神へのお返し

詩篇116:1-19

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116:1 私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
116:2 主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
116:3 死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。
116:4 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
116:5 主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
116:6 主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
116:8 まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。
116:9 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
116:10 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。
116:11 私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。
116:12 主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。
116:13 私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。
116:14 私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
116:15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。
116:16 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。
116:17 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。
116:18 私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。
116:19 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。

 村山桂子という人が書いた「おかえし」という絵本が、日本で、よく読まれています。タヌキさんの家の隣にキツネさんが引越してきました。キツネの奥さんがいちごを持ってタヌキさんの家へ、引っ越しの挨拶に行きました。すると、タヌキの奥さんがそのお返しを持ってキツネさんの家に行きました。今度は、キツネの奥さんが「これは、ほんのつまらないものですが、お返しのお返しです。」と言ってタヌキさんのところに行きました。するとタヌキの奥さんは、「これは、ほんのつまらないものですが、お返しのお返しのお返しです。」と言ってキツネさんのところに。それに対してキツネの奥さんが「これは、ほんのつまらないものですが、お返しのお返しのお返しのお返しです。」と、またまたお返しを持って行き、お返し合戦がどんどんエスカレートしていき、最後にはお返しするものもなくなり、お返し合戦がナンセンスだったことに気付くというお話です。

 このように、日本では「お返し」の習慣がありますが、アメリカではギフトを受け取ったときに「サンキュー」と言うか、「サンキュー・カード」を出すだけというのが一般的です。日本の結婚式では、お祝儀にみあった「引き出物」を用意し、葬儀のときも「香典返し」をしなければなりませんが、アメリカでは、ギフトへのお礼は、三ヶ月以内にすればよく、そのほうが新家庭を持って多忙な人たちや葬儀のあと大変な家族に対して優しい配慮だと思います。お返しが見栄のためになされたりすると、とてもわずらわしく、大きな負担になりますので、日本でもお返しの習慣を見直そうという声が上がっています。けれども、与えられたものに対して「もらって当たり前」などと考え、感謝の気持ちが無くなっていくとしたら、それはとても残念なことです。与えられたものを感謝する。それを「おすそわけ」と言って、他の人と分け合う。また、直接のお返しでなくても、自分もまた他の人に喜んで与える者になるということは、尊いことです。そんな意味でのお返しの心まで失くしてしまってはならないと思います。とくに、神を信じる者は、神に対してそのような心と態度を忘れないようにしたいものです。

 一、恵みからはじめる

 詩篇116:12は「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」と言って「神へのお返し」を教えています。神のために何かをしようとするときには、第一に、私たちが神のために何かをする以前に、神が先に、私たちのために、素晴らしいことをしてくださっていたということを覚えていたいと思います。私たちが神のために何かができたとしても、それは、神が私たちにしてくださったことへの応答であって、決して、私たちから出たものではありません。私たちが神に喜ばれることをしたので、神がそれに報いて私たちに良くしてくださるというのではありません。ローマ11:35に、「だれが、まず主に与えて報いをうけるのですか。」とあるとおりです。むしろ、私たちの行いは、「主が、ことごとく私に良くしてくださったこと」、つまり、神の恵み、あわれみ、救いへの応答であり、私たちに誇ることができるものは何ひとつないのです。

 神がくださる恵みの中でいちばん大きなものは罪の赦しですが、罪の赦しは、私たちが少しばかり良い人間になったから、罪滅ぼしのために良いことに励んだから、神がそれに報いて与えてくださったというものではありません。人間の罪は、少しばかりの善行や表面の変化によって解決できるほど、浅く、軽いものではありません。それはもっと深く、暗く、重いもので、自分の力で取り除くことのできないものです。だからこそ、神はひとり子イエス・キリストを世に遣わし、私たちの罪の身代わりとしてくださったのです。聖書は言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」(ヨハネ第一4:10)救いは、神がイニシャチィブを取り、神の側の大きな犠牲によって成し遂げられたものであって、私たちの側から始まり、私たちの力で成し遂げたものではありません。「私が自分の罪に苦しみ、助けを求めたから神は救ってくださった。」と言うこともあるでしょうが、私たちがまだ自分の罪に気付いていなかった時、自分の惨めさに苦しむ以前に、神は、すでに、私たちに目を留め、あわれみをかけてくださっていたと、聖書は教えています。神は、私たちが求める前から、悔い改める前から、信仰を持つ前から、私たちのために救いを備えておられた。いや、それどころか、私たちが生まれる前から、世界が造られる以前から、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福し…御前で聖く、傷のない者にしようとされた」と、エペソ1:3-4にあります。「私たちが生まれる前から」というのは、なんとか想像できますが、「世界の基の置かれる前から」というのは、私たちの理解を超えています。しかし、こうしたことばは、神が、まず、私たちに手を差し伸べ、救いを与え、いのちを与え、力を与えてくださった。だから、私たちも、神のために何かができる者になったということを教えています。

 二、恵みを思う

 神に答えていくためには、第二に、神の恵みのみわざを深く思い見る必要があります。多くの人は「信仰」や「宗教」というと、私たちが神のために、どんな良い行いができるかを知り、それを実行することだと思っていますが、キリストを信じる信仰、聖書の教えは、そうではありません。聖書は、私たちが神のために何ができるかを学ぶ以前に、神が私たちのために何をしてくださったかを学ぶよう教えています。聖書は、基本的には、人間に何をすべきかを教える倫理の書物ではなく、神が人間の救いのために何をしてくださったかを知らせる書物です。神の人類に対する救いのストーリー、神の愛の実践の記録です。神が私のために成し遂げてくださった救いを知り、それを深く思い見ることから、神のために何をすべきかが見えてくるのです。しかも、私たちがなすべき「良い行い」は、自分を向上させるためでも、世の中を良くするためだけでもなく、神の恵みを指し示すもの、神の救いをあかしするものだということが分かるのです。もし、神の救い、恵みによる救いを知ることがなければ、「良い行い」は人間の誇りになり、正しい動機から大きく離れてしまいます。神の力によらず、人間の力でそれをしようとするので、重苦しい義務で終わってしまいます。

 神が与えた十戒は、第一の戒めから始まってはいません。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という前文から始まっています。神は、十の戒めを与える前に、神が、イスラエルをエジプトから救い出されたこと、奴隷であった民を神の民としたことを宣言しておられます。十戒のひとつひとつの戒めは、この神の救いのわざに基づいて命じられています。十戒は、救い主である神と救われた者であるイスラエルとの関係の中で、神の救いへの応答として、はじめて正しく理解されるものなのです。使徒パウロは、エペソ人への手紙の前半でイエス・キリストの救いを説き、そして、それに基づいて、後半で、私たちが何をすべきかを教えています。ローマ人への手紙でも、1章から11章までは神の救いの計画を解き明かし、それから、倫理的な教えに入っています。パウロが「(私は)神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使徒20:27)と言っているように、使徒たちの説教も、手紙も、ほとんどが、神の救いの計画の解き明かしでした。神が私たちのためにしてくださったこと、つまり「教理」が先で、その後に、それに基づいて、私たちが神のためになすべきこと、つまり「倫理」が教えられたのです。私たちの教会も、この使徒の教えを守り、神の救いの計画を教えてきました。教理が教えられ、それに基づいて倫理が教えられてきました。皆さんは、神の救いのご計画の全体をしっかりと学んでいますか。教理を身に着けてていますか。それを知り、学びたいと願いませんか。神が私のために何をしてくださったことを知ることによってはじめて、神のために何をなすべきなのか、何ができるのかを知ることができ、それを実行する力を得ることができるのです。

 詩篇の作者は、苦しみと悲しみの中で神の救いを体験し、神のあわれみを味わいました。それで、5、6節で「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。」と神を賛美しています。そして、自分自身に「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」(7節)と語りかけています。ほんものの平安は、たんに、トラブルやプレッシャーをうまく処理するところから来るのではなく、主の救いを覚えることから来るのです。8節では「まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。」ということばで、主の救いが確認されています。そこから「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。」(9節)という決心が生まれました。そして、「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。」(12-14節)という祈りが生まれたのです。「主がこのことをしてくださった。だから、私は、信じよう、祈ろう、誓いを果たそう。」という、主に対する応答、神へのお返しの心が生まれてきたです。聖書から、神の救いの計画を学びましょう。神があなたにしてくださった神の救いを深く思い見ましょう。そうすれば、おのずと、神のために何をすべきか、何かできるかが分かるようになるのです。

 三、恵みに答える

 第三に、神の恵みを受け入れ、それに答えましょう。神は私たちの応答を待っておられます。

 人間の愛は、たいていは条件つきの愛です。無意識のうちに、自分の有利になることを計算しています。しかし、神の愛は無条件の愛です。私たちがまだ罪人であったとき、神に対して醜い者に成り果てていたとき、神のために何の役にも立てないでいたときから、神は、私たちを、その大きな愛で愛し続けてくださいました。神は、あるがままの私たちを愛し、私たちから何の見返りも期待されず、一方的に愛してくださいました。

 しかし、同時に、神は、私たちがこの神の愛に答えることを求めておられます。主イエスは、ルカの福音書15章で、神を放蕩息子の父親として描きました。父親は、遊女におぼれて自分の財産を使い果たした息子さえ愛し続けました。豚飼いにまで落ちぶれ果てたとの噂を聞けば、いっそう息子をいとおしく思いました。だからこそ、父親は息子が帰ってくるのを切に願い、ひたすら待ったのです。もし、父親が「私は、おまえがどんな状態になっても愛している。だから、豚飼いを続けていなさい。」と、息子に言ったとしたら、それは、本当の愛でしょうか。そうではありませんね。父親は息子が本心に立ち返り、自分のところに帰ってくることを願いました。それが愛です。息子は、空腹のあまり豚の食べる豆さえも食べたいと思うほどになったとき、父親を思い出しました。息子の心に、父親が願っていた変化が起こったのです。そして息子は父親のところに帰ろうと、一歩を踏み出しました。息子が帰ってきたとき、父親は、走っていって息子を抱きしめました。そして、家に連れて帰り、新しい着物を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせました。そして子牛を料理してご馳走を食べさせたのです。父親が、あるがままの息子を愛したのなら、息子が汚い格好のままで良いとすべきだったと考える人は誰もいないでしょう。息子を愛すればこそ、息子が汚い姿でいること、しもべたちと同じように履物も履かないでいることを許すことはできなかったのです。これは、私の息子だということを示すために、父親は自分の指輪を抜いて、彼の指にはめさせたのです。

 このことから分かるように、神が無条件で私たちを愛しておられる、神があるがままの私たちをを愛しておられるというのは、私たちがその愛に答えなくても良いとか、私たちが罪の中に留まっていて良いということでは、決してありません。それは、神の愛の本質に反することです。ほんものの愛は、応答を求めます。愛とは、相互の関係で、私たちを愛された神は、私たちに神への愛を求められます。神の愛と神への愛が出会ってこそ、そこに神とのまじわりが生まれるのです。また、神の愛は、私たちをきよめる愛です。神はその愛のゆえに、私たちに変化を求めるのです。

 申命記32:6に「あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」とあります。神は、私たちに、神の愛に正しく応答することを求めておられます。神は、聖書のいたるところで、「神に立ち返れ。」「悔い改めよ。」「わたしを求めよ。」と呼びかけておられます。コリント第二5:20に「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代って、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」とあります。礼拝で語られる説教は、神の懇願であるというのです。神が説教を通して、キリストによる和解を提供しておられるのです。神には私たちを救う義務は少しもありません。人間がその罪の中に滅んだとしても、それで神の栄光が損なわれるわけではありません。なのに、神はその愛のゆえに、まるで、人間よりも下にあるかのようにして「懇願」しておられるというのです。この愛を知って、私たちも悔い改めをもって神に立ち返り、そして、みずからを神にささげて、神の愛の呼びかけに応えようではありませんか。

 18世紀のことですが、ドイツのデュッセルドルフの絵画舘で、ひとりの青年がある絵の前にじっと立ちどまっていました。一時間たっても、二時間たっても、彼はそこから動こうとはしませんでした。その両眼からは涙があふれていました。彼が見ていた絵は、Dominico Feti の Ecce Homo(この人を見よ)という作品でした。いばらの冠をかぶせられたキリストを描いたもので、その絵の下には「わたしはあなたのために、このことをした。あなたはわたしのために何をしたか。」と書かれていました。絵を見ているうちに、そのことばが心に迫り、彼は、守衛が閉館の時間を告げるまで、時のたつのに気がつかないほどでした。この青年は、ザクセンの貴族、ニコラス・ツィンツェンドルフ伯爵でした。彼は、その時、予定していたパリ行きを中止したばかりか、華やかな社交界やぜいたくな生活に別れを告げ、残る生涯をキリストにささげたのでした。

 ツィンツェンドルフ伯爵は、今日のチェコスロバキアの一部であるモラビアにあった信仰の共同体、モラビア兄弟団を自分の領土、ヘンフルートに保護し、その指導者となりました。モラビア兄弟団は、アメリカ、西インド、グリーンランドにまで宣教師を送っています。ジョン・ウェスレーが、回心ときよめの体験をしたのも、モラビア兄弟団の影響によるものでした。ツィンツェンドルフ伯爵は、多くの人々に大きな影響を与えましたが、それは、彼が神の愛に悔い改めと献身をもって応答したことから始まったのです。

 私たちも、感謝祭を迎えるにあたって、この神の愛に答えることによって、神への感謝を表わしましょう。素直な悔い改めと精一杯の献身で、神へのお返しを果たしましょう。

 (祈り)

 愛する神さま、今朝も、あなたの大きな愛を私たちに示してくださり、感謝します。私たちがあなたを愛するのは、まず、あなたが私たちを愛してくださったからです。私たちはあなたの愛に答えて、あなたを愛したいと願っていますが、私たちがあなたを愛する愛は、あなたが私たちを愛してくださった愛にくらべて、なんと、みすぼらしいものでしょうか。あなたを愛することも、その愛に応答することも、あなたの恵みなしにはできません。どうぞ、あなたの恵みにより、私たちのあなたへの愛を強めてください。聖霊によって、私たちのうちにあるあなたへの愛を、きよめ、あなたを喜び、あなたに喜ばれるものとしてください。そして、詩篇の作者と同じように「私は主を愛する。」という愛の告白をささげる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/16/2008