こころのいやし

詩篇147:1-11

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147:1 ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。
147:2 主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める。
147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
147:4 主は星の数を数え、そのすべてに名をつける。
147:5 われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい。
147:6 主は心の貧しい者をささえ、悪者を地面に引き降ろす。
147:7 感謝をもって主に歌え。立琴でわれらの神にほめ歌を歌え。
147:8 神は雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、
147:9 獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。
147:10 神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。
147:11 主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。

 NHKの長寿番組に「こころの時代」というのがあります。もとは別の番組名でしたが、1993年に今のタイトルにk替わりました。日本ではそのころ、いじめ、虐待、ひきこもり、自殺、うつなどが社会問題となっており、それまで隠される傾向にあった「こころの病」についても、おおやけにとりあげられ、それに取り組むようになりました。まさに「こころの時代」しかし、「こころの健康」は、まだまだ、「からだの健康」ほど理解され、関心が持たれているわけではありません。「こころのいやし」について多くの人が多くのことを語っていますが、その中には、間違ったものもあり、ほんとうのいやしからかえってひとびとを遠ざけているものもあります。ほんとうの平安のかわりに一時的な気休めしか与えない教えは昔からありました。聖書は、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と書いて、そうしたものに警告を与えています。

 こころの病はさまざまな原因で起こります。前回は「たましいのいやし」についてお話しましたが、神を信じ、たましいの救いを得ていたら、こころの病にはならないかといえばそうとは言えません。こころの病は、その人の中からだけ出てくるものではなく、周囲との関わりによって生じる場合が多いようです。誤解をうけて非難される。いつも冷たくあしらわれ、無視され、いじめられる。また、ひどくショッキングな出来事を体験したり、あまりにも過酷な状況に長い間いることによっても引き起こされます。こころの病にかかる人にはまじめで、純粋で、感じやすい心を持った人、自分よりも他の人のことを考えて、他の人に譲るようなが人が多いのです。そういう人は他の人への気遣いのために辛いことを自分ひとりで引き受け、じっと我慢してしまうので、心が重くなり、弱っていくのです。だれでも曲がった世の中をまっすぐに生きようとすれば、かならず人の世の石や岩にぶつかり、傷つき痛みます。他の人を押しのけてでも自分を主張するような強い人はめったに心の病にはかからないと言われていますが、実は、そういう人は他の人をコントロールせずには生きていけない「コディペンデンシィ」というこころの病にすでにかかっているのかもしれません。

 信仰を持っている人はこころの病にかかるわけがなく、それは信仰が足りないのだというのは極端な考えです。そんなふうに人から責められたりしたらこころの病はもっと悪くなります。病気になったのは自分の不信仰のせいだと自分を責めたからといって、こころがいやされるわけではありません。しかし、逆に、こころの病と信仰とをまったく切り離して、何かあれば医者のところに行けば良い、カウンセラーに相談すれば良い、神と自分との関係を謙虚に顧みなくてもよいというのでは、一時的に物事の解決はできても、ほんとうのいやしには至らないでしょう。医学は神が与えてくださった賜物ですから、医学の助けを借りることは必要です。しかし、そのときも、信仰の原則に立ち、神への信頼を忘れないことが大切です。

 では、こころのいやしを考えるときの信仰の原則とは何でしょうか。いくつも大切なことがありますが、けさは、こころのいやしが知性と意志と感情のすべてを含むものであるということをお話したいと思います。

 一、知性のいやし

 こころのいやしというと、まず「感情のいやし」を思い浮かべることが多いのですが、聖書はその前に「知性のいやし」を教えています。感情は知性や意志から出てくるもので、知性や意志のいやしがあってはじめて感情のいやしも生まれてくるからです。

 ある人が会社で、ある部署の部長として配属されました。その部の人たちがみな彼のところに来て深々と頭をさげて挨拶したのですが、一人の男性だけは挨拶に来たとき頭をさげなかったのです。次の日も、またその次の日も同じだったため、この部長はその人を不愉快に思ったのですが、頭をさげなかったその人は、交通事故のため首をいため、頭をさげることができなかったことを、しばらくしてから知りました。それを知ったその瞬間に部長の不愉快な感情が消えました。ものごとを誤解したままで、事実を正しく知るということがなければ、感情はまったく違う方向に動くのです。感情が知性によって導かれていないと、その日の気分で物事の善し悪しを決めてしまうようなことになってしまいます。

 イエスはヨハネ8:32で「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われました。真理を知ることからこころのいやしがはじまり、それは感情のいやしに至るのです。

 私は、十歳のときに母を亡くし、その後、二年して義理の兄も亡くしました。そのとき私は思いました。「どんなにぼくをかわいがってくれる人がいても、いつかは死んでしまう。自分もまた死んでしまう。けっきょく自分はひとりぼっちなのだ」と。しかし、高校生になって聖書を勉強しはじめ、真理を知りました。最初に知ったのは、自分が生まれたのは偶然ではなく、神が私を造ってくださったということでした。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」という詩篇139:13のことばからでした。天地が滅びても永遠におられる神が、私を永遠の愛で愛しておられる。しかも、その愛はイエス・キリストの十字架によって示され、自分に注がれている。この真理が分かったとき、私は肉親を亡くしたこころの傷からいやされたのです。もし愛の神がこの世界を支配しておられるということを知らず、この世の中は偶然が支配していて、すべてのことは運命として起こるのだと考えていたとしたら、こころのいやしはなく、私は今も、空しい思いで過ごしていたことでしょう。私は真理を知ることによっていやされました。真理が私を自由にしたのです。

 それから今に至るまで、私は、神とイエス・キリストを知ることによって生かされてきました。聖書に向かい、神がどんなお方で、この世界に、この私にどんな計画を持っておられるのか、イエス・キリストがどのようなお方で、私たちの救いのためにどんなことをしてくださり、私に何を求めておられるのか、それを深く知れば知るほど心が生きるのです。以前も紹介しましたが、家内が、ある伝道者の説教を聞いてこんな詩を書きました。

あゝいいなあ
神を愛し 人を愛し
福音を愛して
聖書を絶対の真理として
握っている人の話は…
心が生きる!
泣かせる話、笑わせてくれる話、なるほどと思わせる話、役立つ情報を提供してくれる話なら世の中のどこででも聞くことができます。しかし、それによって「心が生きる」ことはないと思います。しかし、聖書と聖書のメッセージは私たちの心をいやし、生かすのです。なぜでしょうか。それは人間の力では発見できない真理を教えるからです。神とイエス・キリストを私たちに知らせてくれるからです。イエスは言われました「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)ここで「永遠のいのち」と言われているのは、神によって生かされ、神のために、神とともに生きることをさしています。この「永遠のいのち」は「唯一のまことの神」と、神の遣わされた「イエス・キリスト」とを「知る」ことから来るのです。神を「知り」、イエス・キリストを「知る」ことが私たちのたましいを生かし、こころをいやすのです。

 詩篇119:50に「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」とあります。みなさんはもうすでにこのことを何度も体験していることでしょうが、私たちの生きる日の限り、「悩みのとき」はやってきます。これからも真理のみことばを慰めとし、それによって生かされていくことを求め続けていきましょう。

 二、意志のいやし

 知性はものごとを知る働きですが、意志はものごとを行う働きです。信仰とは神にこのことをしていただきたいと願うことであり、さまざまな選択肢がある中から、神のみこころを選びとることです。それは意志の働きです。

 イエスはあるとき、目の見えない人に「わたしに何をしてほしいのか」(ルカ18:41)と尋ねました。それが目が見えるようになることなのは、尋ねなくても分かる当然のことです。しかし、イエスはあえて「わたしに何をしてほしいのか」と訊いています。それは、「イエスが目の見えない人を見えるようにすることが出来るお方である」という信仰と「私は今、イエスに目を開けていただきたいのだ」という意志を確認するためでした。イエスはまた、別の時に、別の場所で、38年間も寝たきりだった人に「よくなりたいか」(ヨハネ5:6)とも尋ねています。おそらくこの人は、38年の長い年月の間に「よくなりたい」という思いを無くしていたのでしょう。しかし、それでは、神のいやしを受けることはできません。神の力は私たちの信仰を通して働くからです。イエスは、長い年月の間に弱くなっていたこの人の意志を強め、信仰を引き出すために、あえて「よくないたいか」と尋ねられたのです。

 今から260年ほど前、1752年6月の雷の日に、ベンジャミン・フランクリンが凧を揚げて電気の研究をし、避雷針を発明するようになったというのは、こどもたちが学校で習っている有名な話ですが、神の力は雷の力のようなもの、人間の側の信仰はフランクリンが揚げた凧のようなものです。人を救い、いやすのはあくまでも神の力ですが、その力を自分のうちに取り入れるのが信仰です。「私を救ってください」「私をいやしてください」と願う、意志の伴った信仰です。人を救い、いやすのはあくまでも神の力ですが、私たちの側にそれを求め、受け入れる意志がなければ、神の力もまた私たちのうちに働かないのです。

 こころの病になると意志が弱くなります。とくにうつの状態になると、自分は何もできない、何もしたくない、自分は必要のない存在なのだと思うようになります。しかし、だれひとり必要のない人はいません。たとえどんなことができなくても、人は信仰を持つことができ、希望を持つことができ、神に願い、祈ることができます。祈りがことばになって口に上ることがなくても、こころの中で神を呼び求めることができるのです。私たちにそうしたこころの祈りがある限り、神は私たちを救うことができます。神は私たちの意志をいやし、強めてくださるお方です。

 三、感情のいやし

 知性が真理を知り、意志が真理に従うとき、私たちの感情は、当然変えられていきます。愛、喜び、平安が心に満ちてきます。よく言われることですが、信仰の歩みでは「事実」(Fact)、「信仰」(Faith)、「感情」(Feeling)の順序を正しく守る必要があります。事実というのは、神がイエス・キリストによって私を愛しておられるという真理です。信仰というのは、この真理を受け入れ、それに従うことです。私たちが知性を用いて真理を受け入れ、意志を用いてそれに従うとき、感情のいやしがやってきます。「事実」(Fact)、「信仰」(Faith)、「感情」(Feeling)の順で、その反対ではありません。もし感情が先頭に立てば、私たちは毎日、きょうは気分が悪いからというので、神が与えてくださった真理に耳を貸さなくなったり、きょうは気分がいいからというので、悪や罪に対して目をつむってしまうということが起こってしまいます。

 神の救い、神のいやしは私たちの思う以上に大きなものです。神は私たちのあの部分、この部分に解決を与えるだけでなく、私たちの全体、全人を救い、いやそうとしておられます。私たちが地上で生きていくのに必要なものを与えるだけでなく、天で永遠に生きることをも保証してくださっています。詩篇147:5が言うように神は「偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい」のです。しかし、神は同時に恵み深く、あわれみ豊かで、「心の貧しい者をささえ」(詩篇147:6)、「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者」(詩篇147:10)に良くしてくださいます。

 こころの病を持つ人はすでにいろんなことを試してみたことでしょう。どれをやってもいやされなかったとあきらめている人もあるかもしれません。しかし、あきらめる前に神にいやしを求めてください。神に信頼し、神のことばに従いましょう。神は「心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」(詩篇147:3)お方です。神は決して私たちをお見捨てにはなりません。この神にしがみつき、この神からこころのいやしを受け取ろうではありませんか。

 (祈り)

 主なる神さま、多くの人々が自分自身や家族のこころの病に苦しんでいます。社会全体が病んでおり、私たちはみなその影響を受けています。主よ、あなたは「心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」お方です。ひとりひとりに、あなたの真理を悟らせてください。あなたへの信頼の思いを強めてください。あなたの大きなみこころを受け入れ、偉大な力を体験できるよう、導いてください。そして、ひとりびとりをいやしの証人として用いてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/19/2010