人生の導き

詩篇139:17-24

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139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。
139:18 それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。
139:19 神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。
139:20 彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。
139:21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。
139:22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

 先週、私たちは、神が私たちを目的をもってお造りになったこと、私たちに人生の目的を示しておられること、そして、私たちを目的に向かって導いておられるということを学びました。神が、私たちの人生を導いておられるというのは、私たちにとって、とても心強いことで、神の導きがあればこそ、私たちは、逆境の中でも忍耐することができ、また、希望を持つことができるのです。創世記にあるヨセフの物語は、神の導きを絵に描いたようなものです。父ヤコブの愛を一身に受けていたヨセフは、兄たちに妬まれて、エジプトに奴隷として売り飛ばされました。ヨセフは良い主人に見出され、その家のすべてを管理するようになったのですが、それも束の間、ヨセフは、無実の罪で牢獄に入れられてしまいました。しかし、ヨセフは、彼の人生がそこで終わってしまうことは決してない、神が、ヨセフに与えた人生の目的に向かって、かならず導いてくださるということを信じました。神が、その人の人生に目的を持っておられることを知っている人、神が、その目的に向かって、人生を導くお方であることを信じる者は、苦しみにあっても簡単にはへこたれません。ローマ5:3-4に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあるように、ヨセフは、患難から忍耐を学び、忍耐から品性を育て、品性から希望を引き出すことができました。そして、ヨセフは、神の民イスラエルを、飢饉から救う者になり、ヨセフは彼の人生の目的に導かれていったのです。ヨセフのように、人生を神に導かれて生きる人は幸いです。神は、昔も今も、変わらず、私たちの人生を導いてくださるお方です。しかし、私たちは、私たちの人生に、神の導きを見ながら進んでいるでしょうか。神に、人生の導きを求めながら歩んでいるでしょうか。「神の導き」というのは、大きなテーマで、短い時間で、すべてを語ることはできませんので、今朝は、私たちが神の導きを得るために必要な、みことばと祈りのことに的を絞ってお話ししたいと思います。

 一、人生の導きと聖書

 先週学びましたように、人生の目的は、決して自分で作り出すものでも、長年の思索を積み重ねてやっと得られるというものでもなく、それは、神から与えられるものです。神はそれを聖書の中に示しておられ、誰でも、謙虚に聖書を学ぶならそれを見出すことができます。そして、人生の目的が聖書に示されているように、人生の導きもまた聖書の中に示されています。聖書を神のことばとして読む人、聖書を神の語りかけとして聞く人は、聖書によって、神の導きを知ることができます。

 しかし、聖書によって、神の導きを知ると言っても、それは、聖書を占いの本のように使うということではありません。ある人が借金に困っていて、どうしようかと考えあぐね、聖書を開いて、一番はじめに目に飛び込んできたことばのとおりにやってみようと決心しました。それで、目をつむって、「えい、ヤー」と開いたのが、新約聖書の54ページでした。そのページの一番最初に、それはイスカリオテのユダのことですが、「そして、外に出て行って、首をつった。」(マタイ27:5)とありました。その人は、「とんでもない。私はまだ死にたくない。」と言って、もう一度聖書を開き直すことにしました。やはり、目をつむって開いたのは、新約聖書の190ページでした。前の時はページの最初に目をやったのが良くなかったと思って、今度は、二段になっている本文の下の段を、わざと見るようにしました。すると、そこには「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13:27)とありました! この話はひとつのジョークなのでしょうが、私たちも、そんなふうに、おまじないのように聖書を開いたり、自分に好きな聖書のことばだけを拾い読みして、聖書を自分に都合のよいように解釈してはいないだろうかと注意したいものです。

 聖書を正しく読み、そこから導きを得るためには、二つのことを心がけるのが良いと思います。第一は、聖書の全体を読むということです。新約だけ、旧約だけというのではなく、旧約も、新約も両方が聖書なのですから、両方を読む必要があります。聖アウグスティヌスが「新約は旧約の中に隠され、旧約は新約によって解き明かされる。」と言ったように、旧約だけを読んでも、聖書は謎で終わってしまいますし、旧約を読まないで新約だけ読んでも、新約の意味を正しく理解することはできません。聖書は、全部で66の書物から成り立っており、旧約は929章、新約は260章、合計1189章に分かれています。こんなに厚い聖書を全部読むのは大変なことのように見えますが、新約を毎日1章、旧約を3章読めば、一年で全部読んでしまうことができます。私は、聖書を朗読したテープを持っているのですが、90分テープで48巻あります。ということは、全部で72時間ということですから、声を出してゆっくり読んでも、丸三日で聖書を全部読むことができるということになります。聖書全体を通して読むことを「通読」と言いますが、サンタクララ教会には二年間で聖書を通読するプログラムがあります。創世記から読みはじめたばかりで、まだまだキャッチアップできますので、ぜひ、これにご参加ください。

 聖書を読むもうひとつの方法は、中心から周辺に向かって読むという方法です。聖書のどの部分も大切なものであり、いらないものはないのですが、やはり、核になる部分、骨組みになる部分はあります。主イエスが「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)と言われたように、聖書は、イエス・キリストが中心ですので、イエス・キリストがどのようなお方なのか、キリストの十字架と復活にどんな意味があるのか、なぜキリストの再臨が必要なのかなどをまず学んでおく必要があります。基本的な聖書の知識をしっかり身につけていないと、豊かな聖書の世界を探険していくことはできません。いきなり聖書の世界に飛び込んでも、そこで迷子になってしまいます。私たちが、初めてどこかに行く時には、地図で最初に大きなハイウェーを見つけてから、小さな住宅地の道を見つけるようにしますね。そのように、私たちも聖書を学ぶ時には、聖書に道筋をつけておき、まずは大通りから入っていって、次に枝の道に入っていくという方法をとるのが良いのです。この聖書の「道筋」にあたるものが「教理」の学びです。教会は、その二千年の歴史の中で、「使徒信条」などの信仰告白や、数多くの「教理問答」などを生み出してきましたが、そうしたものに導かれ、聖書の中心的なもの、基本の骨組みを、日曜日や水曜日の聖書クラスでしっかりと身につけていただきたいと思います。

 イザヤ30:21に「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」と、神が絶えず私たちに語りかけながら私たちの人生を導いてくださるとの約束があります。しかし、多くの場合、神は、いきなり天からみことばを響き渡らせて私たちに語りかけられることはありません。神の声は、私たちが普段から、聖書を読み、聖書に耳を傾けることの中に聞こえてくるものなのです。神の導きを求める人は、聖書のメッセージに耳を傾け、たゆみなく聖書を読み、熱心に学びます。導きを求めることと、みことばを求めることは同じことです。さらにみことばを求め続けましょう。

 二、人生の導きと祈り

 人生の導きを得、それを知る第二の方法は祈ることです。祈りが無ければ導きはありません。現代は、祈りを妨げるものが多くあって、祈りがとても貧弱になりました。とても残念なことですが、多くの人々にとって、祈りは、食事やミーティングの始めの合図でしかなくなっています。教会は「祈りの家」と呼ばれるのに、教会で一番人気のない集会が「祈祷会」なのです。

 また、たとえ、個人で毎日祈りの時間を持っていても、また、祈祷会を守っていても、その祈りが形式的なものになってしまっていては、そのような祈りによっては、神の導きを得ることはできません。私たちが、神に対して悔い改めることも、新しいことを期待することも、自らをささげることもしないなら、神の導きは必要ないからです。『人生を導く5つの目的』の中でリック・ウォレンは、私たちは、自分たちのコンフォタブル・ゾーンに閉じこもっていないだろうかと言っています。もし、私たちが、自分でマネージできる範囲の、自分の世界の中にいれば、なるほど、居心地は良いかもしれませんが、そこでは、神の導きを求める必要もなく、また、神のみわざを体験することもないでしょう。

 それでは、がむしゃらに、何かにチャレンジして、それを達成すればよいのでしょうか。それもまた、神に導かれる人生、祈りによって導かれる人生とは違います。私たちは、それぞれにゴールを設定しそれに到達しようとします。またさまざまなプロジェクトを立てて、それを達成しようとします。しかし、それは、本当に神を喜ばせることなのでしょうか。自分を喜ばせるだけのものではないのでしょうか。さまざまなゴールや、プロジェクトの背後に、それを超えた、もっと大切な「人生の目的」があるのではないでしょうか。教会は、人々の目をそこに向けさせるところであり、クリスチャンはそれを追い求める人々ではないのでしょうか。『人生を導く5つの目的』には、礼拝、交わり、弟子訓練、奉仕、伝道という具体的なものが教えられてはいますが、しかし、そこでは、それらの背後にあるもの、つまり、ほんとうに神をあがめるこころ、神の家族を愛する思い、キリストのようになりたいという願い、しもべとなって仕えるという態度、キリストを伝えたいという情熱がさらに大切なこととして教えられています。もし、私たちが、目に見えるゴールに到達すること、プロジェクトを完成させることを、「目的」にしてしまうなら、私たちは、年中、活動においまくられるようになってしまうでしょう。教会でも、この世と同じように、あらゆることが数字で、量で量られ、効率がすべてになってしまうでしょう。礼拝よりも慈善事業を、交わりよりも社会活動を、キリストのごとくなるよりも政治活動を、ということになってしまいます。極端に聞こえるかもしれませんが、私がこう言うのは、実際、そのように考え、行動している教会がどんどん増えているからです。アメリカにはこんなに数多くの教会があるのに、人々がどんどん信仰から離れているのは、教会がその目的を見失っているからではないかと思います。私たちも、私たちの教会も、その目的から離れてさまようことがないようにと、心から願っています。

 人生の導きを求めるには、まず、自分の計画を捨て、自分の努力を捨てることを学ばなければなりません。多くの人は、祈るよりも先に計画書を書き出します。神に導きを求めるよりも、「ああして、こうして、この人を説得して、あの人から賛成をとりつけて」とストラテジーを練ります。しかし、自分の計画が先に来て、自分の努力でフォローするのなら、そこには、神の導きや祈りが入ってくる余地はなくなってしまいます。計画を立てる前も、また、計画を立ててからも、よくよく祈り、立てた計画をも神にお任せして、神の働きを期待するのが、神の導きに生きる人の姿です。よく、使われる英語に "ASAP" という略語があります。これは "As Soon As Possible" の略語で、私は、Eメールなどで、しょっちゅう、このように催促され、急かされています。この言葉にちょっと嫌気がさしていたのですが、最近、いいことを聞きました。"ASAP" は "Always Say A Prayer" の略語だというのです。「いつも祈りなさい。」「早く、早く」とせきたてられる社会に生きて、その流れの中に流されている私たちに、本当に必要なのは、祈りです。祈りがなければ私たちは神の導きを見失ってしまいます。

 聖書は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)と教えています。たとえ、物事が予定通りにいかなくても、神の導きに任せながら生きる人は、そのことで慌てたり、ふてくされたり、がっかりしたりはしません。神の導きを祈り求めている人は、神が、私たちの願いや計画にまさって素晴らしいことをしてくださるということを知り、さらに神を賛美し、より深く神に信頼することができるようになるのです。

 神は、ご自分の計画を、ご自分の思いのままに推し進めることのできるお方です。しかし、神は、私たちを無理矢理に神のご計画に従わせるようなことはなさいません。神は、私たちが神の計画を知り、神の導きに身を任せ、神に信頼しながら神と共に、神のご計画のために働くことを願っておられます。神のご計画、神の思いを知ることは、とても大切なことなのですが、聖書は、私たちは、神の思い、ご計画のすべてを理解することはできないと言っています。神は「全知」のお方ですから、私たちのすべてを知っておられます。しかし、私たちは、限りある者で、神のすべてを知ってはいないのです。今朝の聖書、詩篇139篇にも、神がすべてを知っておられることについて1〜16節で歌った後、「神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」(詩篇139:17-18)とあります。では、神の思いは、私たち人間から遠く離れていて、私たちは、それを全く知ることはできないのでしょうか。決してそうではありません。もし、そうだとしたら、私たちは、神の導きを知ることはできません。神の導きを知るとは、神のみ思いを知るということなのですから。では、どのようにして、私たちは神の思いと一つになることができるのでしょうか。

 19節から読んでいきますと、この詩篇の調子が急に変わっていることに気付きます。「神よ。どうか悪者を殺してください。血を流す者どもよ。私から離れて行け。彼らはあなたに悪口を言い、あなたの敵は、みだりに御名を口にします。主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。」(詩篇139:19-22)と言って、ダビデは突然、「悪者」たちを責めはじめます。そして、彼らに対する憎しみをあらわにします。聖書は、人を愛するように教えているのに、ダビデの口からどうしてこんなことばが出てくるのだろうと、不思議に思いますね。主イエスは「敵を愛せよ。」と言われたのに、ダビデは「私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。」と言っています。ここで、注意したいのは、ここでの「敵」は、ダビデが個人的に憎んでいた人々ではないということです。それは「あなたの敵」と言われているように、神に敵対する者たち、神を憎む者たちのことを指しています。ダビデは、ここで自分の敵をのろっているのではなく、神の敵をのろい、そして、神の敵を自分の敵にしているのです。真理を愛する者は、偽りを憎みます。善を愛する者は、悪を憎みます。神を愛する者は、神が喜ぶものを喜び、神が嫌うものを嫌います。19-22節のことばは、ダビデがそれほどまでに神を愛するゆえに、神を憎む者を憎むと言っているのです。ダビデは22節で、「彼らは私の敵となりました。」と言っています。私たちは誰も、「敵」をつくりたくはありません。わざわざ「敵」を増やしたい人も、誰もないでしょう。しかし、ダビデは「私が神を愛することによって、人々が私の敵なるのなら、それでもよい。」と、本気で考えたのです。このことばは、ダビデがそれほどに神を愛しているということを言い表わしたものです。彼のまごころからの、ひたむきな神への愛の告白なのです。ダビデは、けっして完全な人ではなく、大きな失敗をも犯した人です。しかし、彼が、他の誰にも勝って神に愛された人と呼ばれるのは、このような、神への愛を持っていたからでした。ダビデは、この愛によって、神を知り、神のお心を知ったのでした。

 ダビデは23-24節で「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」と祈りました。ダビデは、この詩篇の第1節で「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」と言っています。神が、ダビデのすべてを知っておられるのに、なぜ、ダビデは「神よ。私を探り、私の心を知ってください。」と祈る必要があったのでしょうか。「神の全知」という「理論」だけしか知らない人にはその答えは分からないでしょう。しかし、生きておられる神を知っている人、神に愛され、神を愛する人には、その答えは分かります。ダビデは、神がダビデのすべてを愛をもって知っていてくださる、この愛の神に、自分のすべてを知っていただきたいと、愛のゆえに、自分の心を開いているのです。その時、神のおこころと、私たちの心が不思議なかたちでひとつになっていきます。神を知識では知り尽くすことができなくても、神を愛によってとらえることができます。このような、神との人格と人格との交わり、神に愛され、神を愛する愛の交わりの中で、私たちは、神のみこころを知り、神の導きを知るのです。そのように、神の導き求め、神の導きを知る、私たちの人生でありたいと、心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちに求めておられる人生が、あなたからの課題をこなしてそれを達成するだけの人生ではなく、あなたに導かれ、あなたと共に、目的に向かって歩んでいく人生であることを、今朝、深く教えられました。それは、今まで私たちが生きてきた生き方と大きく違っていますし、私たちの回りの人々が期待することも違っています。そのことに戸惑っている人々には、神に導かれて生きる人生の素晴らしさを教えてください。古い生き方に囚われている人々には、そこから一歩踏み出す勇気を与えてください。神の導きを求めて歩んでいる人々には、さらに確かな導きを、みことばと、祈りによって与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/16/2005