幸いな人生

詩篇1

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1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

 今日は「敬老サンデー」で、75歳以上の方々の長寿と健康を祝います。私たちの教会には90歳以上の方々が、元気で礼拝を守っています。そうした方々の顔を見るとき、神の恵みを実感できます。神の恵みを大いに感謝し、私たちも人生の先輩、信仰の先輩にならって、良き人生と真実な信仰を求めていきましょう。

 一、祝福された人生

 ところで、「良き人生」とはどういう人生でしょうか。サラリーやベネフィットの良い仕事を見つけ、リタイアメントに備えてお金を蓄え、リタイアメントの後、お金の心配なく暮らすことでしょうか。お金の心配がなくても、健康の心配があると「良き人生」とは言えません。しかし、大きな病気もせずに毎日を過せたら、それが「良き人生」になるのでしょうか。お金があり健康でも、家族に不和があれば、それは悩みの種になります。では、家族にいさかいがなく、孫たちの成長をながめて喜んでいられたら、それが「良き人生」なのでしょうか。お金と健康と家族の三つのものに揃って恵まれていることは人生では多くはありません。健康であってもお金のことで心配したり、お金の心配がなくても家族のことで心配したりするのが普通のことだと思います。たとえ、お金の心配がなく、大きな病気もせず、家族に不和がなかったとしても、それだけで人の心は満たされません。聖アウグスティヌスが言っているように、人は神のかたちに造られ、人のたましいには、神ご自身でなければ満たすことのできない空洞があるのです。「良き人生」とは、神によってその空洞を満たしていただいている人生、つまり神の祝福を求め、それを受けている人生です。

 詩篇第1篇は「幸いなことよ。」ということばで始まっていますが、この「幸い」は「ハッピー」という意味ではありません。「祝福」という意味です。英語の happy は happen という言葉から来ています。これは、うれしいことがあったからしあわせな気分になる、楽しいことがあったから喜ぶといった場合に使う言葉です。Happy というのは環境に支配される「幸せ」です。しかし、聖書が「幸いなことよ。」という場合の「幸い」は Happy ではなく blessed という言葉が使われています。「祝福されている」という意味です。主イエスは、山上の説教で「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。柔和な者は幸いです。義に飢え渇いている者は幸いです。あわれみ深い者は幸いです。心のきよい者は幸いです。平和をつくる者は幸いです。義のために迫害されている者は幸いです。」と八つの幸いについて話しておられます。この「幸い」でも happy ではなく blessed、「祝福されている」という言葉が使われています。貧しいこと、悲しむこと、飢え渇いていること、迫害されることは、どんなに考えても happy なことではありません。この世では柔和な人は踏みつけられ、心の優しい人はおいてきぼりにされます。心のきよい人にとってこの世は住みにくいところです。しかし、そうした人が幸いであるといわれているのは、神が与えてくださる「幸い」が環境に左右されない幸いだからです。彼らは、神の恵みによってたましいの深い求めが満たされるのです。

 年齢を重ねると、当然体力も、気力も、知力も衰えます。以前できたことができなくなって寂しい思いやくやしい思いもすることでしょう。もし、私たちが人生で happy であることだけを追い求めているなら、年をとって happy でなくなるときが必ずやってくるのです。お金にも、健康にも、家族にもすべてに恵まれているというときは、誰の人生でもそんなに長くは続かない、束の間のことです。こどもがちいさいうちは忙しくて大変で、こどもが早く大きくなってくれないかと思ったりするものですが、実は、こどもが小さいときが家庭的には一番良い時かもしれません。ある母親が「こどもがちいさくてかわいい時が最高だったわ。」と言っていました。こどもたちが巣立って、にぎやかだった家庭がひっそりと静まりかえっていくと、ほんとうにそうだと思えるようになることでしょう。もし、私たちが、自分たちを取り巻く状況にだけ「しあわせ」を求めるとしたら、どの年代でも、それを得ることはできないでしょう。年を取れば取るほど「しあわせ」が遠ざかっていくかもしれません。しかし、聖書は、年齢を重ねれば重ねるほど増し加わっていく「幸い」を教えています。神の恵みがたましいに注がれ、満たされていく幸い、神からの祝福です。

 二、みことばを思う人生

 では、そのような祝福はどうしたら、私たちのものとなるのでしょうか。

 詩篇は「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と言っています。「主のおしえ」とは神のことばのことです。神は、神のことばによって人のたましいに恵みを注ぎ、天からの祝福を与えてくださるのです。「口ずさむ」というのは、神のことばを読むこと、それを思いみることを意味しています。現代では本を読むときは黙読しますが、古代には、声に出して音読しました。ですから「昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」というのは、「神のことばを愛して、時間があればそれを読む。」という意味になります。日本基督神学校の元校長・下川友也先生は、一日に五時間以上聖書を読み、二週間で全巻を読んでしまうという「聖書通読」ならぬ「聖書猛読」で知られている牧師で、『聖書通読にチャレンジ』という本を出しています。先生は聖書千回通読にチャレンジしているそうで、信号待ちの少しの時間でも聖書を読むのだそうです。私たちはそんなにはできなくても、自分のペースでいいですから、せめて生涯に何度かは聖書を初めから終わりまできちんと読み通せたらと思います。それは必ず大きな祝福となることでしょう。教会では2年間で聖書を全部読むプログラムがあり、毎月の最後の週の礼拝プログラムには次の月の通読用のしおりが入ります。それを聖書に挟んでおいて、聖書を読み進んでください。

 「口ずさむ」という言葉には、「思いみる」という意味もあります。口語訳では「昼も夜もそのおきてを思う。」と訳されており、英語の聖書でも And in His law he meditates day and night. となっています。meditate というのは日本語で「黙想する」ということです。ただ聖書を読み、学ぶというのでなく、それを深く思いみて自分の心の中で消化するということです。私は、聖書を学びはじめて40年になりますが、最初は聖書を学問的に研究することに興味があり、そうしてきました。聖書の言葉の意味を調べ、文法を分析し、時代背景や文学スタイルを考え、前後の文脈や聖書全体の教えと比較して聖書を研究してきました。そうしたことは大切なことで、今も続けていますが、最近は、聖書のことばを学ぶというだけでなく、そのことばに込められた著者の心を汲み取ることに心を向けています。そして、ようやくそうしたことができるようになってきたかなと思っています。以前は、コリント人への手紙第二は、コリント人への手紙第一にくらべて分かりにくい聖書でした。コリント人への手紙第一ではそれが書かれた経緯が明らかで、手紙全体がアウトラインのはっきりした構成になっていますが、コリント人への手紙第二のほうは、それが書かれた状況について不明なことも多く、今まで語られていた主題が突然変わって、別のほうに話が進んでいくような箇所が多くあります。そのため、コリント人への手紙第二は、パウロの何通かの手紙がまざっているのではないかと推測する学者もあるほどです。コリント人への手紙第二が、私にとって「分かりにく」かったのはそれを分析して理解しようとしていたからでした。しかし、数年前、JOD の聖書の学びのために教材を作ったときには、この手紙がとてもよく分かり、教材を準備しながら、私自身が感動することがしばしばでした。それは、コリント人への手紙を分析する手がかりを見つけたからではなく、コリント人への手紙第二を書いた使徒パウロの心、彼の嘆きや、心配、また喜びを理解できるようになったからです。「ことば」というものは、それを使う人の思いや心を伝えるものです。いくら「ことば」の意味を調べ、分析しても、その文章を書いた人の思いを汲み取ることができなかったら「ことば」の研究も役に立たなくなります。政治家のディベートなどでは、人のことばの端をつかまえて揚げ足をとるようなことがありますが、聖書に対して、その書き手である神の心を受け取ろうとせずに、聖書の語句の分析だけで終わるような聖書の読み方をしてしまってはならないと思います。

 私はこの夏参加した「祈りのリトリート」で、神のことばを黙想して自分の中に取り入れるというだけでなく、私がみことばの中に取り込まれていくということを習いました。スポンジが水の中に置かれるとスポンジが水を吸うのでなく、水のほうがスポンジの中に入っていくような体験をしました。これは私にとって大きな収穫でした。神のことばを深く思いみる、この作業がなければ、神のことばは知識として頭の中だけにとどまるだけです。頭にだけしかとどまっていないものは、年齢を重ねて、物忘れをするようになれば、やがて消え去っていきます。しかし、神のことばを、また、そこに表わされた神のお心をたましいの奥底でとらえているなら、心にみことばを心に宿しているなら、どんなに物忘れが進んでも、それは消え去ることはありません。コロサイ3:16は「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい。」と教えています。心に宿るみことば、それが、私たちを導き、慰め、力づけ、神の恵みを、祝福をもたらすのです。

 三、実を結ぶ人生

 「良き人生」とは、第一に、たとえそこにさまざまな困難や苦しみがあたとしても、神の祝福が留まる人生です。「良き人生」とは、第二に、神のみことばによって養われていく人生です。みことばが私たちの人生を満たし、神の祝福と恵みを運んでくるのです。そして、「良き人生」とは、第三に、実を結ぶ人生です。詩篇に「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。ここで、木は、幸いな人生を表わしています。「水路」はみことばです。幸いな人生はみことばを吸収して成長していくのです。「良き人生」はつねにみことばに養われていますので、詩篇92:14にあるように「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂げる」のです。

 そして、「良き人生」は、たんに葉をおい茂らせるだけでなく、「実」を結ぶのです。主イエスがいちじくの木をごらんになったとき、葉はおい茂っているのに実がなかったので、それを呪われたということが福音書に書いてあります(マタイ21:18-19)。いちじくはイスラエル、神の民を表わし、イエスがそこに実を求めたのは、イエスが神の民に信仰の実を求めておられるということを表わしています。かつてのイスラエルの人々は口先では神をあがめていました。しかし、その心は遠く神から離れ、彼らのことばは行いの伴わないものとなっていました。イエスは「ことば」という葉っぱだけでなく、「行い」という実をも求められたのです。現代の人々は、あれをしてこれをして、このプロジェクトを完成させ、このプランを実現させと、忙しく働き回っています。しかし、主は、活動の葉よりも、私たちの人格のうちに結ばれる「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)という実を求めておられます。葉だけをおい茂らせていても、実を結ぶことがなければ、それは「良き人生」ではありません。バプテスマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイ3:8)と叫び、主イエスは「みことばを聞いてそれを悟る者は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。」(マタイ13:23)「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)と言われました。実を結ばない人生は「良き人生」ではありません。

 しかし、実を結ぶということは、一朝一夕でできることではありません。「桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十三年」などということばがあるように、どんな果物でも、種をまいたらすぐに木になり、木になったらすぐに実がなると言うのではありません。信仰を持ったばかりの方はまだ苗のような状態です。イエス・キリストという土壌の中にしっかりと根付く必要があります。キリストのことばによって養われ、成長してはじめて実を結ぶことができるのです。詩篇に「時が来ると実がなり」とあるように、すべてに「時」があります。多くの木は、寒い冬に葉を落として死んだようになりますが、春には芽吹き、夏に葉を茂らせ、秋になって実を結びます。詩篇で歌われている実を結ぶ木は、年中花を咲かせ、年中実を実らせている木ではなく、冬の寒さ、夏の暑さに耐えて、秋に実を結ぶ木です。人生には「時」があります。私たちの人生はいつも「春」の時ばかりではありません。試練の冬、困難の夏を過ご差泣ければならないでしょう。しかし、それが私たちの人生に豊かな実を結ぶばせるのです。まだ若い人も、年配の方も、人生の実のりの時がかならず来ることを信じましょう。たとえ、地上でその実が見られなくても、真実な信仰者は天でその実を実らせることができます。

 「時がくれば」の「時」とは人生の総決算の日をも意味します。詩1:4に「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」とあります。神が私たちの人生のすべてをさばかれる時、 実りのない人生はもみがらのようにあつめられ、火で焼かれます。しかし、結んだ実は神に受け入れられ、報われます。どんなに真実に生きても、この世ではそれが認められなかったり、この時代に受け入れられないことがよくあります。しかし、だからと言って結んだ実が無駄になることはありません。神は隠れた実をも見て、知り、それを受け取ってくださいます。

 あるところで、こんなことばを見つけました。

Life is not measured by the number of breaths we take,
but by the moments that take our breath away.
人生はどれだけ数多くの息をしたかではなく、
息を引き取る時に量られるものである。
人生は単にその長さだけで量られるのではない、どんな動機で、何を目的に生きてきたかによって量られます。そのことを思い、心を引き締めて、どんな時でも、神のために実を結ぶ「良き人生」を生きようではありませんか。息をひきとる最後の時まで、そのことに励もうではありませんか。

 (祈り)

 恵み深い神さま、私たちの人生の先輩、また信仰の先輩がたに、「良き人生」を与えてくださり感謝します。私たちも彼らにみならい、神の祝福に生きる人生、みことばによって養われる人生、そして、実を結ぶ人生を送ることができるよう、助け、導いてください。キリストにつながる枝となって実を結ぶことができるために、キリストによってキリストのために実を結ぶ私たちとしてください。まことのぶどうの木、イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/21/2007