深い淵からの救い

詩篇130:1-8

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130:1 【都もうでの歌】主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
130:2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
130:3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
130:4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
130:5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
130:6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。
130:8 主はイスラエルを/そのもろもろの不義からあがなわれます。

 詩篇120篇から134篇は「都もうでの歌」(Song of Ascents)と呼ばれます。エルサレムの神殿に詣でるときに巡礼たちが歌った歌です。日本では、四国八十八箇所巡りをする人たちは、それぞれの札所で御詠歌を歌いますが、イスラエルの人々もエルサレムへの旅の間、これら15篇の詩を歌って、旅の疲れを癒やし、神への礼拝の心を養ったことでしょう。

 「人生は旅である」と言われます。そして、その旅路は、けっして平坦ではありません。「死の陰の谷」(詩篇23:4)があるかと思えば「滅びの穴」や「泥の沼」(詩篇40:2)もあります。信仰者の行き着くところは天のエルサレムですが、そこに至る道には、さまざまな障害物、落とし穴、また暗い沼地があることでしょう。

 きょうの詩篇には「深い淵」という言葉が出てきます。これは、いわば、「どん底」です。天の高みに至る道は、しばしば、深い淵から、どん底から出発するのです。人生の旅、また信仰の旅では、いったん抜けだしたはずの深い淵、どん底にまた落ち込んでしまうこともあるでしょう。信仰や人生にたいして真剣で誠実であろうとすればするほど、そうした苦悩を体験することでしょう。そんなとき、そこから救われる秘訣を聖書から学んでおきたいと思います。

 一、神を呼ぶ(1〜2節)

 深い淵から救われる秘訣の第一は神に助けを願うことです。

 聖書には、文字通り深い淵に投げ込まれた人々が多くいます。創世記に出てくるヨセフがそうでした。ヨセフは兄たちに妬まれ、野原の深い穴に投げ込まれました。ほんとうは殺されるところだったのですが、エジプトに奴隷として売られ、ファラオに仕える役人に買われました。ヨセフはその家で才能を発揮し、その家のすべてを任せられるようになりました。どん底から一家の管理人になったのです。ところが、ヨセフは濡れ衣を着せられ牢に閉じ込められました。しかし、牢獄でも看守に信頼され、囚人でありながら、牢獄のすべてを任せられるようになりました。そして、ついには、牢獄から解放され、エジプト全土を管理する者にまでなりました。ヨセフは最初は荒野の穴、次は牢獄という深い淵に二度も投げ込まれましたが、そこから最高の地位にまで高められたのです。

 預言者エレミヤは、ロープで縛られ、泥の穴の中に沈められました。また、ダニエルは、ライオンの穴の中に投げ込まれました。エレミヤもダニエルも神に従ったためにそうした苦しみを受け、危険にさらされました。しかし、神は彼らを苦しみから救い、危険から守ってくださいました。

 これらの人々は、神を呼び求めて救われ、守られました。神は言われます。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」(詩篇50:15)苦しいときに神に願う、これを「苦しい時の神頼み」と言って非難する人もありますが、神ご自身が苦しいときには神頼みをしなさいと言っておられるのですから、堂々と神頼みをしていいのです。

 この詩を書いた人は「主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください」(1節)と祈りました。苦しい時はつぶやき、つらい時には落ち込み、思ってもいなかったことが起こるといらだつのが、わたしたちです。そんな時、そのままで終わらず、神を呼び求めましょう。実際の生活で大変なことが起こったら、なにより先に911を呼びますが、わたしたちは、どんな場合でも、まず神を呼び求めるのです。とくに困難なことが起こったときには、ひたすらに神を呼べばよいのです。「まどろむことも、眠ることもなく」(詩篇121:4)わたしたちの祈りを聞いてくださる神は、かならず答えてくださるのです。

 ダビデは、イスラエルの王になる前、サウル王から命を狙われ、荒野を転々とし、何度も洞穴に身を隠したことがあります。ダビデもまた、文字通り、「深い淵」に身を置いたのです。しかし、ダビデはそのつど、神に助けを願い求めました。詩篇40:1-2でダビデはこう言っています。「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。」神は、ご自分に頼る者、信じて救いを呼び求める者に答えてくださいます。それがどんなに深い淵であっても、神はそこから、助けを求める者を引き上げてくださるのです。

 二、罪を悔い改める(3〜4節)

 深い淵から救われる第二の秘訣は罪を悔い改めることです。

 詩篇130:3-4はこう言っています。「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。」これは悔い改めの言葉です。「都もうでの歌」は、ユダヤの人々がバビロンから帰って来て、破壊された神殿を建て直し、もういちど礼拝を回復したときに歌った歌です。人々は、神殿の再建を喜び、先祖の土地に帰ってこれたことを感謝すると同時に、なぜ神殿が破壊されたのか、なぜ自分たちが外国の捕虜となったのかを振り返り、それが自分たちの罪から出たことであることを認めました。そして、その罪を深く悔い改め、神に赦しを願ったのです。

 神殿が再建され、これから神を礼拝するのだから、過去のことは思いかえす必要はない。礼拝は楽しいこと、うれしいことなのだから、悔い改めのことなど考えなくてもよいと言う人もあるでしょう。しかし、真実に神に近づこうとする人は、だれでも、悔い改めなしには、神に近づくことができないことを知っています。詩篇66:18に、「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう」とあります。罪を隠し持ったままでは、神に近づき、神とまじわることはできません。悔い改め、罪の赦しをいただいて、はじめて、わたしたちは神に近づくことができるのです。ですから、古代には、教会の礼拝は「キリエ、エレイソン」(主よ、あわれみたまえ)の祈りで始まりました。ヨーロッパの教会では、開会の祈りやとりなしの祈り、献金の祈りとは別に、悔い改めの祈りが今も祈られます。わたしたちはそうした礼拝形式をとってはいませんが、心においては、やはり、罪の悔い改めから礼拝をはじめたいと思います。罪の赦しの恵みを心から感謝し、罪の性質から解放され、日々の生活の中で罪に打ち勝つ力を受けてこそ、わたしたちは罪の深みから救われるからです。

 新生讃美歌471に

汚れと恥との深みにおちいり
もがけるこの身を主はみいだし
優しき恵みの両手を差し伸べ
引き上げたまえりああ主は愛なり
とあります。この賛美が歌っているように、神の愛は罪人に向かう愛です。イエス・キリストは罪ある者のために世に来られました。ですから、人は、自分の罪を知ってはじめて、ほんとうの意味で神を知ることができるのです。罪の悔い改めがあってはじめて、わたしたちは、神との親しいまじわりができるのです。そして、“Oh, He lifted me!”(ああ主はわたしを引き上げてくださった)と心からの賛美をささげることができるのです。

 三、信じて待つ(5〜6節)

 深い淵から救われる第三の秘訣は、神を信じて待ち望むことです。

 神は祈り求める者に答えてくださいます。しかし、そのタイミングは、かならずしもわたしたちの考えるとおりではありません。たいていの場合、神はわたしたちが思う以上に早く、期待以上の大きなことをしてくださるのですが、時には、長く待たされることもあり、期待どうりに物事が進んでいないように見えるときもあります。そのようなときも、神を信じて待つ、それが深い淵から救われる秘訣です。

 皆さんは、2010年8月に起こった、チリのサンホセ鉱山の事故のことを覚えているでしょうか。あのとき、33人の作業員が地下700メートルの狭い場所に69日も閉じ込められました。人々は、わずかな食べ物と水しかなかったにもかかわらず、励まし合って救助を待ち、全員が救出されました。その背後には、すぐれたリーダーシップのもと、人々が規則正しい生活をし、救出に備えたことと共に、神を信じる人々が日々に祈り、「必ず救われる」という確信がありました。

 詩篇130:5-6は、「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」と言っています。ここでいう「夜回り」というのは、神殿を守る人たちのことを指しています。彼らは、かがり火を炊いて、一晩中、寝ずの番をしました。夜が明け、太陽が空を照らしはじめるまで、緊張が解けることはありません。「深い淵」と訳されている言葉は、もとの言葉では「深み」という言葉の複数の形です。「深みの深み」と訳して良いでしょう。光も届かないような地の底や海の底を表わします。「お先真っ暗」という言葉がありますが、長い人生の中には、何の光もなく、先が見えないときが襲ってこないともかぎりません。そんなとき、物事が良い方向に向かって光がさしてくることを誰もが願います。「夜回りが暁を待つ」という気持ちは、みなさんも理解できると思います。

 信仰を持たないでいると、人は深い淵に落ち込んだとき、光が見えなくなって、すぐに絶望してしまいます。しかし、信仰を持つなら、抱えている問題が先の見えない暗闇のようであったとしても、必ず朝が来ると信じることができます。詩篇130:5に「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」とあるように、たとえ日の光がなくても、信仰者には、暗闇を照らすかがり火、神の言葉があるからです。神を信じて、待ち望む者は、御言葉によって「朝の来ない夜はない」ことを確信するのです。

 信仰者の人生は、決して暗闇で終わることなく、かならず光へと導かれます。黙示録は、「天のエルサレム」を描いて、「夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22:5)と言っています。古代には、日没で一日が終わるとされてきました。現代では一日は真夜中に始まって真夜中で終わります。いずれにしても、一日は暗闇で始まって、暗闇で終わるのです。確かに、この世には、暗闇しか見えない現実があります。しかし、神が世界を新しくされる日には、もう夜はありません。その日は終わらないのです。救われた者は永遠の光の中を歩むのです。信じる者は、その光の中に入るのです。そればかりでなく、今、この世でも、この光を受けることを許されているのです。天のエルサレムを目指して歩む信仰者は、天のエルサレムでの祝福を、この地上でも味わいながら、歩むことができるのです。

 たとえそこがどんなに深い淵であっても、神の手の届かないところはありません。神を呼び求めましょう。悔い改めをもって神に近づきましょう。そして、神の言葉によって、神を待ち望みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、なんとしばしば、深い淵に落ち込んだことでしょうか。しかし、あなたを呼び求めるたびに、あなたはそこから救い出してくださいました。人生の旅路で、悩み苦しむ人々が、ひとりでも多く、イエス・キリストの救いを見出すことができますように。わたしたちをそのための実例としてお使いください。主イエスのお名前で祈ります。

6/25/2017