主に感謝

詩篇100

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100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 教会のカレンダー(教会暦)はアドベントからはじまり「王なるキリスト主日」で終わります。ヨーロッパやアメリカでは長い間教会暦が人々の生活のペースを作っていましたが、社会が非キリスト教化するにつれて教会暦から離れるようになりました。バレンタイン・デー、イースター、クリスマスはかろうじて残っていますが、アドベント、エピファニー、レント、昇天日などは忘れられています。アメリカでは、ペンテコステはメモリアル・デーと重なることが多いので、ほとんど祝われることがありません。ペンテコステは教会の誕生日なのに、教会がそれを祝わなくなっているのは、何かおかしいように思いました。それで、私たちの教会では2002年のアドベントから礼拝プログラムに教会暦を書き込むようにしました。教会暦の各シーズンは赤・白・紫・緑の四つの典礼色で区分けされていますので、私は教会暦にそったストールを着けて、皆さんにすこしでも教会暦を感じ取ってもらおうとしてきました。また、レントには40日の特別なデボーションの時を持ち、グッドフライデーの礼拝も守ってきました。2002年のアドベントから、もう七年も経っていますので、教会暦は皆さんの生活の中に根付くようになったかと思います。

 教会暦はたんなる歴史の遺産、過去の習慣ではありません。それはテモテ第二2:8に「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」とあるように、一年を通してイエス・キリストを覚えているためのものです。私たちは教会暦によって、私たちの人生がキリストの降誕、宣教、受難、復活、昇天に結びついていることを教えられ、この世に流されることなく天の御国を目指すことができるようになるのです。

 今日は教会暦最後の日曜日で「王なるキリスト主日」です。キリストが「王の王、主の主」であり、やがて再び、この世に来てくださることを覚える日です。それで、きょうの典礼色にはキリストの王としての栄光を表わす「白」が使われているのです。この日、私たちは、キリストが王であることをもういちど思い起こし、王であるお方にふさわしい礼拝をささげたいと思います。

 一、すべての人の王

 詩篇100篇から、キリストは「すべての人の王」であり、また「教会の主」であることを学びましょう。

 1節に「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。」とあります。この「全地よ。」ということばは、キリストが世界中すべての人の王であると宣言していることばです。キリストは「すべての人の王」です。

 ピリピ2:6ー11にこうあります。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ここで「キリストは…ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」とあるのは、クリスマスの出来事をさしています。あの日、王の王、主の主、神であるお方が私たちと少しも変わらない人間になられたのです。キリストが人となられたことは「これ以上のへりくだりはない。」と言われるほどのことで、キリストが人となられたことはその後にも先にもないない特別な出来事です。キリストが人となられなければ、私たちに神を示すものは他になく、私たちを罪から救うものは何一つなくなるからです。来週からのアドベントではキリストが人となられたことがどんなに重大なことかを深く心に留めたいと思います。

 次の「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」というのはグッドフライデーに起こったことです。神の御子が人となられたのは、私たちの罪の身代わりとなって十字架の苦しみを受け、ご自分を罪の赦しのためのいけにえとしてささげるためだったのです。

 続く「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」は、イースターと昇天日に起こりました。キリストは復活し、昇天し、すべてのものの上に立つお方として天の王座に座しておられます。イエスは復活と昇天によってはじめてキリストになり、神の子になった、主となり、王となったと誤解している人がありますが、そうではありません。イエスはもとからキリストであり、神の子であり、主であり、王です。人間の救いのために、その王座から離れ、王であるお方がしもべとなられたのです。聖なる神が罪びととなってくださったのです。ですから、イエスは復活と昇天によってはじめて王になったのでなく、復活と昇天によって、本来の姿に戻られたのです。

 キリストはもういちど世においでにると約束されました。最初、世においでになったときは、しもべの姿でしたが、再臨の時には、王の王、主の主として、栄光のうちにおいでになります。そのとき、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白」するようになるでしょう。聖書が「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべて」と言っているのですから、これはほんとうに「すべて」です。ひとりの例外もなく、キリストはすべての人から、王として認められ、あがめられるべきお方なのです。

 それが小さな国であれ、大きな国であれ、民主主義の国であれ、社会主義の国であれ、また、宗教を否定する国であれ、宗教が支配する国であれ、キリストは世界中のすべての国を治めておられる王です。どの人も、どこかの国に、その国の国民として生まれます。どこの国の国民としても生まれない、無国籍の人は誰もいないでしょう。キリストが世界中のすべての国の王であるなら、どの人も生まれたときから、最高の王であるキリストの支配のもとにあるのです。誰もが自分の国に忠誠を誓うように、すべての人には王であるキリストへの忠誠が求められているのです。

 神は、おひとりですべてを支配しておられますが、決して冷酷な独裁者ではなく、王であるキリストは天と地のいっさいの権威を持っておられますが、わがままな暴君ではありません。ご自分の民を優しく導いてくださるお方です。神は人間に「良心」と「自由」な意志を与えておられ、キリストは私たちを無理矢理従わせるようなことはなさいません。しかし、神は、私たちの「良心」がキリストの声を聞き分けられるようになり、与えられた「自由」をキリストに従うために使うことを忍耐深く待っておられるのです。キリストはあらゆる国々の上に立つお方、すべての人の王であって、すべての国々のすべての人々に命令し、強制する権限を持っておられますが、なお、私たちが、自分の「良心」でキリストのことばを受け止め、自分の「自由」意志でそれを行うことを願っておられるのです。「良心」は「良い心」と書きますが、実際は中立的なもので、良いものに従えば「良く」もなり、悪いものに従えば「悪く」もなります。「良心」は絶えず、神のことばに聞き従うのでなければ、判断を誤ります。「良心」は絶対基準ではありませんし、人間の「自由」が「神」なのではありません。アメリカの建国の父たちは、「民主主義は神への信仰に基づいている。」と言いました。彼らは「良心」や「自由」を強調しましたが、同時にそれが神への信仰なしには成り立たないことも知っていました。キリストのことばに聞く「良心」を持つこと、王であるキリストに従う「自由」を働かせること、それがキリストを王とするすべての人のつとめなのです。

 二、教会の主

 キリストはすべての人の王です。最終的には、すべての口が「イエス・キリストは主である。」と告白するようになるでしょう。しかし、「イエス・キリストは主である。」という告白には二種類あります。ひとつは、「イエスさま。あなたこそキリスト、私の主です。」という信仰と愛とをこめた告白で、もうひとつは、イエス・キリストを否定し続けてきた者たち、キリストに従うことを拒み続けてきた者たちが、悔しい思いで、歯ぎしりしながら「やはり、イエスはキリスト、主であったのか。」と言う告白です。この二番目の告白はイエスに出会った悪霊たちがイエスにむかって「あなたは神の子です。」「神の聖者です。」と叫んだのと同じです。「イエスは主である」ということが知識だけで終わっていて、救いに結びついていないのです。キリストが王であり、主であることを不承不承認めたからといって、そこに救いがあるわけではありません。ヤコブは言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」(ヤコブ2:19)単なる知識は人を救わないのです。「神はおひとりである。」という知識が、自分の人生と生活で神を第一のお方にするという信仰にならなければ、そこに救いはないのです。私たちは「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)というパワフルなことばを知り、信じています。しかし、ここで「口で告白する」というのが、決して口先だけのものでないことは明らかです。主イエスは「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と教えられました。

 「自分をしもべとしないかぎり、キリストを主とすることはできない。」ということばがあるように、クリスチャンは、キリストのしもべとなるという誓いを立てて、キリストを自分の人生の主として受け入れました。しかし、どんな状況でも、常に変わらずイエス・キリストを「主」とし、主イエスに従い通すことができるかというと、そういうわけにはいかないことは、誰もが体験によって知っています。落ち込んでしまって主を見失うこともありますし、一時的な感情に支配されたり、誘惑に負けることもあります。しかし、真実なクリスチャンは、そうした中でも、キリストが主であることを否定することはありません。悔い改めと信仰によって、キリストをもういちど王座に迎えなおし、イエス・キリストを主とする生活を立て直していきます。王であるキリストをあがめて生きようとするのです。そのことができるために熱心に神に願い求めるのです。

 詩篇100:3の「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」ということばは、じつにそうしたクリスチャンへの呼びかけのことばです。神はおひとりであり、すべての人の神です。しかし、同時に、神は「わたしはあなたの神だ。」と言って私たちひとりびとりとパーソナルな関係を持とうとしておられます。クリスチャンとは、この神を「私の神」として受け入れ「主の民」となった人々のことです。「知れ。主こそ神。…私たちは主のもの、主の民」というのは、神が「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と言われた、その愛の契約を、礼拝のたびにリニューアルしていくことへの呼びかけなのです。

 「主が、私たちを造られた。」というのは、最初の創造のことだけではなく、「再創造」を意味しています。神は、罪の中にあった者をキリストにあって新しく造り変え、聖霊によって生み出してくださいました。

 「私たちは主のもの」というのは、キリストの贖いによって罪と死と滅びの中から買い取られ、聖霊の証印によってキリストのものとされたということを表しています。

 そして、「私たちは…その牧場の羊である」というのは、キリストを信じる者たちが、教会というキリストの牧場の中で、大牧者キリストによって守られ、養われ、導かれていることを言っています。キリストは全世界の王です。主です。しかし、世界は、その事実を知りません。キリストを王としてあがめていませんし、主であるキリストに従ってはいません。そこで、キリストはご自分が王であり、主であることを人々に知らせるため、この世から教会を選びました。教会の主であるキリストにしもべとして主に仕えることによって、キリストのからだである教会を通してかしらであるキリストにつながることによって、そして、従順な羊となって大牧者であるキリストに従うことによって、教会はこの世に、キリストが王であり、主であることを知らせるのです。キリストを王とし、主とする人生がどんなに幸いなものであるかをあかしするのです。教会はそのためにキリストがお建てになったものなのです。このようにして、キリストはひとりでも多くの人が、ご自分の牧場の中に入り、ついには「ひとりの牧者、ひとつの羊の群れ」となることを願っておられるのです。

 キリストを王とし、主とするとき、私たちの心に本物の喜びと感謝がわき上がってきます。その喜びと感謝は賛美となって王なるキリストにささげられます。そして、私たちの心は、主のいつくしみ、恵み、真実を思って満たされるのです。王なるキリスト主日のこの日、私たちの目を王なるキリストに向けましょう。このお方を人生の主として、また教会の主としてお迎えしましょう。もし、王なるキリストが私たちの日々の生活で第一のお方となっていなかったなら、そのことを謙虚に悔い改めて、新しい出発をしましょう。主は、信頼する者を決してお見捨てになりません。どんな時でも導いてくださいます。その導きに従いましょう。詩篇100編を今日の応答の祈りとして、主にささげましょう。

 (祈り)

 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

11/22/2009