と呼んでいます。「ヤハウェ」には「有って有る者」という意味がありますが、同時に、「人と共に、人の側に近くいてくださるお方」という意味があります。そして、最後の部分では、さらに、自分を罪から買い戻してくださる「贖い主」、しかも「わが贖い主」と呼んでいます。神のことばが、天から地へ、地から心へと降りてくるにつれ、神と人との関係がより深くなっているのを見ることができます。

 ダビデはこの神に対して自分を「あなたのしもべ」と呼んでいます。自分を神のしもべとし、神を私の贖い主とすること、そこに赦しの世界があります。罪から解放された自由があります。救い主であり、贖い主であるイエス・キリストが来られる前でさえ、ダビデが罪の赦しと罪からの自由を先取りして味わうことができたのなら、イエス・キリストが十字架によって贖いのわざを成し遂げ、復活によって私たちを罪と死から解放してくださった今は、もっとそれを味わうことができるはずです。

 詩篇の大部分は、私たちがそのまま祈ることができます。その中には日々の祈りとして用いることができるものが数多くあります。詩篇19:12ー14は、そのような祈りのひとつです。この祈りをそのまま日々祈ることができれば幸いです。きょう、この礼拝から、これを祈りはじめましょう。詩篇19:12ー14を、きょうのメッセージの結びの祈りとして、ご一緒に祈りましょう。

 (祈り)

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。アーメン。

10/7/2012