感謝の賛歌

詩篇100

オーディオファイルを再生できません
100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。

 みなさんは、先週のサンクスギヴィング・デーをどう過ごしましたか。私たちは、ある家庭のサンクスギヴィング・デナーに招かれました。食事をいただきながら、テーブルを囲んだ人たちがそれぞれ、「この一年、神さまがしてくださったことのなかで一番感謝だったこと」を話しました。私は、感謝したいことがたくさんあったので、一つだけでなく、三つも話してしまいました。皆さんも、サンクスギヴィング・デーにはたくさんのことを神に感謝したことと思います。もし、感謝することを見つけられなかったなら、聖書を開くとよいでしょう。聖書、とくに詩篇を読むと、神に感謝すべきことをたくさん見つけることができます。

 詩篇には神への感謝を歌ったものがたくさんありますが、「感謝の賛歌」というタイトルがついているのは、この詩篇だけです。この詩篇は、古くから、ことあるごとに歌われてきて、"Old Hundreth" の愛称がついています。「いにしえの賛美100番」といえば、詩篇100篇のことでした。この詩篇は神への感謝を教えていますが、何を神に感謝するよう教えているのでしょうか。私はこの詩篇から、感謝すべき三つのことを教えられました。

 一、神との関係

 その第一は、神との関係です。この詩篇は、私たちに「喜びの声をあげよ。」(1節)と言い、「喜びをもって主に仕えよ。」(2節)と呼びかけています。ここで「主に仕える」というのは、主を礼拝することを意味しています。礼拝は、私たちの義務ですが、それは決して重苦しい義務ではなく、喜びの義務です。いやいやながら、ぼそぼそとするのは本当の礼拝ではありません。私たちは喜びの声をあげて神を礼拝するのです。しかし、喜びの声をあげるというのは、賑やかな音楽で景気づけることとは違います。礼拝は、たんに自分を慰めたり、元気づけたりする儀式ではないのです。礼拝は、私たちの感情に訴えるだけのものでもありません。聖書が「知れ。主こそ神。」(3節)と言っているように、礼拝は、私たちに知性を求めます。知性と言っても、それは、たんなる頭脳の知識ではありません。人格と人格のまじわりの中で神を知ることが礼拝なのです。詩篇46:11は「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)と言っています。私たちが心に深い慰めを受け、身も心も強められるのは、礼拝で神を知ることによってなのです。

 そして、神を知ることによって、私たちは自分を知ることができます。私は、小学生のときに重い病気にかかり、入院こそしませんでしたが、学校を丸一年休んで自宅療養をしていました。中学生になっても、体育の時間は見学のことが多く、学校を早く終わって病院に通うこともありました。高校生になっても、時々熱を出して何日か学校を休むことがありました。そんな時、自分はこのまま死んでしまったらどうなるのだろう。たとえ、長生きしても最後には死んでしまうのだったら、自分は何のための生まれてきたのだろうと考えたりしていました。そんな中でキリスト教のラジオ番組を耳にしました。番組の最後に「興味のある人には小冊子を送ります。」というアナウンスメントが流れました。私はハガキを書いて、その本を送ってもらいました。それは今も大切に持っていますが、そこには、人間は偶然に存在するのでなく、神が造ってくださったもので、すべての人には生きる意味と目的があると書かれていました。私は、それを読み、また聖書の中に、「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。」(詩篇119:73)や「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13)などということばを発見して、とてもうれしくなりました。「私はひとりぽっちではない。私には、私の造り主がおられる。生きることには意味がある。」ということが分かったからです。

 私は、それから聖書を勉強し、教会に行き、イエスを信じました。そして、賛美歌や聖歌をたくさん覚えました。その中でもよく歌ったのは「牧主(かいぬし)わが主よ」(賛美歌354)でした。神が私の造り主であるだけでなく、イエスが私の羊飼いとなってくださったのです。それは、歌わずにはおれない大きな喜びでした。ユダヤの人々にとって羊飼いと羊ほど親しい関係はありませんでした。羊飼いは羊を連れて野山を歩き、羊は羊飼いにどこにでもついていきます。羊は自分では草や水のあるところを見つけることができないからです。夜になると、羊飼いは石で造られた囲いの中に羊を入れ、自分は囲いの入り口に座って、そこで羊と一緒に眠ります。羊を狙う動物を防ぐためです。羊飼いは羊を守るために命をかけます。羊飼いは羊の一匹一匹を知り、羊は羊飼いの声を知っています。主イエスは私の羊飼いとなって私を守り、導き、愛してくだる、私は主イエスに守られ、導かれ、愛されているのです。それは、どんなことにもまさる私の喜びとなり、感謝となりました。「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」とあるように、神との関係を持っていることが、どんなに多くの友だちを持つことや、みんなの人気者になることよりも素晴らしいことだということが分かりました。この世のどんなものを持っていても、神を持っていないことほど惨めなことはありません。神から「あなたはわたしのもの」と言っていただき、神に向かって「わたしはあなたのものです。」と答えることができなければ、人は本当の満足も平安も得ることはできないのです。主イエスによって「主のもの、主の民、その牧場の羊」とされた私たちは、この幸いをまず第一に感謝しようではありませんか。 

 二、神のご臨在

 第二は、神のご臨在です。4節は「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」と言って、礼拝をささげる人たちの姿を描いています。神を礼拝する人々は、神殿の門をくぐり、神殿の庭に入ります。では、それからどこに向かうのでしょうか。祭壇です。祭壇は、そこで犠牲をささげ罪の赦しを願うところです。神は心からの悔い改めをもって祈る者に罪の赦しと平安と和解を与えてくださいます。祭壇は、罪の赦し、神との平和、そしてなによりも、神の臨在の象徴です。人々は祭壇に近づき、神の臨在に触れ、神への感謝が最高潮に達するのです。

 新約時代の祭壇は、聖餐のテーブルです。旧約時代に捧げられた動物の犠牲は、主イエスが神の子羊となって十字架の上でご自分をささげられることを予告するものでした。イエスの十字架の後は、どんな動物の犠牲も必要ありません。新約の時代には、パンとブドウ酒をささげて、主イエスの十字架の犠牲を表わすのです。聖餐を定められたとき、イエスは弟子たちにパンを与え「これはわたしのからだである。」と言われ、ブドウ酒を与え「これはわたしの血である。」と言われました。私たちは聖餐でパンを手と杯を、目で見、手で触れ、そしてこの舌で味わいます。そのように、私たちが目で見て、手で触れ、味わうことができるほどに近く、主イエスは私たちとともにいてくださるのです。主イエスのほうから、「これはわたしのからだである。」「これはわたしの血である。」と言って、ご自分を私たちに差し出し、私たちに触れてくださるのです。私たちも、私たちの信仰を差し出すとき、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)という約束が実現し、私たちは主の臨在に触れることができるのです。

 聖餐は "Eucharist" と言われます。これは、ギリシャ語の「感謝」から来た言葉です。それは、最初の聖餐のとき、主イエスが「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えた」(ルカ22:19)ことから来ています。聖餐は「感謝の礼典」です。何を感謝するのでしょうか。主の贖いに感謝し、贖い主のご臨在を感謝するのです。主が私たちとともにおられることを喜び、祝うのです。

 クリスチャンにとって主の臨在は何もまさる喜びであり感謝です。「臨在」は英語で "presence" と言います。2節の「喜び歌いつつ御前に来たれ。」は、英語では "Come into his presence with singing!" と訳されています。教会で一番大切なのは、この "presence" です。教会には、さまざまな "program"(活動) があります。それを推し進めていくための "procedure"(組織)と "people"(人材)が必要です。しかし、そうしたものが先に立ってしまい、神の "presence"(臨在)ではなく、単に人間の "pleasure"(楽しみ)だけが求められるようになってはいけないと思います。"Come into his presence!" と言われているように、礼拝する私たちが門をくぐり、庭に入り、そして向かうところは主の臨在です。クリスチャンひとりびとりが、主の臨在を求め、体験し、それを喜びとするとき、教会は、主の臨在を示すところとなることができます。そして、そこから、わたしたちひとりびとりに、また教会全体に大きな感謝が湧き上がるのです。

 三、神のご性質

 詩篇100篇が感謝するように教えている第三のことは、神のご性質です。5節は「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。」と言って、神の豊かなご性質を感謝しています。もし、神がただ全知全能の支配者、正義の審判者であるだけなら、「知れ。主こそ神。」と言われても、そのような神を知ることは恐ろしいだけです。"Come into his presence." と言われても、神の臨在が恐怖になってしまい、神に近づくことができなくなります。しかし、神は、いつくしみ深いお方、恵み深いお方、また真実なお方です。悪をお裁きになりますが、心から悔い改める者を赦してくださるお方です。罪を憎まれますが、救いを求める罪人をあわれんでくださるお方です。神はどんな汚れからも離れたきよいお方ですが、きよめられたいと願う者に手を差し伸ばしてくださるお方です。

 イエスは、人となられた神です。私たちはイエスのうちに、神のいつくしみ、恵み、そして真実を見ることができます。私がはじめて聖書を読んだとき、創世記から読みはじめましたが、レビ記に来た時、難しく感じて、旧約の残りをスキップして、新約に飛び、マタイの福音書を読みはじめました。マタイの福音書の5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるところで、高校の教科書にもそこからの引用があったので、難しくは感じませんでしたが、「山上の説教」を読めば読むほど、自分はなんと汚い心を持った人間なのだろうと、自分の罪を示されました。「山上の説教」に続いて、8章にイエスがらい病人をきよめられたことが書かれていました。私は、そのらい病人は自分のことだと思いました。私も「罪」という病をもっていることが示されました。そして、イエスがそのらい病人に手を差し伸ばしてらい病をきよめられたことにとても感動しました。教会に一度も行ったことのない高校生、浄土真宗の信徒の家の子供が、はじめて聖書を読んで、イエスのなさった奇跡を何の抵抗もなく受け入れることができたのは、今になって考えてみるととても不思議です。しかし、その時の私にとって、らい病人に手を差し伸べたイエスのあわれみのほうが、らい病がいやされるという奇跡よりももっと衝撃的でした。私にとって、人が神の恵みできよめられるという奇跡のほうが、病気がいやされるという奇跡よりももっと大きな奇跡だったのです。「汚れた人間を受け入れてくださる神に、奇跡ができるのは当然だ。」と思ったのです。そして、イエスは汚れた人間をきよめるため、十字架でそのきよい血潮を流されたことを知りました。神のいつくしみ、恵み、真実は、たんに言葉だけのもの、概念だけのものではありません。それは、イエスのご生涯の中に形をとって現れているのです。

 私は、それまで愛の神を知りませんでした。私が教えられてきた神は、悪いことをしたら罰を与える神でした。仏の慈悲ということも聞きましたが、仏が私を愛してくれているという証拠はどこにも見つけることはできませんでした。しかし、イエス・キリストを知ったとき、その十字架と復活について学んだとき、ここに、私を愛してくださる神がおられる、十字架が神の愛の証拠なのだということが分かりました。それからの私は、もっと神を知りたい、もっとイエスを知りたいという願いで心がいっぱいになりました。そして、不十分な歩みでしたが、イエスに従ってきました。いいえ、イエスに支えられ、導かれてきました。バプテスマを受けて四十年以上になりますが、ふりかえって見ると、私の人生のすべてが神のいつくしみ、恵み、そして真実で成り立っていることが分かります。そして何より素晴らしいことは、この神の真実が変わらないことです。世の中のものはすべて変わります。人間の愛もいつかは冷えていきます。私は神にたいしていつどんなときも真実ではありませんでした。しかし、神の私への真実は変わりませんでした。「二千年前のイエスの十字架が、今の私たちにとってどんな意味があるのですか。」という質問をよく耳にします。私はその質問にこう答えたたいのです。「神の愛は、二千年たとうが、三千年たとうが、変わることはありません。神は人間を十字架の愛で二千年間も愛し続けてくださっているのです。今、その愛を受け入れてください。」

 私たちは神に感謝します。神が私たちを神との愛の関係の中に入れてくださったことを、神が私たちと共にいてくださることを、そして、神が、いつくしみと、恵みと、真実の神であることを。続く聖餐で、神との関係を確認し、神のご臨在を体験し、そして、神の豊かなご性質を味わいましょう。聖餐を感謝の礼典として祝いましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは、いつ、どこででも、感謝をささげるようにと、私たちに命じてくださいました。待降節を迎える前のこの礼拝で、私たちはパンとブドウ酒とともに私たちのこの一年の感謝をささげようとしています。大地の恵み、労働の報いであるパンとブドウ酒とともに、主イエスの十字架の愛への私たちの感謝と賛美を受け取ってください。聖餐の中にあなたのご臨在を表してください。昨日も、今日も、とこしえまでも変わることのない、主イエスのお名前で祈ります。

11/25/2007