御言葉による希望

詩篇130:1-8

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130:1 【都もうでの歌】主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
130:2 主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
130:3 主よ、あなたがもし、もろもろの不義に/目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。
130:4 しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。
130:5 わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
130:6 わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
130:7 イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。

 一、苦難と希望

 先週(2016年11月22日)、福島沖で地震があり、そんなに大きくはありませんでしたが、津波が押し寄せ、沿岸部に被害がありました。五年前の大津波を思い起こさせる出来事でした。

 福島県では、今年三月、県内の七地区で、東日本大震災の犠牲者への追悼、復興への願い、また支援に対する感謝を表わすため、キャンドルを灯すイベントが行われました。このイベントは「キャンドルナイト~希望のあかり~」と名付けられました。「希望」、それは、苦しみの時にこそ必要なものです。福島があのような災害に遭わなかったら、人々は、「希望」という言葉を、キャンドルを灯してまで心に覚えることはなかったでしょう。「希望」は困難な時にこそ、求められるものです。それは、「希望」なしには困難に耐えることができず、そこから前進することができないからです。

 きょうの聖書の箇所は、「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」という言葉で始まっています。「深い淵」、それは、わたしたちが人生でぶつかる、さまざまな困難や苦しみを指しています。あの震災に遭った人々は、ほんとうに「深い淵」に投げ落とされたのだと思います。人々は「希望」を見つけ、そこから立ち上がろうとしていますが、まだ希望の光が見えず、苦しんでいる人たちも少なくないと思います。

 福島から横浜に避難した少年が、小学生のときからずっと「いじめ」を受け、中学生になった今も学校に行けないでいます。そのこどもの手記が11月15日に公開されました。そこにはこう記されています。

「3人から…お金をもってこいと言われた」

「お金 もってこいと言われたとき すごい いらいらと くやしさが あったけど ていこうすると またいじめがはじまるとおもって なにもできずに ただこわくてしょうがなかった」

「ばいしょう金あるだろ と言われ むかつくし、ていこうできなかったのも くやしい」

「いつも けられたり、なぐられたり ランドセルふりま(わ)される、 かいだんではおされたりして いつもどこでおわるか わかんなかったので こわかった」

「ばいきんあつかいされて、 ほうしゃのうだとおもって いつもつらかった。 福島の人は いじめられるとおもった。 なにも ていこうできなかった」

「いままで いろんな はなしを してきたけど (学校は)しんようしてくれなかった」

そして、この少年は、こう書きました。

「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」

 いじめが原因で自殺するこどもが大勢いる中で、この男子中学生は必死て生きていこうとしています。大震災と原発事故のため生活の基盤を失い、他の地域に移り住んでも、なお「深い淵」の中で苦しんでいる人々、とくにこどもたちのことを思うと、心が痛みます。このこどもが「ぼくはいきるときめた」と言っているように、その心がいやされ、力強く生きていって欲しいと願います。

 わたしたちは、このような苦しみではなくても、人生の中でさまざまな苦しみや困難に出会います。事情はそれぞれに違っていても、仕事のことや家庭のことで悩まない人はいないでしょう。経済的な苦しみ、病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、愛する人との別れなどは、多くの人が体験するものです。それぞれが「深い淵」を体験し、その中で「希望」を掴みとろうと苦闘してきたことと思います。そして、その中で「希望」を見い出すことができた人は、その「希望」に導かれて苦しみに耐え、困難を乗り越えてきたことと思います。

 二、祈りと希望

 「深い淵」という言葉で思い起こすことがもうひとつあります。それは2010年8月5日、チリのサンホセ鉱山であった事故のことです。大規模な落盤事故があったとき、33名の作業員が働いており、地下700メートルの坑道に閉じ込められました。文字通り「深い淵」に閉じ込められたのです。33名の生存は絶望視されましたが、家族は希望を捨てませんでした。関係者に捜索と救出を願い出、その熱心は政府を動かしました。政府は国家予算を使って救出チームを立ち上げ、事故から17日目に生存者を発見し、連絡をとりました。

 地上の救出チームが生存者と最初のコンタクトをとったとき、普通なら「助けてくれ」などの叫びがあっても不思議ではないのですが、生存者たちからとても冷静な応答があったそうです。それは、生存者たちが、救出を信じて、リーダーのもとに統率のとれた生活をしていたからでした。いつ救出の手がさしのべられるかわからない中で、精神的に混乱し、無秩序になってもおかしくないのに、生存者たちは、必ず救出されると信じて、その日に備えていたのです。

 生存者が実際に救出されたのは、10月12日でしたから、地上との連絡がとれてからも、なお40日地下に閉じ込められたままでした。とても忍耐のいることだったと思います。「もっと早くできないのか」という不満やいらだちが心に生まれ、それが口から出ても不思議ではありませんでした。しかし、人々はじっと忍耐しました。この忍耐を支えたのは「希望」でした。

 そして、彼らは、この「希望」を祈りによって手にしました。この鉱山で働いていた人の多くは神を信じる人でした。彼らは、根拠もなく「必ず救出される」思いこんだのではなく、神が祈りを聞いてくださるお方であることを知っていました。神が希望の根拠でした。ですから、人の目には絶望的と思えるような状況の中でも静かな信頼の祈りを神にささげることができたのです。

 神を信じる者でも、突然大きな苦しみに投げ込まれると、祈りの言葉を失ってしまうことがあります。交通事故で息子を亡くしたある牧師が、「自分は牧師で、人に『祈りなさい』と教えているのに、しばらくの間祈ることができなかった」と話していましたが、そういうことはあり得ることです。しかし、神を信じる者は、祈りの言葉を失っても、祈りの心を失いません。何より、祈りを聞いてくださる方を失うことはありません。何を、どう祈るかが分からない時でも、祈りを聞いてくださるお方を呼ぶことができます。「神さま」、「主よ」、「父よ」、「イエスさま」と呼ぶだけでも、それは立派な祈りです。「主よ、わたしは…あなたに呼ばわる。」この言葉のように、人々に祈りの心を与え、その祈りを聞いてくださる神、「主」を「あなた」として意識するとき、そこに祈りがあります。

 深い淵の中で、また濃い闇の中で、希望の光を見いだせないで苦しんでいる人も多くいると思います。しかし、その中でも、神に祈り続けるなら、かならず「希望」が見えてきます。神ご自身がわたしたちの希望だからです。祈りは、どんなに深い淵、濃い闇の中からでも、神に届くのです。

 三、御言葉と希望

 聖書はさらにこう言います。「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」(5節)「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」とあるように、わたしたちは、御言葉によって希望を確かなものとします。アドベントの「希望のキャンドル」は「預言のキャンドル」とも呼ばれます。それは、わたしたちの希望のともしびは、神の言葉の約束によって燃え続けるからです。神は、わたしたちが希望を失わないために、わたしたちに御言葉を与え、その約束を確かなものとしてくださっているのです。

 聖書は、人が神に造られた時、何もかも満たされていて、完全な幸いの中にあったと言っています。エデンの園ではアダムとエバは「希望」という言葉を知らなかったと思います。望むもののすべてがそこにあったからです。しかし、人が罪を犯し、エデンの園から追放されたとき、彼らに「希望」が必要となりました。人が再び神のもとに帰り、神の祝福の中に生きることができるという「希望」です。

 この「希望」は、人間の側ではじまったものではなく、神の側で約束してくださったものです。神は、人が救いを望んでから、はじめてそれに応えて救いを用意されたのではなく、ご自分の側から救いを約束し、人にそれを望むようにされました。わたしたちの救いのために必要なすべてを準備し、わたしたちが信仰によって受け取るだけでよいようにしてくださったのです。

 救いの約束の言葉は人が罪を犯した直後にすでに与えられています。創世記3:15に「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」とありますが、これは、「女のすえ」としてお生まれになったイエス・キリストが罪と悪の力によって十字架につけられるのですが、十字架と復活によって、罪と悪の力を打ち破ってくださることの預言です。

 この預言からはじまって、聖書にはイエス・キリストのお生まれに関して、また、そのお働きに関して、十字架と復活、昇天や再臨に関する預言が、主なものだけでも50近くあります。神は、他にも、数限りない約束の言葉を与えて、神を信じる者たちを励ましてくださっています。神はわたしたちが失望や絶望に陥らないように、常に御言葉を与え続けてくださっています。神の言葉に信頼するなら、希望を失うことはないのです。

 1915年1月のことですが、英国の南極探検船エンデュランス号が氷に閉じ込められました。乗組員は救命艇でエレファント島に逃れましたが、そこは無人島で、通常の航路から遠く、そこにいたのでは助かる見込みは全くありませんでした。それで、4月になってから隊長のアーネスト・シャクルトンと5名がサウス・ジョージア島に助けを求めに行くことになりました。エレファント島に残された人々は、シャクルトン隊長と「必ず助けに帰ってくる」との言葉を信じて待ちました。そして、彼らは8月に、シャクルトン隊長が乗った救出の船を迎えることになりました。

 人々がシャクルトン隊長の言葉を信じて「希望」を持ったように、わたしたちも、どんな絶望的な状況の中でも、神の言葉によって希望を持つのです。人々に誠実を尽くしたのに受け入れられなかった。懸命に努力したのに物事が良くならなかったなど、長い人生では、地下や氷の壁に閉じ込められたりするようなことがあるものです。その時もにわたしたちを支えるものは、神と神の言葉への信頼から生まれる「希望」です。

 アドベントに「希望のキャンドル」を灯す時、神がイエス・キリストによってくださる希望に思いを向けましょう。そうして、「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」と、主なる神に申し上げましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは困難に直面して失望し、苦しみの中で絶望しやすいものですが、あなたは、困難や苦しみの中にこそ、「希望」の光を置いてくださいました。その光を祈りによって見出し、御言葉によって確かなものとすることができるよう、わたしたちを助けてください。希望の光を受けたわたしたち自身も、希望の光となってこの暗い時代を照らす者となることができますよう導いてください。わたしたちの「希望」、イエス・キリストによって祈ります。

11/27/2016