聖徒のまじわり

ピリピ4:21-23

4:21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
4:22 すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 早いもので、私がサンタクララ教会で奉仕をはじめて一年が経とうとしています。昨年の九月、サンタクララ教会での最初の礼拝メッセージは「クリスチャンのまじわり」という題で、ピリピ人への手紙1:5からでした。その後、引き続いてピリピ人への手紙からお話しをしてきまして、今日は、その最終回で「聖徒のまじわり」という題でお話しします。伝道礼拝や特別礼拝が数多くありましたので、ピリピ人への手紙を終了するのに、一年近くかかってしまいました。

 ピリピ4:21-23は手紙の最後の挨拶の部分で、普通はこういう箇所から説教されることはまれかと思いますが、実は、ここにも大切なメッセージが含まれているのです。今朝は、この箇所から「聖徒」「あいさつ」そして「恵み」という言葉に目を留め、神が私たちにくださった祝福について学びましょう。

 一、聖徒

 使徒パウロは、この手紙の最初の挨拶で「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たちへ」と、ピリピのクリスチャンを「聖徒」と呼びましたが、最後の挨拶でも「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく」と、クリスチャンのひとりびとりを「聖徒」と呼んでいます。普通「聖徒」というと、聖フランシスコとかマザーテレサとかいった特別な人を思いうかべます。日本でもバックストン宣教師や笹尾鉄三郎牧師といった人たちは、キリストの香りを放ち、神のきよさのうちに生きた人として知られ「聖徒」と呼ばれています。この教団の創設者葛原定市先生も「西海岸の聖徒」と呼ばれました。しかし、聖書では特別な、ぬきんでたクリスチャンでなくても、すべてのクリスチャンが「聖徒」と呼ばれているのです。

 ピリピの教会のクリスチャンだけでなく、コリントの教会のクリスチャンも聖徒と呼ばれていますが、コリントの教会は、問題だらけの教会として知られていました。そこには分裂、分派があり、不道徳がありました。教会のメンバー同士が裁判沙汰の争いをしていました。偶像礼拝や離婚があり、礼拝も無秩序で、聖餐式を正しく守られないありさまでした。そして、クリスチャンにとって一番大切なキリストの復活の信仰もゆらいでいました。ところがそんなコリントのクリスチャンに対しても聖書は「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と呼びかけているのです。なぜでしょうか。それは、聖書がクリスチャンを人間の目からでなく、神の目から見ているからです。

 自分を、また、他の人を神の目から見ること、つまり聖書に教えられているとおりに見ることは大切なことです。そうでなければ、本当の自分の姿が見えないからです。聖書は鏡のようなもので、私たちの姿を映し出すのです。私たちは聖書によって、自分の罪深さを知ると共に、その罪が赦され、きよめられ神の子とされていることを知るのです。自分の目からだけ自分を見ていてもそうしたことは分かりません。自分の罪を甘く見てしまって悔い改めることができなかったり、自分を責め続けて、神に赦されていることの喜びを味わうことができなくなってしまうのです。

 「聖徒」、「きよい者」という言葉の本来の意味は「とりわけられたもの」という意味ですが、神は、悔い改めと信仰によって私たちの罪を赦し、私たちを神のものとして選び分け、私たちを「きよいもの」だと宣言してくださったのです。聖書の中で、神に従い通したノアやアブラハム、ダビデなどの偉大な人々と同等に私たちを取り扱ってくださるというのです。私たちが「聖徒」と呼ばれているのは、実に大きな祝福、恵みです。

 キリストを信じる者たちは、「聖徒」とされたという恵みをいつも覚えていましょう。私たちはキリストを信じた時に罪を赦され、新しい心を与えられたたとはいえ、実際の生活の中では、罪や過ちを犯し、試練にあってくじけたり、誘惑にさそわれたりします。そんな時、自分が「神の子」であり「聖徒」であることを自覚しましょう。それによって私たちは罪や誘惑から守られるのです。こんな話があります。昔、ある国に落ち着きのない王子がいました。ある日、お供の者と一緒に街に行った時、いつもはお城の中にいるものですから、見るもの聞くものが珍しくてきょろきょろしていました。そんな時は、お供の者が、王子の服のすそを引っ張って、『殿下、ご身分を』と言うのです。すると、王子は、背筋を伸ばして堂々と歩き出したというのです。私たちクリスチャンも、私たちが「聖徒」と呼ばれていることをいつも思い起こして、聖徒として歩むよう努めたいものです。

 私たちが「聖徒」と呼ばれているのは、決して私たちがそれで高慢になって、他の人を見下すためではありません。むしろ、謙虚になり、聖徒と呼ばれるのにふさわしく、きよめを求めていくためなのです。そして私たちがきよめを求めるなら、神もそれに答えて私たちをきよめてくださるのです。神は私たちに「聖徒となれ」と励ましてくださると共に「あなたは聖徒だ。わたしがあなたを聖徒にする」と約束してくださっているのです。

 二、あいさつ

 次に目に留めたいのは「あいさつ」という言葉です。日本語の訳では「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく」(21-22節)というように「よろしく」と言われています。私たちは良く「よろしくお願いします」と言いますが、これは英語に訳すとどうなるのでしょうね。「仲良くしましょう」でもないし、「助けてください」でもない、日本語の「よろしく」というのは、響きのいい言葉ですが、意味はあいまいですね。しかし、21、22節の「よろしく」というのは、そんなあいまいな意味でなく、もとの言葉では「あいさつします。あいさつを送ります」という意味なのです。そして、聖書で「あいさつ」という場合、それは、単なる儀礼上のことでなく、もっと重い意味を持っているのです。

 ヨハネ第二10,11節に「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります」という大変厳しいことばがあります。当時、ひとつの教会だけでなく各地の教会で聖書を教える人がいました。教会はそうした教師たちを迎え入れ、次の教会に送りだしたのです。ところが、その中には全く聖書の教えを持っていない偽教師もいました。ヨハネの手紙で「この教えを持って来ない者」というのは、そうした偽教師のことを言っています。ここでは、そういう人を教会の説教者に招いてはいけないと言っているのです。そして、「あいさつ」するというのは、そういう人を迎え入れ、もてなすことを意味していました。ローマ16:16に「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。」とあります。当時、男性は男性同士で、女性は女性同士で頬を摺り寄せてキスをする習慣がありました。「聖なる口づけ」というのはそのことを言っています。しかし、これもまた単なる習慣としてでなく、クリスチャンが神の家族として互いを受け入れあい、愛し合うということの表現として行われていたのです。

 ですから、ピリピの手紙で「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、あいさつを送ります。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたにあいさつを送ります。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、あいさつを送ります」とあるのは、お互いを認め合い、愛し合うという意味がこめられているのです。ハワイでは挨拶に「アロハ」と言いますが、このことばには「こんにちは」という以上に、"I love you." という意味があるのだそうですが、それと同じように、ここで、パウロが「あいさつを送ります」と言っているのは、パウロがピリピのクリスチャンに対して、キリストにある愛をもって "I love you." というメッセージを送っていることになります。それは、コリント人への手紙第一の一番最後でパウロが「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります」と書いたのと同じ意味合いです。「聖徒」とされた者たちがお互いを神の目から認め合って、互いに "I love you." のメッセージをかわす、ここに使徒信条に言われている「聖徒のまじわり」があるのです。

 パウロは、あいさつを「聖徒のひとりびとり」に送っています。パウロは、ローマ人への手紙のあいさつの部分で「プリスカによろしく、アクラによろしく、エパネトによろしく、マリヤによろしく」と、三十名以上の人々の名前をあげ、ひとりひとりへの深い愛を表わしています。ピリピの手紙では個人名は出てきませんが、パウロがここで「ひとりびとり」と言った時には、ほんとうにひとりびとりの顔を思いうかべていたと思います。

 このことは、教会ではひとりびとりが大切にされなければならないということを、私たちに気付かせてくれます。教会は神の家族です。家族のそれぞれには、それぞれの役割りがありますから、私たちは、自分の教会にしっかりと所属して、そこで役割を果たしていかなくてはなりません。しかし、家族が会社のように役割、役職だけで成り立つのではないように、教会でも、メンバーがその役割だけで評価されるのでなく、ひとりびとりがかけがえのないものとして大切にされなければなりません。ここ五、六年ほどサドルバック・コミュニティ教会のリック・ワレン牧師の書いた "Purpose Driven Church" という本がよく読まれ、日本語にもなっています。リック・ワレン牧師の教会はわずか数年で何千人という大きな教会になったのですが、それはメンバーのひとりびとりが「この集会は、この活動は何のためにするのか」という目的意識をもって励んだからだというのです。どんな場合でも「目的」を明確にすることは大切なことです。しかし、教会では「目的」や「ゴール」が何よりも大切で、メンバーはその目的達成のために「利用される」ようなことになってはいけないと、私は思います。"Purpose Driven Church" というのもいいのですが、その前に教会は "People Driven Church" ―ひとりびとりが大切にされ、互いに愛し合うところであるべきだと思います。時々、神のことだけが大切で人間のことはどうでも良いということが「霊的」であり「信仰的」であるかのように思われることがありますが、そうではありませんね。人間中心主義に陥ってはいけませんが、神が神としてあがめられるところでは本当の意味で人間、ひとりびとりが大切にされるということを私たちは知っています。ですから、神が教会にくださった聖徒のまじわりのすばらしさを大切にし、それを育てていきたく思います。

 三、恵み

 最後に目を留めたいのは「恵み」ということばです。ピリピ人の手紙の冒頭、1:2で「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と祈られていました。そして、最後の4:23でも「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と「恵み」が祈られています。ピリピ人への手紙は恵みではじまり、恵みで終わるのです。「恵みがありますように!」短い、飾りのない率直な祈りですが、この短い祈りにパウロの思いがすべて込められているような気がいたします。

 「恵み」という言葉は「それを受ける値打ちのないものに与えられる愛」という意味があると言われますが、パウロは確かに、この恵みを知り、味わっていました。パウロはコリント人への手紙第一、15:9-10でこう言っています。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」パウロは急進的なパリサイ人の指導者で、教会の最初の殉教者となったステパノのリンチの立会人となり、それを機にユダヤのクリスチャンを迫害しては投獄していた人物でした。彼はユダヤだけでは事足りず、遠くダマスコにいるクリスチャンまでも迫害しようと息巻いていました。そんな彼が、キリストに出会い、彼の人生は百八十度変わりました。その罪を赦されたばかりか、キリストの使徒として大きな働きをするようになったのです。それは、神の恵み、キリストの恵み以外の何者でもありませんでした。ですから、パウロは他の人にも「キリストの恵みがありますように!」と祈ることができたのです。

 自分がキリストの恵みを知らないでいて、他の人のためにキリストの恵みを祈ることはできません。また、キリストの恵みを知った者は「この恵みがあなたにあるように!」と祈らないではおれないのです。そして、互いに「恵みあれ!」と祈りあうのが、「聖徒のまじわり」です。そして、この聖徒のまじわり、クリスチャンのまじわりはキリストの恵みによって成り立っているのです。クリスチャンがこのように共に集まって神を礼拝することができる、これは当然のことと思いがちですが、そうではありません。初代教会は迫害の時代には、礼拝のために共に集まることを許されませんでした。ドイツでは、ヒットラーの時代に、聖書の教えに立つクリスチャンは、近隣のヨーロッパの国々に散らされました。この21世紀でも、いくつかの国ではクリスチャンになることも、クリスチャンが集まることも許されていません。また、アメリカのように集会の自由がある国でも、心の悩みや人間関係のトラブルなどのため、他のクリスチャンと素直に交わることのできない人々が多くいるのです。私たちが、ここにこうして、聖徒のまじわりを楽しむことができるのはなんという特権、恵みでしょう。恵みによって成り立っているこのまじわりに、さらに神の恵みを祈り求めてまいりましょう。そして、さらに多くの方々が、このまじわりの中に加わり、この交わりの中で神の恵みを発見し、神の恵みに生かされるよう、祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちを聖徒のまじわりの中に招き入れてくださってありがとうございます。今朝、私たちはクリスチャンの、キリストにあるまじわりが恵みによって成り立っていることを、もう一度確認しました。私たちが、キリストにある愛をもってお互いを認め合い、お互いのために「恵みあれ!」と祈り、お互いに対して恵み深いものとなることができますよう、お導きください。そしてそのことによって、多くの人にキリストの恵みをあかしするものとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

7/15/2001