ふたつの願い

箴言30:7-9

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30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

 一、貪欲の戒め

 フランスにこんなお話があります。むかしむかし、町のはずれに、主人とおかみさんだけでやっている、小さな料理屋がありました。この夫婦は、特別、金持ちではありませんでしたが、毎日の食べるものには不自由せず、健康にもめぐまれて、幸せにくらしていました。

 ある日のこと、金ピカの服を着た、伯爵と伯爵夫人が、金の馬車に乗って、料理屋の前を通りました。それを見て、おかみさんが言いました。「あの人たちみたいに、わたしも一度でいいから、すてきなボウシをかぶり、耳かざりをして、馬車に乗ってみたいものだわ。」すると、主人も言いまました。「そうだな。何をするのにも、召使いに手つだってもらい、いばっていられたら、いうことはないさ。」こんなことを言っているうちに、二人には自分たちの生活が、急にみすぼらしく見えてきたのです。家の前を通る貴族を見るたびに、うらやましい気持ちがおこり、とたんに自分たちには、苦労ばかりしかないように思われてきたのです。

 おかみさんは、ため息をつきながらつぶやきました。「こういう時に仙女がいてくれたらねえ。仙女が魔法のつえをひとふりすれば、たちまち願いがかなうのだけど…」こういったとたん、家の中にサッと光がさしこんで、そこに仙女が現れました。仙女は言いました。「あなたたちの話は、みんな聞きました。もう、不平を言う必要はありません。願いごとを三つ、口でとなえなさい。注意をしておきますが、三つだけですよ。」仙女はそれだけいうと、スーッと消えました。

 主人とおかみさんは、しばらくポカンと、口をあけたままでしたが、やがて主人が、ハッとしていいました。「おいおい、おまえ、聞いたかい!」「ええ、たしかに聞きました。三つだけ、願いがかなうって。」最初は驚いていた二人に、だんだんうれしさがこみあげてきました。「願いごとは三つだけか。そうだな。一番はやっぱり、長生きできることだな。」「おまえさん、長生きしたって、働くばかりじゃつまらないよ。なんといっても、金持ちになることですよ。」「それもそうだ。大金持ちになりゃ、願いごとはなんでもかなうからなあ。」二人は、あれこれ考えましたが、すぐには三つの願いごとを思い浮かべることができませんでした。「ねえ、おまえさん、考えてたってはじまらないよ。急ぐことはないよ。ひと晩寝れば、いい知恵もうかぶだろうよ。」こうして二人は、いつものように仕事にとりかかりました。しかし、おかみさんも、主人も、三つの願いごとばかりが気にかかって、仕事がすすみませんでした。

 長い一日が終わって、夜になり、二人はだんろのそばに腰をおろしました。だんろの火はごうごうと燃え、あやしい光をなげかけていました。おかみさんは、だんろの赤い火につられて、思わずさけびました。「ああ、なんて美しい火だろう。この火で肉をあぶって食べたら、きっとおいしいだろうね。今夜はひとつ、一メートルもあるソーセージでも食べてみたいもんだわ。」おかみさんがそう言い終わったとたん、願いごとがかなって、大きなソーセージがバタンと、天井から落ちてきました。

 すると、主人がどなりました。「このまぬけ! おまえの食いしんぼうのおかげで、だいじな願いごとを使ってしまったじゃないか。こんなもの、おまえの鼻にでもぶらさげておけ!」主人がそう言い終るか、終わらないかのうちに、ソーセージはおかみさんの鼻にくっついてしまいました。あわててひっぱってみましたが、どうしてもとれません。おかみさんは、大声で泣き出してしまいました。

 それを見て、主人は言いました。「おまえのおかげで、だいじな願いごとをふたつもむだにしてしまった。さいごはやっぱり、大金持ちにしてほしいとお願いしようじゃないか。」おかみさんは足をバタバタさせて言いました。「おだまり! もうたくさんだ。最後の願いは、たったひとつ。どうぞ、このソーセージが鼻からはなれますように。」そのとたん、ソーセージは鼻から離れ、おかみさんはもとの顔にもどりました。それから二人は、二度と不平などいわず、今のくらしをたいせつにしたということです。

 この昔話は、貪欲を戒めるためのもので、分相応に生きるのが、いちばん幸せなことなのだということを教えています。

 聖書も貪欲を戒めています。十戒の最後は「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)という戒めです。イエスは「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)と教えておられます。

 オバマ大統領は、先月の就任演説で、greed(貪欲)という言葉を使いました。"Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some."(一部の人々の貪欲と無責任の結果、アメリカの経済は弱体化してしまった。)と言って、社会全体の利益を考えないで、自分たちの利益だけを考えてきた投資家や資本家の greed(貪欲)を非難しました。私たちは、オバマ大統領が非難した大資本家ではなく、ごく普通のつつましい生活をしていますので、「貪欲」と言われても、ピンと来ないのですが、私は、不平や不満ばかりで、感謝のないことも、形を変えた「貪欲」ではないかということに気がつきました。神が必要なものをすべて与えておられるのに、不平不満ばかりを口に出してしまうことが多くあります。不満ばかり言っていると、神が与えておられる恵みまで見失ってしまいますから、気をつけたいと思います。また、私たちは、すぐに、自分と人とを較べて、人の持っているものをうらやんだり、自分は駄目だと思い込んでしまいがちです。その結果、神が自分に与えておられる素晴らしい賜物に気付かず、それを無駄にしてしまう人も多くいるのです。私の知っているある人は、健康で、頭も良く、よく気の利く人で、外見の姿形も素敵な人でしたが、いつも「私はあの人のように外交的ではない。あの人のように上手な文章を書けない。」などと言って、劣等感に陥っていました。それでは、せっかくの人生を台無しにしてしまいます。

 イエス・キリストを信じる信仰は、「貪欲」や、それが姿を変えた「不平不満」、「劣等感」、あるいは「思い煩い」から、私たちを救ってくれます。使徒パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(テモテ第一6:6)と教えています。信仰は、神がどんなにか私たちを愛し、心にかけ、必要なものを与えてくださっているかに気付かせてくれます。そして、私たちの心を感謝で満たしてくれるのです。パウロは、何年もの間、信仰のゆえに牢獄につながれ、不自由な生活を強いられましたが、その心は豊かに満たされていました。パウロは、獄中から出した手紙の中で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:12)と書いています。お金や財産、地位や名誉を追い求めればきりがありません。どんなに多くのお金を儲け、財産を蓄えても、もっと持っている人がいますから、必要以上のお金や財産があっても、いつまでも満足することはできません。地位や名誉を求めても、必ず上には上がありますから、人の地位や名誉をうらやむことから解放されることはありません。そんなことよりも、信仰によって「満ち足りる心」を追い求めましょう。神の与えてくださったものを心から喜び、感謝し、それに満足することのできるそのような心こそ、どんな財産にもまさる、豊かな心の財産となるのです。

 二、貪欲の克服

 では、信仰によって与えられた「満ち足りる心」を保っていくには、どうしたら良いのでしょうか。聖書は、そのことについてさまざまなことを教えていますが、聖書には、「満ち足りた心を保つために、この祈りを祈りなさい。」と、そのものずばりの祈りが用意されています。それが、今朝の箇所、箴言30:7-9です。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
この祈りが何を教えているか、くわしく見てみましょう。

 まず、第一に、この祈りを祈った人は、自分の願いをしっかりと持っていました。たくさんの願いがある中で、二つの願いをきちんと持っていました。この人は、きっと日々の祈りを欠かさなかった人だろうと思います。いつも神の前に出て祈っている人は、神に何を願うべきかがわかって来るのです。最初に話したフランスの昔話に出てくる夫婦は、「願いを三つかなえてあげよう。」と言われて、何を願って良いかわかりませんでした。とりたてて願うこと、祈ることを持っていなかったのです。聖書に、神から、何でも願うものを与えようと言われた人がいます。ソロモンです。そのときソロモンは、イスラエルの王になったばかりでしたので、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」と願いました。ソロモンが長寿や富、敵のいのちを求めず、知恵の心を求め、判断力を求めたことは、神のみこころにかない、ソロモンは、知恵とともに長寿も富も加えて与えられました。こういうことを聖書で読むと、「神は、私にも、『何でも願うものをかなえてあげよう』と言ってくださらないだろうか。」と、誰しも思うものです。じつは、神は、私たちにも、同じように「何を願うのか。」と聞いていてくださっているのかもしれません。ところが、私たちの側に、「神よ、こうしてください。」という願いがしっかりと定まっていないので、神のみわざが私たちに届かないのかもしれません。さまざまな困難の中にある人に、聖書は、まず何よりも「祈りなさい。」と勧めており、それに従って忍耐強く祈っていくなら、道が開かれていくのですが、「願っても、祈ってもどうにもならない。」とあきらめてしまうなら、そこで道は閉ざされてしまいます。祈りのない人生は、なんとなく過ぎていくだけで終わります。神への祈りを絶やさないでいるとき、私たちは、必ず、祈るべきことを見出すことができるのです。

 第二に、この祈りを祈った人は、霊的なものを願い求めました。この人は二つのことを願いましたが、最初の願いは、「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。」という、内面的な願いでした。この人も、ソロモンと同じように、長寿や財産といったものでなく、もっと内面的なものを求めました。神が私たちの心に求められるのは「信実」、つまり、神への偽りのない信仰ですから、この人は、その信仰を妨げるような不信実や偽りを遠ざけてください。自分の心に偽りがなく、真理を愛することができるように、正しいもの、聖なるもの、愛すべきもの、美しいものにあこがれ、それを追い求めることができるようにと願っているのです。

 よく、信仰を持つということは、どんな欲求も捨て去ることだと考えている人がいますが、そうではありません。信仰を持つということは、すべての願いを捨てて、人生をあきらめることではないのです。また、欲望は抑え込もうとしても、できるものではありません。かならず、別の形で表れてきます。聖書は欲望のままに生きることを禁じていますが、禁欲的でありさえすればそれで良いとは言っていません。表面は禁欲的でも心の中では醜い欲望が渦巻いていたり、道徳的に見えながら恐ろしい悪が隠されていたり、献身的なようでいて人を自分のコントロールのもとに置こうとしたりということが現実にあるのです。キリストから離れた哲学や宗教の教えについて、聖書は「そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉の欲しいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロサイ2:23)と警告しています。イエス・キリストを信じ、聖霊の力に頼るとき、私たちの内側にある欲求が、より霊的なものを求める思いへと転換されていくのを体験することができます。私たちの欲求が聖められて、神のために用いられるのです。今まで、この世の財産を殖やすことしか考えていなかった人が、今度は、それを神のため、人のために使って、天に宝を積むようになり、汚い欲望を満たすことを追い求めていた人が、霊的に成長し、きよめられることを願うようになり、自分中心な願いしか持たなかった人が、他の人々の痛みを、傷ついた社会をいやすために働き出すという奇蹟が私たちの中に起こるのです。

 第三に、この祈りは、とても現実的な祈りです。「二つの願い」の二番目は「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」です。これは、目に見えること、日々の必要に関する願いです。私たちには、目に見えない霊的なこととともに、目に見える物質的なものも必要なのですから、そのことも祈っていいのです。いや、信じて祈るべきです。神は、喜んでその祈りを聞き、必要なものを与えてくださいます。神は、心のケアはしてくださるが、食べ物のことや身体のことは心配してくださらないというのではありません。もし、そのように考えるなら、それは神の力を制限することになります。私たちは、奇蹟が心の中に起こるだけでなく、実際の生活の中に起こることを信じています。私たちの身体に、「いやし」という奇蹟が起こることを信じて祈っているのです。

 この願いには理由がついています。9節に「私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」とあります。この祈りは、何と正直で、謙遜な祈りでしょうか。この人は、財産がたくさんあっても、それに心が奪われることはない、貧しくなっても、決して盗みはしないとは言っていません。何があっても、自分はきちんと信仰を守って、神に従うことができるとは言っていません。むしろ、財産に頼って神への信頼をなくしてしまうかもしれないという自分の罪深さや、貧しさのあまり、人のものに手をつけてしまいかねない自分の弱さを認めています。そして、「私を罪から守ってください。弱さを持つ自分でも生きていける環境を与えてください。」と真剣に祈り求めているのです。しかも、この人は、そのことで、自分が恥を見ないようにというのでなく、「私の神の御名を汚すことのないために」と、神の栄光を第一に求めているのです。素晴らしい祈りですが、なぜ、この人はそのように祈ることが出来たのでしょうか。9節に「私の神…」ということばがあったのに、気付きましたか。「私の神」。これは、神とのパーソナルな関係をあらわすことばです。この人は神との関係の中に生きていました。だからこそ、自分の罪深さや弱さを自覚し、それを素直に認めることができたのです。イエス・キリストを信じる私たちに、神は、「わたしはあなたの神。あなたはわたしの民。」と呼びかけておられます。この神を「私の神」と呼び、このような祈りを日々にささげていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちの祈りの多くは、あなたの目からみて、的外れであったり、ふさわしくないものかもしれません。あなたは、そうした祈りにも、忍耐をもって耳を傾けてくださるとともに、私たちに何をどう祈るべきかを、みことばにより教えてくださっています。みことばによって、私たちのほんとうの必要に気付かせてください。ほんとうは何を祈り、求め、願うべきかを知らせてください。自分のほんとうの必要を、正直に認め、謙虚に、しかし、熱心に祈り続ける私たちとしてください。あなたの右にいて、祈りをとりなしてくださる、私たちの救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

2/8/2009