深い淵から

詩篇130

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130:1 【都上りの歌】主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。
130:4 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。
130:5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
130:6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
130:7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
130:8 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。

 一、苦難の深み

 詩篇130篇は「深い淵」からという言葉で始まっています。ここで「深い淵」というのは、第一に、私たちの人生にふりかかって来る災難や困難、苦しみなどを指します。

 「深い淵」というと、2010年8月チリのサンホセ鉱山の事故のことを思い出します。あのとき、作業員33人が地下700mの避難所に閉じ込められました。閉じ込められた人々は、わずかな食べ物と水しかなかったにもかかわらず、励まし合って救出を待ち、69日後、10月13日に全員が救出されました。それは、人々が神に信頼し、リーダーに従って統制のとれた行動をしたからでした。あれからちょうど2年が経ったわけです。私たちは、あの事故から、どんな「深い淵」に落ち込むことがあっても、決して希望を捨てないで、そこから救われることを信じて、祈り求めることの大切さを学びました。

 聖書には、文字通り「深い淵」に投げ込まれた人々が多くいます。創世記に出てくるヤコブの11番目の子、ヨセフがそうでした。ヤコブは兄たちに妬まれ、野原の深い穴に投げ込まれ、エジプトに向かう商人に奴隷として売られました。ヨセフはエジプトで、王ファラオに仕える役人に買われましたが、才能のある人でしたので、その家のすべてを任せられるようになりました。ところが、その妻からの誘惑を断ったため、濡れ衣を着せられ牢に閉じ込められました。ヨセフは二度も、「深い淵」に投げ込まれたのです。しかし、神は、獄中でもヨセフと共におられ、ヨセフは看守から獄屋のすべてを任せられるようになりました。そして、ついには、牢獄から解放され、ファラオの次の位を与えられ、全エジプトを任せられたのです。囚人から一挙に総理大臣にまでなりました。ヨセフは深い淵、どん底から最高の地位にまで高められたのです。

 預言者エレミヤは、神のことばを語ったため、反対者たちにロープで縛られ、泥の穴の中に沈められました。しかし、神はエレミヤをそこから救い出されました。ダニエルは、ペルシャの国でも、神への祈りを欠かさなかったため、ライオンの穴の中に投げ込まれました。けれども、神はダニエルを守り、ライオンはダニエルに襲いかからず、ダニエルはその穴から無事に救われたのです。

 こられの人たちは、実際の穴に閉じ込められると同時に、精神的にも光の見えない絶望の状態を味わいました。ダビデもまた、王になる前、彼の命を狙うサウル王から逃れて、荒野の洞穴に身を隠しました。ダビデもまた、実際的にも霊的にも「深い淵」の中にいたのです。しかし、神はダビデの命を危険から救い出したくださったばかりでなく、ついにはサウルにかわってダビデをイスラエルの王にしてくださったのです。ダビデはそのことを、詩篇40篇で次のように歌っています。

私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。(詩篇40:1-3)

 私たちが体験する災いや困難、苦しみのすべては、聖書の信仰者たちが体験してきたものです。しかし、神はご自分に頼る者をそこから救い出してくださいました。そこから救い出すだけでなく、以前にまさる大きな神の恵みを与えてくださいました。人の目には不可能に思えることでも、神の手によって、悪が善に変わり、嘆きが喜びに、うめきが賛美に変わっていくのです。大きな災いに遭うとき、困難に直面するとき、苦しみの中に投げ込まれるとき、神を信じる者であっても、一時的には動揺するでしょう。しかし、いつまでも右往左往しません。また、決して諦めません。そこがどんなに深い淵であっても、神の手の届かないところはないことを知っているからです。

 詩篇130篇1、2節に「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください」とあります。苦しみに遭ったときには、神を呼びましょう。ひたすら、呼びましょう。大変なことが起こったら、なにより先に911を呼ぶのと同じです。詩篇40:1-2に「主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった」とあったように、それがどんなに深い淵からのものであろうと、神は、助けを求める私たちの叫びの声に必ず答えてくださるのです。

 二、罪の深み

 「深い淵」は第二に「罪」を指します。「深い淵」と訳されている言葉は、もとの言葉では「深みの深み」という意味があります。「深みの深み」と言うと「底なし沼」のことを思い起こしますが、まさに、罪は「深みの深み」であり、「底なし沼」です。それは人を引っ張り込み、限りなく神から遠ざけるのです。この詩篇の作者は、自分と、イスラエルの罪に気付き、その罪の深みから、神に祈っています。

 第120篇から134篇までの「都上りの歌」は、ユダヤの人々がバビロンから帰って来て、破壊された神殿を立て直し、もういちど礼拝を回復したときに歌った歌です。ほとんどが、エルサレムに上って、礼拝をささげる喜びを歌ったものですが、第130篇は、イスラエルが神殿を失い、バビロンに曳かれていったのが、イスラエルの罪から出たことを、深く悔い改め、神に赦しを願っています。3節と4節はそんな悔い改めの言葉です。「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」

 神殿が再建され、これから神を礼拝するのだから、過去のことは思いかえす必要はない。礼拝は楽しいこと、うれしいことなのだから、悔い改めのことなど考えなくてもよいと言う人もあるでしょう。しかし、教会の礼拝は、古代から、悔い改めの祈りで始められました。悔い改めて神の前にひれ伏すことが礼拝の出発点でした。礼拝は、神が私たちのためにしてくださった恵みのわざを思い返し、それをほめたたえることです。そして、神の恵みのわざの中で一番大切なことは、神がイエス・キリストによって私たちの罪を赦してくださったということです。ですから、自分の罪を認め、真実な悔い改めを携えて神に近づくのでなければ、ほんとうの意味では神の恵みを味わうことができないのです。

 また、礼拝は神とのまじわりの時です。詩篇66:18に、「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」とありますから、罪を隠し持ったままでは、神に近づき、神とまじわることはできません。罪の赦しをいただいて、神に近づかなければなりません。罪の赦しだけが神に近づく唯一の道です。キリストの救いを知らない人たちは、善い人間になれば神に近づけると考えています。正しい生活をして、慈善をすれば、神に喜ばれ、受け入れられると思っているのですが、それは大きな思い違いです。神に近づくただひとつの道は、自分が善い人間ではなく、自分の力では善い人間になることができない、どんな見返りも求めないで、純粋に他の人を愛することもできないことを認めることなのです。そんな罪人に赦しを与えてくださる神の恵みを恐れをもって受け入れ、感謝し、賛美する、それが礼拝なのです。

 新聖歌に

罪の深みに 溺るるわれ
尊き御名を 呼びたりしに
救いの君は 御手を伸べて
引き上げませり 愛もて
愛なり愛なり 救いうるは愛なり
愛なり愛なり 救いうるは愛なり
という賛美があります(新聖歌222)。神の愛は、罪人に向かう愛です。この愛を受けるため、罪人としてへりくだって神の前に出たいと思います。そして、7、8節に「イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される」とある、この主の恵みを受けましょう。神の手は、どんな罪の深みからでも、人を救うことのできる、力強い御手です。

 三、内面の深み

 「深い淵」、それは第三に人の心の奥深いところを指します。「深い淵から、私はあなたを呼び求めます」というのは、心の奥底から、自分の存在の深みから神を呼び求めるという意味でもあるのです。お腹が空いたから食べる、疲れたから休む、眠くなったから寝る、身体が窮屈になったからそれをほぐす、気持ちが塞ぐので気晴らしをするという生活だけなら、その中で神を意識することはほとんどないでしょう。しかし、人が自分の内面の深いところに降りていくなら、そこに神を求めて飢え渇いている自分を見出すでしょう。神は「霊」ですから、人もその「霊」によって神と出会うのです。5、6節に「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます」あるように、私たちの「たましい」は神を求め、神を待ち望んでいるのです。

 聖書に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(コリント第一3:16)とあります。キリスト者は、キリストによって贖われたのだから、自分のからだは自分のものではない、それは聖霊が宿っておられるところだから、身も心もきよく保たなければならないとの教えです。神殿には、外庭があり、聖所があり、至聖所がありました。もし、キリストを信じる者の身体が神殿であるなら、外庭や聖所、至聖所は何に相当するのでしょうか。

 外庭は、私たちの身体にあたるでしょう。私たちは、この身体を教会に運び、唇を開いて神を賛美し、耳を開き、神のことばを聞きます。頌栄と祝福の時には立ち上がって神に栄光をお返しし、神からの祝福を受けます。そして、礼拝堂を歩いて出るとき、神からの使命を頂いてこの世に遣わされ、この手足を使って神に仕えるのです。

 聖所は心です。礼拝でいただいた神のことば、祝福が私たちの心に留まり、みことばに導かれて神とのまじわりを保ちます。祭司たちが、一般の人の目には触れない聖所で祈るように、私たちもその内面で、神に祈り、神とまじわります。

 では、至聖所はどこでしょうか。それは、たましいの深み、聖書が「霊」という言葉で表わしているところです。「霊」とは「私の中の私」、「究極の私」と言って良いものかもしれません。たとえば、ここに、「田中栄一」という人がいたとします。田中さんの勤めていた会社が倒産して、田中さんは仕事を失いました。しかし、それで田中さんが田中さんでなくなったわけではありません。そのうち、奥様の咲子さんが亡くなりました。配偶者を亡くした田中さんは、もはや咲子さんの夫ではなくなりました。けれども、それで田中さんは田中さんでなくなったわけではありません。田中さんは重い糖尿病のため家を処分して施設に入ることになりました。田中さんは自分の家を失いました。しかし、それで田中さんが田中さんでなくなったわけではありません。田中さんは病気のため足を切断しなければならなくなりました。しかし、身体の一部を失ったからといって田中さんが田中さんでなくなったわけではありません。施設でひとりで暮らすうちに、田中さんは記憶の病気にかかりました。いろんな記憶を次々に失っていきます。しかし、田中さんが田中さんでなくなったわけではありません。外側のものが、次々と失われていっても、なおそこに残っている「私」、神が、「それがあなただ」と言われるもの、それが「霊」です。「霊」はたとえ、身体が死んで葬られても、なお残ります。

 「深い淵から、私はあなたを呼び求めます」とは、私の内面の内面、私の中の私、「霊」が祈るということです。外庭だけでもなく、聖所だけでもなく、至聖所に入って、霊である神と、霊である私とが触れ合うことです。この霊の祈りは、聖書に、聖霊によって祈る祈りとして教えられています。ローマ8:26に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」とあります。コリント第一14:14-15では「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」と教えられています。「霊の祈り」とは、感情を吐き出すことでも、無意識の世界に入り込むとことでもありません。それは、みことばと聖霊に導かれて、本来の「私」が、神との出会いの中で祈る静かで秩序ある祈りです。神のことばと聖霊に導かれて自分の内面の深みに降りていくとき、そこから出てくる祈りは、「無病息災」、「家内安全」、「商売繁盛」などといった、かつて祈っていた祈りではないはずです。そこでは自分に本当に必要なものが何かが分かり、それを祈り求めるようになります。

 絶望の淵に立たされるようなことは、どの人の人生にも一度や二度はやってきます。多くの人はそのようなとき、自暴自棄になって、人生を台無しにしてしまうのですが、信仰者は、自分の内面の深みに降りていって、そこに神を見出します。財産が奪われても、愛する者を失っても、身体の自由が利かなくなっても、なお、「私」は「私」であり、神がその「私」を愛し、慈しんでくださっていることを知るのです。抱えている問題が先の見えない暗闇のようであったとしても、必ず朝が来ると信じて待ち望みます。「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます」とあるように、その内面でたましいが、夜明けの光を待っているのです。「夜明け前が一番暗い」と言われますが、主を待ち望む者は、その暗さの中でも希望の光を見出すことができるのです。

 絶望の淵といった大きなものでなくても、私たちは、日常の生活で、怒りや落胆、つぶやきなどといった「落とし穴」にはまり込みます。「そんなことは小さいこと」と、軽く見ているうちに、怒りや落胆、つぶやきがその人の習慣になり、性格になり、人格になってしまい、その「落とし穴」にはまったままで抜け出せないでいる人がなんと多いことでしょう。しかし、神を信じる者は、そんな時も、神を呼び求めて救われ、癒され、きよめられ、強められていきます。こんな幸いな信仰をいただいているのですから、この信仰を生かし用いて、神のもとにある赦しと恵み、豊かな贖いを自分のものにしていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちの罪に目を留められるなら、誰が、あなたの前に立つことができるでしょうか。しかし、あなたには赦しがあり、恵みがあり、豊かな贖いがあります。あなたはそれらすべてをイエス・キリストによって、私たちのために備えてくださいました。たとえ、どんな困難の淵に沈められ、罪の深みに落ち込んだとしても、私たちはそのことを信じて、たましいの深みからあなたを呼びます。私たちに答え、あなたの恵みを示し、それを体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/14/2012