感謝への招き

詩篇100:1-5

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100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 聖書には「感謝」という言葉が数えきれないほど出てきて、誰に、何を、どのように感謝すべきなのかを教えています。詩篇には、神への感謝を歌ったものがたくさんありますが、詩篇100篇には特別に「感謝の供え物のための歌」、短く言えば「感謝の賛歌」というタイトルがつけられています。これは、“Old Hundredth” の愛称で呼ばれてきました。今朝は、ここから神への感謝について学びましょう。

 一、感謝への招き

 詩篇100篇は、第一に、すべての人が、神への感謝に招かれていることを教えています。「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ」(1節)と歌われているように、聖書は、全世界のありとあらゆるところに住む人々に、「神への感謝」を呼びかけています。天と地をお造りになった神は、ただおひとりの神、全世界のすべての人の神です。神はクリスチャンだけの神ではありません。聖書が示している神、イエス・キリストの父なる神はすべての人の神です。アメリカ人の神であり、日本人の神であり、世界中すべての人の神なのです。

 日本人はアメリカのものは何でも取り入れ、ここ数年、日本ではハロウィーンが盛んになりました。しかし、サンクスギヴィング・デーは取り入れられていません。これはアメリカの歴史に関わりが深いので、日本にはなじまないからかもしれません。それに、サンクスギヴィング・デーはハロウィーンと違って、おもしろいことをして楽しむものではなく、一年の恵みを神に感謝する日ですから、信仰的な色彩の強いものには抵抗を感じるのでしょう。キリスト教の祭日、行事は、ほんらいはそれによって神に感謝し、キリストを思うためのものなのですが、日本人はそこから神やキリストを上手に取り除いてしまいました。行事だけを取り入れて楽しんで終わっています。これはとても残念なことです。それぞれの祝祭日で祝われている神をわたしの神として受け入れ、そこで覚えられているキリストをわたしの救い主として信じることができたらどんなに幸いでしょうか。

 神はすべての人が神に感謝をささげることを願っておられます。この「すべての人」にはすべての地域、あらゆる国の人だけでなく、どんな状態の人も含まれます。病気の人は「わたしは病気になってしまったから感謝できない」と言い、貧しい人は「生活が苦しいから感謝できない」と言い、問題をかかえている人は「悩みがいっぱいだから感謝できない」と言うかもしれません。しかし、神は、何の感謝もできない状態にわたしたちを置きざりになさることはありません。たとえ、病気になっても、そのことを気遣ってくれる家族や友だちがいる。生活が苦しくても、健康が支えられて働くことができる。大きな問題をかかえていても、そのことのために祈ってくれる信仰の友がいる。よく考えてみれば、かならず感謝の理由を見つけることができるはずです。テサロニケ第一5:18に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」とあります。「すべての事について感謝する」のですから、どんな状況にある人も、あらゆる人が感謝できるはずです。「感謝しなさい」のあとに「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」という言葉が続きます。神はすべての人に「感謝すること」を求めておられます。「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」わたしたちも、神の招き、求めに答え、神に感謝をささげましょう。

 二、感謝の方法

 詩篇100篇は、第二に、どのように神に感謝するのかを教えています。2節に「喜びをもって主に仕えよ」とあります。聖書で「仕える」という言葉は「礼拝」を表わすのに使われます。聖書では、礼拝はクリスチャンの義務として定められています。ローマ12:1に「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」とあります。ここで「礼拝」と訳されている言葉は、市民が国家のために果たさなければならない奉仕の義務を表わす言葉です。礼拝はしてもしなくても良いものではありません。それは神の民の義務です。けれども、それは重苦しい気持ちで、いやいやする義務ではありません。それは、人間に与えられた最も価値ある特権でもあるのです。「喜びをもって主に仕えよ」と言われているように、それは、この上なく喜ばしいものなのです。

 礼拝は、喜びですから、「喜び歌いつつ御前に来たれ」と言われています。4節に「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ」とあります。これは、旧約時代の礼拝者の姿を描いています。各地からやってきた礼拝者たちは神殿が遠くに見える場所にやってくると、神殿が見えたということに感動し、その場所で神に賛美をささげました。いよいよ神殿の門をくぐるときには、うれしくて歌わずにはおれませんでした。感謝し、賛美しながら神殿の庭に入ったのです。古代の教会でも、人々はいきなり礼拝堂に入るのでなく、外で待っていて、列をつくり、賛美を歌いながら礼拝堂に入りました。わたしは、ある教会で、パームサンデーの日に棕櫚の葉を渡され、賛美しながら礼拝堂に入って礼拝したことがあります。「喜び歌いつつ御前に来たれ」という言葉を文字通り体験することができました。

 では、神殿に詣で、教会堂に入ったあと、人々はどこに向かうのでしょうか。それは、目に見える何かではなく、目に見えない神の臨在(“Presence”)です。「喜び歌いつつ御前に来たれ」は英語で “Come before his presence with singing.” と訳されています。礼拝は神の“Presence”(臨在)へと導かれていくことです。礼拝でわたしたちは神に出会います。被造物にすぎないものが創造者に、罪深い者が最も聖なるお方に、力のない者が全能者のもとに近づくことを許されるのです。礼拝は、賛美があって、祈りがあって、説教があって、祝福があってという、ひとつの形式(“Program”)です。礼拝に形式は必要です。しかし、礼拝の中心は “Program”ではなく、“Presence”、神の臨在です。人のたましいは神の臨在に触れて、はじめて満たされるのです。

 以前のことですが、ある人が、テレビのニュースキャスターが町で取材しているのに会って、「ハロー」と言ってもらったと、ずいぶん興奮して話してくれたことがありました。いつもテレビで見慣れている人を、間近に見る、その人と言葉を交わすということでさえ、そんなに人の心をときめかせるのであれば、神に出会う、神の臨在に触れるということはどんなに、人を喜びで満たすことでしょう。「喜び歌いつつ御前に来たれ。」礼拝のたびごとに主の臨在を求め、それに近づきたいと思います。

 三、感謝の理由

 詩篇100篇は、第三に、感謝の理由を教えています。3節に「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」とあります。礼拝は喜びです。感謝です。しかし、それは感情だけのものではありません。「知れ」とあるように、それは知性も伴ったものです。神がどのようなお方であるか、わたしたちが何者であるかを神の言葉によって知ることが大切です。礼拝では、神の言葉によって、今まで知らなかったことを学び、あやふやだったことを整理し、良く知っていることであっても、それを再確認して、さらに神に近づくのです。神を知るにつれて喜びが増し、神に近づくにつれて感謝があふれてくるのです。

 3節では「主が、私たちを造られた」とあります。神に造られたことを感謝するのです。「あなたのみ手はわたしを造り、わたしを形造りました」(詩篇119:73)「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」(詩篇139:13)という言葉もあります。人は偶然、生まれてきたのではありません。神によって造られ、生かされているのです。そうなら、わたしたちの人生には目的があり意味があるはずです。そのことが分かるだけでも、大きな感謝です。

 しかし、「造られた」という言葉には、それ以上の意味があります。これは、神の救いを表わしています。神はイエス・キリストを信じる者を聖霊によって生まれ変わらせ、新しく造り直してくださいます。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ2:10)とある通りです。聖霊によって生まれ変わった者は、聖霊が引き続いて自分を形作り続けておられることを日々に体験します。その体験によって「主が、私たちを造られた」と言って、神に感謝することができるのです。

 次に、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」とあります。神のものとされた感謝が歌われています。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」詩篇23篇に歌われているように、もともと遊牧民であったユダヤの人々は、神を羊飼いに、自分たちを羊になぞらえました。主イエスは「わたしはよい羊飼いである」(ヨハネ10:11)とおっしゃって、ご自分を信じ、ご自分に従う者たちの羊飼いとなってくださいました。ですから、新約時代の信仰者たちもまた「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」と言って神に感謝することができるのです。

 羊飼いは羊を連れて野山を歩き、羊は羊飼いにどこにでもついていきます。羊は自分では草や水のあるところを見つけることができないからです。夜になると、羊飼いは石で作った囲いの中に羊を入れ、自分は囲いの入り口に座って、そこで羊と一緒に眠ります。羊を狙う動物を防ぐためです。羊飼い自身が門になるのです。主イエスが「わたしは門である」(ヨハネ10:9)というのはそのことを指しています。たとえ羊が何百匹いようと、羊飼いは羊の一匹一匹を知っています。主イエスは、羊飼いは百匹の羊のうち一匹でもいなくなったら、その一匹を見つけ出すまで捜し求めると言われました。聖アウグスチヌスは「神は、わたしたちひとりびとりを、たったひとりであるかのようにして愛してくださる」と言いました。羊飼いである主イエスは、そのようにわたしたちを守り、導き、愛してくだるのです。わたしたちは主イエスに守られ、導かれ、愛されているのです。

 皆さんはこの愛の主を信じていますか。主とのまじわりを持っていますか。このように神と主イエスとの関係を持つことは、どんなに多くの友だちを持つことよりも、人々から認められることよりも素晴らしいことです。この世のどんなものを持っていても、神から「あなたはわたしのもの」と言っていただき、神に向かって「わたしはあなたのものです」と答えることができなければ、人は本当の満足も平安も得ることはできません。主イエス・キリストによって「主のもの、主の民、その牧場の羊」とされたことを、なによりも感謝しましょう。

 神に造られ、救われたこと、また、わたしたちが神のものとされたこと、それが3節にある感謝の理由でしたが、もうひとつの理由が5節にあります。「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」神の「いつくしみ、恵み、真実」が感謝の理由です。原語では「いつくしみ」は「善」、「恵み」は「約束に忠実であること」、「真実」は「アーメン」のもとになった言葉が使われています。どれも、神の変わらない愛を示す言葉です。自分の人生をふりかえるなら、誰もが、神のいつくしみ、恵み、そして真実を発見することができるはずです。世の中のものはすべて変わります。人間の愛もいつかは冷えていきます。わたしたちも、いつどんなときでも神に対して真実であったわけではありませんでした。しかし、神の真実は変わることはありませんでした。

 「二千年前のイエスの十字架が、今のわたしたちにとってどんな意味があるのですか」という質問をよく耳にします。わたしはその質問にこう答えたいのです。「神の愛は、二千年たとうが、三千年たとうが変わることはありません。神は人間を十字架の愛で二千年間も愛し続けてくださっているのです。」神の変わらない愛が自分に注がれていることを知るなら、誰も「神に感謝することなどない」とは言えないのです。神の変わらない愛を心から感謝しましょう。

 (祈り)

 愛と恵みに満ちた神さま、わたしたちの感謝の源は、あなたご自身です。あなたのいつくしみ、恵み、真実のゆえにあなたに感謝をささげます。あなたは、その愛を、イエス・キリストによって、わたしたちに示してくださったばかりでなく、聖霊によって分け与えてくださいました。そして、イエス・キリストにあって、すべての事を感謝できるようにしてくださいました。そのことを感謝し、主イエスのお名前で祈ります。

11/15/2015