黙想のすすめ

詩篇119:25-32

オーディオファイルを再生できません
119:25 私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。
119:26 私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。
119:27 あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。
119:28 私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。
119:29 私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。
119:30 私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。
119:31 私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。
119:32 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

 一、忙しさからの解放

 みなさんは、スケジュールの管理に何を使っていますか。最近はパームトップ・コンピュータやアイ・フォンなどのハイテック機器を使っている人も増えましたが、多くの人は「デー・プランナー」を使っていると思います。一日のスケジュールが一ページづつに割り当てられていて、何時から何時までは会議、何時から何時までは研修、そして何時にはこの人に会うなどと予定を書き入れていくものです。このようなデー・プランナーは、今まではおとなのもの、しかもビジネス・ピープルのものとされていましたが、最近はこども向けのものも作られるようになりました。日本のサン・スター文具が10歳以下のこどものためにディズニーのキャラクターを使ったデー・プランナーを販売しており、日本で毎年20パーセントづつ売上を伸ばしているそうです。日本のこどもたちの多くは、学校が終わってから、さまざまな習い事をしていて、デー・プランナーが予定でいっぱいなのだそうです。いままでは大人が習うものだと思われていた生花なども、こどもたちが習うようになったと、The Nikkei Weekly の1月14日の記事にありました。教育評論家は、日本の公立学校では、きちんとした勉強ができないのと、こどもたちが近所のこどもたちと遊ぶ場所がないため、親はこどもたちを、まだ2、3歳のうちからさまざまな習い事やスポーツ・クラブに通わせるのだとコメントしていました。私はこの記事を読んで、こどもたちをかわいそうに思いました。こどもにはこどもだけの世界がなければならないのに、そこにどんどんおとなの世界が入り込んできており、こどもがこどもの時にしか味わえない喜びや楽しみを十分に味わうことができなくなっているのです。こどもはちいさなおとなではありません。こどもの時に、自分のうちにいる「こども」が十分に養われていないと、おとなになってから様々な問題を引き起こすようになります。こどものために良いと思ってしていることでも、こどもからこどもの世界を奪い取っていることもあるのです。おとなは、そのことに気づいて、もっとこどもの世界を守ってあげなければならないと思います。現代は、おとなもこどもも「忙しさ」に追い回され、心のゆとりを無くし、心が枯れてしまわないかと心配です。

 「忙しさ」という病気は、クリスチャンの間や教会の中にもあります。それで、私は「活動を減らしてまじわりを深めよう。」と言い続けてきました。もちろん、それは与えられた責任にいい加減であって良いとか、怠けていて良いとかいうことではありません。聖書は「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」と命じています。「怠けること」は七つの大罪のひとつです。私たちは、日々の働きに、週ごとの礼拝、祈り会、聖書の学び、奉仕に励まなければなりません。しかし、目に見える活動だけに忙しくするのでなく、神とのまじわりにおいても、私たちは「勤勉」でなくてはならず、自らを養うことにおいて「怠」ってはならないのではないでしょうか。霊的なことは、目に見えないことだけに、いつでも後回しにされやすいからです。

 ここに米粒の入ったジャーがあります。そこにレモンを入れようとしても入りません。いったんジャーから米粒を出して、まずレモンを入れ、それから米粒を入れると、レモンはちゃんとグラスに収まります。同じように、私たちも、日々の生活の中で、神とのまじわりという大きなものをまず第一にすると、不思議なことに、その他の小さな事は、生活の中にぴったりと収まってしまうのです。生活の中でほんとうに第一にすべきものを第一にしているだろうかと、今朝の礼拝で反省し、今週も、優先順位をしっかりと守って歩んでいきたいと思います。

 二、黙想の効果

 神とのまじわりを第一にしていくために、私は黙想を実践することをおすすめします。詩篇1:1-2に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。「口ずさむ」と訳されている言葉は「思い巡らす」「黙想する」「瞑想する」などと訳すことができます。「主のおしえ」をただ聞くだけでも、勉強するだけでもなく、それを深く心に宿らせ、味わうのです。詩篇119:27には「あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。」とあります。新約にも「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」(コロサイ3:16)「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」と教えられています。

 礼拝前の成人サンデースクール、新約聖書のクラスでは、1999年の夏期修養会での千代崎秀雄先生の説教によってガラテヤ人への手紙を学んでいます。その中で、千代崎先生は聖書のあまり感心しない読み方として「ウワバミ読み」「コアラ・パンダ読み」「イヌ読み」の三つをあげています。そう言われても、何のことだか分からないので、クラスで「これはどういう意味ですか。」という質問がありました。ウワバミというは大きな蛇のことです。蛇はなんでも丸呑みにします。そのように聖書をよく消化しないで、分かったつもりになっているのが「ウワバミ読み」です。コアラやパンダはユーカリの葉や笹の葉しか食べません。偏食するのです。そのように、聖書の好きなところだけをつまみ食いするのを「コアラ・パンダ読み」です。「イヌ読み」というのは、イヌが食べ物を食い散らすように、聖書のあちらこちらをかじるだけで、聖書を体系的に学ばないことを指しています。千代崎先生は、そういう読み方をしていると、せっかく聖書を読んでいても、それが身につかないと言って、「ウシ型聖書愛読」を勧めています。ウシが食べたものを反芻してこまかく噛み砕き栄養のすべてを吸収するように、私たちも、聖書のことばを思い巡らし、時間をかけてじっくりと消化し、自分のものにしていく、黙想の時を大事にしたいと思います。

 お米でも、豆でも、料理をする前に水に浸しておくと、水分を含んだ米や豆は柔らかくなっていて、調理しやすく、また消化しやすくなります。そのように、頭だけで理解しようとしていたために、今まで固いと思っていた聖書のことばが、それを黙想することによってとても柔らかく、そして食べやすいものに変わっていったのを、私は体験しています。

 日本のある教会で、礼拝が終わって、ひとりの年配の女性が「わたしゃ、この年になると、物忘れがひどくて、まるでザルで水をすくうみたいに、ちっともお説教が残らないのじゃが、どうしたもんかのう。」と牧師に言いました。それを聞いた牧師は、少し考えて、こう言いました。「おばあちゃん、ザルでもねえ、水に浸しておれば、いつも水を入れておくことができるよ。毎週教会に来て説教を聞き、毎日聖書を読んでれば大丈夫だよ。」と励ましたそうです。黙想は、みことばを浸しておくだけでなく、自分自身をみことばの水の中に浸しておくことでもあるのです。

 頑固な汚れがついたものでもランドリー・マシーンをソーク・モードにしておくときれい汚れが落ちます。黙想の時を持つことによって、ストレス、不安、パニック、怒り、孤独などの感情を洗い落とすことができます。黙想は、たましいと心の健康だけでなく、からだの健康にも効果があります。テキサス大学の調査によると、心臓血管に障害のあった人に黙想を実行してもらったら、一年のうちに、その82%が回復したという結果が出ています。

 三、黙想の方法

 12ステップも黙想を教えています。12ステップの第10と第11のステップは「私は、引き続いて自己反省を行い、自分が誤っていた時は、すぐにそれを認めました。」「私は、私に対する神の意志を知り、それを実行する力を得るために祈り、神との意識的なふれあいを、祈りと、黙想とによって高めていく努力をしました。」と言っています。自分を省み、神のみこころを知るのは「祈り」と「黙想」によってであり、学んだことを実行する力もそこから来ると教えているのです。フリーウェーを車で突っ走っているときには、道端に生えている草花の一本一本をよく見ることはできません。けれども車を降りてゆっくり歩いていくと、その花がどんなに綺麗なものかが見えてきます。同じように私たちも、この世のものだけを求めて人生を突っ走っているとき、また、自分の栄誉を求めて活動に没頭しているときは、自分のほんとうの姿が見えないばかりか、他の人の痛みや必要にも気がつきません。まして、私たちの人生に働いてくださっている神の愛や恵みは見えないのです。ユニオン神学校の教授だった小山晃佑先生は『時速5キロの神』という本を書きました。私たちの神、主イエス・キリストは私たちの側にきて時速5キロで歩いてくださる神なのです。私は、先生のことばに目が開かれる思いがしました。私たちは、いいえ、私は、人生を急ぎすぎて、先に先にと突っ走って、イエスを置き去りにしていないだろうかと反省しました。そして、もっと神を思い見ることに時間をかけようと思うようになりました。私たちも、この世が提供する乗り物に乗って猛スピードで走るのでなく、そこから降りて、自分の足でゆっくりと歩き、まわりの景色を十分に楽しんで生きることができたらと思います。

 では、具体的にどのように黙想を実行すれば良いのでしょうか。12ステップのデボーションに次のようなサジェスションがありました。

  1. 主と二人になれる場所に行く。
  2. そのための一定の時間を作る。それは、一日の仕事で疲れ切った時であってはならない。
  3. 心を開いて、自分の思いと感情を神に正直に語る。
  4. 神の答を、注意深く聴く時をもつ。
  5. 神の言葉に心を集中し、黙想する。
  6. 「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」との祈りをもって終る。

 黙想には、このほかにもいろんな方法があり、以前、有志で黙想会をしたときにその一部を学びましたが、このサジェスションはとても良いサイジェスションだと思います。黙想が身に着くまで、他の人といっしょに黙想の時を持つことはとても役に立ちます。また黙想会をしてみたいと思っています。

 「タイム・マネージメント」といって、どうやって時間を管理するか、それを有効に用いるかについて書いた本がたくさんあります。私もそうしたものを何冊か読みました。けれども、タイム・マネージメントによって時間を有効に使い、空き時間ができたからといって、そこにさらに活動を詰め込んだのでは、自分をもっと忙しくするだけです。その時間を黙想にあてましょう。

 現代は、みんなが、人よりも先を走ろうとして躍起になっているラット・レースの時代です。"If you win the rat race, you're still a rat." ということばがあります。「タイム・マネージメントに成功してラット・レースに勝ったとしても、あなたはラットのままだ。忙しい生活をうまくマネージしても、それだけでは、あなたの人生に意味も目的も、力も与えない。」といった意味なのでしょう。

 ギリシャに小さな漁村がありました。そこでは漁師たちが小さなボートで魚をとって生計を立てていました。そこにアメリカのセールスマンが最新型のボートと網を売りに来ました。漁師は「なんでそんなものがいるのかい?」と聞きました。セールスマンは「このボートと網を使えばもっとたくさんの魚が獲れるんですよ。」と答えました。漁師は「そんなにたくさん魚をとってどうするんだい?」と聞きました。セールスマンは「そうしたら、お金がいっぱい手に入りますよ。」と答えました。漁師は「金をいっぱいかせいでどうするんだい?」と聞きました。セールスマンはいらいらして言いました。「そうしたら、リタイアしてのんびりできるじゃないですか!」漁師は答えました。「ああそうかい。それなら、ボートも網もいらない。俺たちはもうすでにのんびり生きているんだから。」考えさせられる話ではありませんか。私たちも立ち止まって、自分の人生をかえりみましょう。そのために神の前に静まり、みことばに思いを潜めましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、嵐によってでも、地震によってでも、炎によってでもなく、かすかな細い声によって、預言者エリヤに語りかけられました。私たちは自分を忙しくすることによって、あなたのかすかな細い声を聞き逃しています。祈りのときでさえも、自分の願いを語るのに忙しく、あなたの答えを聞こうとしないことが多くあります。私たちに、「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」"Be still and know that I am God." と語りかけてください。そして、私たちを、あなたとの親しいまじわりの時へといざなってください。御子イエスのお名前で祈ります。

2/17/2008