人は一致できるか

ピリピ4:1-3

4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
4:2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 ピリピ人への手紙も、いよいよ最後の章、第四章まで来ました。皆さんは、ピリピ人への手紙を読んでこられて、この手紙のどんな特徴に気が付きましたか。いくつかあるでしょうが、その一つは、他の手紙にくらべてプライベートな部分が多いというでしょうね。四章は特にそうです。四章にはピリピのクリスチャンへの個人的な勧め、励まし、また感謝がしるされています。パウロは、二章でピリピのクリスチャンが良く知り、親しんでいたテモテのこと、ピリピの教会からパウロを助けるためにローマにやってきたエパフロデトのことを、名前を挙げて書いていましたが、四章では、ユウオデヤとスントケというふたりの婦人の名前を挙げています。テモテ、エパフロデトは、その信仰や奉仕が誉められていますが、ユウオデヤ、スントケの場合は誉められることで名前を記されたわけではありませんね。ふたりの間に、何かのいさかいがあり、うまく行かなかったことがあったようです。それで、パウロはふたりに「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」(4:2)と書き送ったのです。ユウオデヤ、スントケは実名まであげられて手紙に書かれたわけですから、嫌な気持ちになったかもしれません。けれども、クリスチャンの一致は、実名をあげてまでも解決しなければならないほどに大切なことだったのです。もちろん、いつも、どんな場合でも実名をあげなければならないということではありませんし、そのような必要のないようにしたいものです。今朝、私たちは、ユウオデヤ、スントケが痛い思いをしてまでも学ばなければならなかったクリスチャンの一致ということを、真剣に学んでおきたいと思います。

 一、キリストにある一致

 ユウオデヤ、スントケの間にどんな問題があったのか、聖書は何も書いていませんので、私たちには詳しいことはわかりません。ある人は、ユウオデヤ、スントケのふたりは共に女性であったので、二人の間に女性特有の感情のもつれがあったのだと推測しています。ピリピの教会は、紫布のビジネスをしていたルデヤという女性が中心になって始まった教会でしたから、おそらく多くの婦人たちがいたのでしょう。そして、ご婦人方の集まるところには、感情的なトラブルが発生しやすいというのも一理ありますね。最近、日本の本屋さんで『地図の読めない女、妻の話を聞かない男』というタイトルの本を見て、家内と二人で笑ってしまったのですが、(それというのも、この本屋さんに来るまで、お互いにそんな話をしていたからです)このタイトルのように、女性が抽象的、論理的なことに弱く、男性が人の感情を理解するのが難しいと言うのも「当たらずとはいえ遠からじ」でしょう。しかし、女性同士だからすぐに感情の問題だったと推測するのは、早合点かもしれません。ユウオデヤ、スントケのふたりには、女性としての弱さはあったでしょう。しかしふたりはその弱さを克服して、パウロと一緒に伝道し、教会のリーダとなって働いたのです。

 ですから、二人の間にあったことを、なにもかも感情の問題として片付けてしまうのには無理があるような気がします。そうであれば、パウロは二人に一致を勧めるよりは、悔い改めを教えただろうと思います。もし、この二人が、それぞれ自分の方に人々をひきつけようとして張り合ったり、競いあったりしていたのなら、パウロはそうした自己中心的な思い、党派心をまず諌めたことでしょう。罪を悔い改めないでいる二人に一致を勧めるのは、安易な妥協を勧めるのと同じで、かえって問題を覆い隠してしまうことになるからです。今日でも、ただ波風を立てないことだけを考えて安易な妥協をしてしまうとか、本当の問題の解決でなく、問題を覆い隠すだけのことを、一致と考えてしまうことがありますが、そうしたことは本当の一致ではありませんね。

 ユウオデヤ、スントケの二人の間の問題は、個人的な問題というよりは、おそらくは伝道の方法や、組織のことなど、教会の運営に関しての意見の違いだったのではないかと思われます。しかし、それがどんな問題であれ、聖書は、「キリストにあって」解決できると言っています。パウロは言いました。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、<主にあって>一致してください。」そうなのです。クリスチャンの一致は「主にあって」「キリストにあって」可能になるのです。

 もちろん、光と闇、真理と偽り、善と悪には一致はありません。聖書は、そういうものと一緒になることを、決して勧めてはいません。しかし、お互いがキリストにあって闇から光に入れられているなら、偽りを捨て真理に立っているなら、悪を離れ善を追い求めているなら、たとえ、意見は違っても、お互いがキリストにあるものだということを認めあって、一致を求めていくべきなのです。1節で、パウロはピリピのクリスチャンに「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。私の愛する人たち」と呼びかけていますね。パウロは、ユウオデヤ、スントケを名指して「一致しなさい」と勧めていますが、その時、パウロは決して彼女たちを辱めようとしてでなく、彼女たちを「愛する人々」「同労者」として扱い、彼女たちへの愛情と、信頼に基づいてその名を呼んだのです。3節の後半に「この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」とありますね。クレメンスという人のことも良く知られていませんが、「いのちの書に名のしるされている」と表現されているように、先に天に召されていった人なのでしょう。パウロはユウオデヤ、スントケの名も「いのちの書」にしるされている、彼女たちは、解決しなければならない問題を持っていたとしても、救われた本物のクリスチャンであると言っているのです。私たちクリスチャンがお互いをキリストを通して、共に神から生まれた「兄弟姉妹」であること、共に天の「いのちの書」に名をしるさた者であること、お互いがキリストにあって共通したものに立っているということを認め合うことができれば、自ずと一致に向かっていくことができるのです。

 二、キリストに向かう一致

 クリスチャンの一致は、キリストから始まります。そして、それはキリストに向かっていきます。クリスチャンの一致は、お互いがキリストによって救われ、赦され、愛されているという共通の基盤からスタートします。そして、キリストのために、キリストの福音のために働くということに向かっていきます。一致にはスタートラインとともに、ゴール、目的、目標が必要なのです。そして、お互いが一つのゴールを目指していく時、そこに一致が育っていくのです。

 私は、時々、結婚式で「夫婦はお互いを見つめあうだけでは一致できない、お互いがおひとりの神を見上げ、ともに神に近づいていく時に、夫婦の間の距離も近づいていくのだ」とお話ししますが、クリスチャンの一致も同じですね。クリスチャンが互いに他のクリスチャンだけを見て、人と比べあっていても何も生まれてきません。互いがキリストのために一つの目的、目標、ゴールに目を向けていく時、一致が可能になるのです。実は、ユウオデヤもスントケも、かってはそのような一致を持っていたのです。3節の後半に「この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」と書かれていました。ふたりは、パウロ、テモテ、クレメンスたち、また他の多くの人々と共に伝道のため、教会のため、心を合わせ、同じ目的のために、十年以上も共に働いてきたのです。しかし、パウロがピリピを去り、クレメンスが天に召されなどしていくうちにユウオデヤ、スントケの間の意見の違いが大きくなっていったのでしょう。それで、パウロは、ユウオデヤ、スントケに、伝道の方法や教会の運営については意見は違っても、福音をピリピの町に、マケドニア地方に満たすという大きな目的のために一致してほしい、自分たちに与えられた目的に目を向けるなら、一致できるのではないだろうかと、語りかけているのです。私たちも、キリストの教会を建て上げていくという、私たちに与えられた使命、目標を共に見上げて、心を一つにして励んでいきたく思います。

 三、協力者を通しての一致

 クリスチャンはキリストにあって一致し、キリストのために一致します。ユウオデヤもスントケもそのことは良く分かっていたでしょう。しかし、彼女たちがキリストにあっての一致、キリストのための一致に立ち返るためには、キリストの恵みと共に、彼女たちを取り囲む兄弟姉妹のサポートが必要でした。

 3節の始めに「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください」とあります。ユウオデヤとスントケの間に入って、二人が理解しあい、受け入れあうのを助ける人物が必要でした。ここで「真の協力者」と言われている人が、誰のことかは、分かっていません。ピリピ教会の創設にかかわったルデヤかもしれませんし、「協力者」と訳されているギリシャ語は「スズゴス」で、その「協力者」というのは実は「スズゴス」という名前の人かもしれません。スズゴスというのは、日本の名前で「鈴子さん」のように聞こえますね。この「協力者」が誰であるかは、ここでは大きな問題ではありません。クリスチャンの一致のためには、自分の名を隠して「ビハンド・ザ・シーン」で働く人が必要なのだということが大切なのです。もしかしたら、ユウオデヤ、スントケの二人の間にはさして問題がなくても、二人の意見の違いを煽り立てている取り巻きがいたのかもしれません。そういうことは世の中で良くあることですが、私たちは「Aさんはこう言っていた」「Bさんはこうだった」と人のことを騒ぎたてないで、静かに祈る知恵が必要です。私たちお互いは、一致を壊す側に回るのでなく、争いのあるところに一致を願い、そのために努力する者たちでありたいものです。

 「協力者」スズゴスということばは、直訳すれば「くびきを共にする者」という意味です。普通、これは、夫婦や肉親を呼ぶ時に使いますが、パウロはこのことばをピリピ教会のあるクリスチャンに対し使っています。この人は、パウロと同じ重荷をもって教会を愛していた人に違いありません。使徒として、伝道者として、牧師として、パウロは大きな重荷を負っていました。遠くローマにいてもパウロはピリピの教会を忘れることがありませんでした。自分自身が獄中にいても、パウロは、自分のことよりも、人々のことを心配し、人々のために祈りました。そんなパウロにとって、ユウオデヤ、スントケのことは、彼の重荷に、またもうひとつの新しい重荷を加えることだったでしょう。しかし、幸いなことに、パウロには、この重荷を一緒に背負ってくれる人がいたのです。そういう人がいたからこそ、パウロのミニストリーはサクセスフルだったと思います。

 主は、いつの時代も、ご自分の教会のためにこのような「協力者」を求めていらっしゃいます。あなたにも「鈴子さん」、いいえ、スズゴスになってほしいのです。地上の教会は、どんなに長い歴史のある教会でも、完成されたところはありません。どこもまだ建設途上にあります。完成を目指して工事中なのです。工事現場が散らかっているように、私たちの教会にも、さまざまな点で欠けたところがあるでしょう。しかし、教会の欠けたところだけを見てステイ・アゥエィするのでなく、これから完成を目指して建てあげられていく姿を見つめて、共に重荷を負っていただきたいのです。4月2日からの連鎖祈祷にも、大勢の方々が加わってくださいました。祈りのスズゴスたちですね。この連鎖祈祷に男性の方々の参加も願っています。職場の休み時間に祈ることができます。帰りがけに車の中で祈ることもできます。(もちろん車を止めてですが。)また、パームサンデーには、三名の姉妹方がバプテスマを受けて、スズゴスたちの中に加わってくださいます。あとに続く方々のために祈っています。5月の臨時総会では新しい執事、理事が選出され、力強いスズゴスたちが与えられようとしています。今まで他の教会員であった方が、サンタクララ教会の会員になって、6月から始まる新年度を共に始め、スズゴスの働きをしてくださるなら、うれしいですね。私も祈っています。皆さんもそのために祈ってください。

 キリストにある一致、キリストのための一致、そして、一致を助ける協力者たちで満たされた私たちの教会でありたく願います。

 (祈り)

 父なる神様、あなたがイエス・キリストによって、私たちに与えてくださった一致を心から感謝いたします。その一致を保っていくために、お互いがキリストにある者たちであること、お互いがキリストのために生き、働く者たちであることを深く覚えさせてください。そして、あなたが望んでおられる教会の一致のために、私たちをあなたの良き協力者としてくださいますように。主イエス・キリストの御名で祈ります。

3/25/2001