私の目を開いて

詩篇119:17-24

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119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。
119:19 私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
119:20 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。
119:21 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、のろわるべき者をお叱りになります。
119:22 どうか、私から、そしりとさげすみとを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。
119:23 たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。
119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

 こんな話があります。ある町に小さな会社の経営者がいました。資金繰りが苦しくなり、どうしたらいいだろうかと考えあぐねた末、聖書から導きを得ようとしました。新改訳聖書の第二版を取り出して、どこでもいいからパッと開いて、最初に目に留まったことばに従おうと決心しました。そこで目をつむって聖書を開いてみました。マタイの福音書27章で、最初のことばが「そして、外に出て行って、首をつった」でした。この人は「とんでもない。これは何かの間違いだ」と思って、もういちど同じようにやってみました。今度はヨハネの福音書13章でした。最初のときは、上の段のはじめのことばに目を留めたので、悪いことばに当たったけれど、下の段の最初のことばなら大丈夫だろうと思い、それに目を留めました。そこには「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と書いてありました。これは悪い見本の笑い話ですが、聖書から導きを得るといっても、それはあてずっぽうに聖書のことばを読むことではないのです。

 聖書は神のことばですから、聖書を読むには他の本を読むときと違った心構えが必要です。聖書に向かう正しい態度、姿勢を身につけ、聖書に親しみたいと思います。

 一、聖霊を求める

 聖書に向かう態度、姿勢で一番大切なのは「祈り」です。聖書は祈って開き、祈りながら読み、祈りをもって閉じるものです。教会で集まって聖書を読み、学ぶときにはかならず祈りをもってはじめ、祈りをもって終わりますが、みなさんが個人で聖書を読むときにも、聖書を前にして短い祈りをしてから聖書を開くと良いのです。

 聖書を読む前の祈りには、さまざまな祈りがありますが、きょうの詩篇の「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩篇119:18)という祈りは、聖書を読む前の祈りとしてとてもふさわしいものです。

 「私の目を開いてください。」という祈りは、「自分の力では神の真理を見ることができません。あなたの助けによってそれを見ることができるようにしてください」という祈りです。

 神は、いくつもの方法で、ご自分を人間に知らせてくださっています。それを「啓き示す」と書いて「啓示」と言います。人間の目には隠されていたものが示されることが「啓示」なのです。神の啓示の第一の方法は、神が創造されたこの世界を通してご自分の存在を、その知恵と力とをあかしされることです。これを「一般啓示」と言います。しかし、多くの人はこの世界が神によって作られたものであることを知りません。宇宙の大きさ、自然の力、生命の神秘に心打たれるのですが、それらすべてが神の作品であることを認めようとはしません。それで、神はもうひとつの啓示、ことばによる啓示を与えてくださいました。それが聖書で、これは「特別啓示」と呼ばれます。いくらこの世界が素晴らしく造られているとしても、それは神の大きく、深いみこころのすべてを言い表すことができません。神はことばによる啓示、「特別啓示」によって「一般啓示」ではぼんやりとしたものを、はくっきり、はっきりと示してくださいました。

 それで、ジャン・カルバンは、聖書は眼鏡のようなものだと言いました。近視の人は遠くのものがぼんやりとしか見えません。老眼になると、小さな文字が読みづらくなります。けれども、眼鏡をかけると遠くのものや小さな文字が見えるようになります。そのように、聖書なしには知ることができなかったことを、人は聖書によってはっきりと知ることができるようになったのです。

 しかし、どんなに素晴らしい眼鏡でも、目の見えない人には何の役にも立たないように、聖書がどんなに素晴らしくても、私たちの心の目が閉じていては神と神のみわざ、また、みこころを知ることはできません。目の見えない人には、まず、視力の回復が必要なように、私たちにも霊的な視力の回復が必要です。そして、それをしてくださるのが聖霊です。聖書という神が与えてくださった素晴らしい眼鏡によって神を知り、そのおこころを理解し、そのみわざを学ぶ前に、私たちは、聖霊によってこころの目、霊の目、信仰の目を開いてくださいと祈る必要があるとあると、カルバンも言っています。

 エペソ1:17ー19に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」とあります。これは、聖霊が私たちの心の目を開いてくださるようにとの祈りです。

 「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」との祈りも、同じ祈りです。こうした祈りは、自分の知恵や知識に頼って聖書を理解しようとするのでなく、聖霊の働きに頼って神のことばに聞こうとする、謙虚な祈りです。「理解する」という言葉は英語でunder(下に)stand(立つ)と言います。たとえ無意識であっても、自分は聖書を良く知っている、神のみこころを十分に悟っている、などという思いがあるなら、それは聖書の上に立つことになり、そういう思いがあるうちは決して聖書が教えようとしている大きく、深い真理を理解することができないのです。カルバンの時代の教会は、マイクロフォンもスピーカーもありませんでしたから、説教者は教会堂の壁の高いところに突き出た小さな部屋から説教をしました。それを「プルピット」と言いますが、カルバンは、説教のたびに「聖霊よ、来てください」と祈りながら、プルピットに上っていったと伝えられています。世界的に著名な聖書学者であるカルバンでさえそうなら、私たちはなおのこと、聖書に向かうたびに「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」との祈りが必要ではないでしょうか。

 二、黙想によって受け取る

 神は、祈りに答えてくださる方です。私たちがまごころから「私の目を開いてください」と祈って、聖書に向かうとき、かならず私たちに真理を示してくださいます。しかし、いつでも、すぐにというわけではありません。ときには、聖書を読んでも、何も心に響いてこない時や神が沈黙しておられるのではないかと感じてしまう時があります。そんなときは、祈りの答えには「YES」ばかりでなく、「NO」や「WAIT」というのもあることを覚えていたいと思います。私たちの多くはせっかちで、祈ったらすぐに「YES」という答え返ってくるのを求めます。しかし、神の答えはいつでも「YES」とは限りません。すると、私たちはがっかりして、祈ることをやめてしまったり、祈ってはいても形だけの祈りになって、熱心に信じて求めることをしなくなるのです。しかし、神が「NO」と言われたとしても、それが単なる拒否ではないことを、私は、今、学んでいます。祈りの答えが「NO」であっても、神は、「おまえはそんなつまらないものしかわたしに求めないのか。わたしはおまえのためにもっと良いものをあたえようとしているのだ」と私に言っておられるように思います。イエスは言われました。「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:9-11)私たちは、パンではなく石を、魚ではなく蛇を求めてしまうことがあります。自分では自分にとって良いと思えるものでも、神の目から見て、信仰の益にはならないもの、むしろ害になるものもあるのです。それで神は「NO」と言われるのですが、そのとき、神はかならずそれにまさる良いものをくださろうとしています。蛇ではなく魚を、石ではなくパンをくださろうとしているのですから、私たちはそれを忍耐深く待つのです。

 ですから、「私の目を開いてください」と祈って聖書に向かう私たちは、神が聖書の真理を心に示してくださり、それによって私たちを養い、強めてくださるまで忍耐深く祈り続けるのです。せっかちになってはいけません。急ぎすぎると神の答えを見過ごしてしまいます。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」との祈りで聖書を読みはじめたなら、神が教えてくださることを聞くために、聖書のことばを黙想する必要があります。古代からある聖書の読み方のルールをラテン語で "Lectio Devina" と言いますが、これは「読む」、「黙想する」、「祈る」、「観想する」という順序で進みます。ただ読むだけでなくそれを深く思い見る、そして、神の語りかけにこたえて祈り、祈りのうちに神の臨在を味わうというものです。最初からこの四つのステップ全部をマスターするのは難しいと思いますので、まずは、聖書を読んだあとに黙想することをつけ加えてみてください。読んだ聖書の箇所の中心的な部分、あるいはひとつの言葉を静かに思い見るのです。黙想とは聖書のことばと語り合うことです。きょうの詩篇に「あなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」(23,24節)とあります。ある人はこれを解説して「私たちは聖書を読むことによって神のみこころを問い、黙想によってその答えを受け取る」と言いました。読むだけで、神のことばに思いを潜めることがないなら、神の答えを見逃してしまうかもしれないのです。

 こんな話があります。ある農家の主人が貯蔵庫で季節の収穫を積み上げている時に、時計をなくしてしまいました。主人は、そのことでいらいらして、わめき散らしながら、ランプをかざして床の上のおが屑を熊手で引っ掻き回しました。仲間も加わって一緒に探し、大騒ぎしたのに時計は見つかりませんでした。大人たちがお昼ご飯を食べに出て行った後で、子供が貯蔵庫にやってきました。そしてなんなく時計を見つけたのでした。驚いた主人は、「どうやって見つけたんだ」と尋ねると、子供は言いました。「簡単だよ。おが屑の上に寝ころがって、じっとしていたら、時計のチックタックという音が聞こえたんだよ。」そうです。沈黙には価値があるのです。騒がしい自分の心を、神の前に沈黙させ、神のことばに耳を傾けるのです。そのとき、今まで見逃し、聞き逃していた神からの答えを得ることができるでしょう。

 三、信仰によって実行する

 聖書を読むときには聖霊を求める祈りによってはじめ、黙想のうちに神の答えを聞くということをお話ししましたが、最後に信仰によって実行するということをお話しして、今朝のメッセージを終わります。

 私たちが聖書を読み、学ぶのは、最終的にはそれを実行するためです。ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい」(ヤコブ1:22)と教えています。しかし、誰でも簡単にみことばを実行できるわけではありません。ヤコブも「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、…事を実行する人になります。」(ヤコブ1:25)と言って、みことばに思いを潜める黙想から、実行や実践が生まれてくると教えています。

 私たちは聖書の教えるすべてのことを完全に守り、行うことができないかもしれません。しかし、大切なことは神のことばを守り行いたいという決意をもって聖書に向かうことです。そのとき、神は、神のことばを守り行う力を与えてくださるのです。

 今朝歌った賛美「わが目を開きて」は詩篇119:18にもとづいて作られた賛美です。この賛美を直訳すれば、「私の目を開いてください。あなたが私に示そうとしておられる真理の輝きを見るために。私の手に与えてください。扉を開き私を解放する素晴らしい鍵を。私は、今、静かにあなたを待ち望んでいます。わが神よ。私はみこころを行う準備ができています。私の目を開いてください。私を照らしてください。天の霊よ。」となります。おりかえしの部分で、"Silently now I wait for you, ready, my God, your will to do." と歌われているのは、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)ということばのエコーのようです。この賛美は "I'm reday to do your will." と歌っています。神は、このような信仰を持つ者に、ご自分のみこころを示し、それを行わせてくださるのです。

 私たちも聖書に向かう祈りを、みことばを聞く祈りを、それを実行する祈りをさらに教えられ、祈り続けていきたいと思います。そうするとき、私たちは聖書にあるように蜜よりも甘いと言われるみことばによる喜びに満たされます。謙遜に祈り、熱心に聖書を読む人にはそれは金や銀にまさる宝になるのです。人はパンだけで生きるのではありません。私たちのたましいは、祈りと黙想と信仰をもって受け取るみことばの糧ではじめて生かされ、満たされ、みことばを守り行う力を得るのです。詩篇のみことばと今朝の賛美のように「私の目を開いてください。私の耳を開いてください。私の心を開いてください」との祈りが、私たちの日々の祈りとなりますように。

 (祈り)

 父なる神さま、聖霊によって、私たちの心の目を開いてください。あなたがイエス・キリストによって示してくださった大きく、深いみこころをさらに知り、それを受け止め、実行するものとしてください。そのためにいつもみことばの下に立つ者としてください。主イエスによって祈ります。

6/13/2010