人は完全になれるか

ピリピ3:17-21

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 先週私たちは「目標を目指して」生きるということを学びました。今朝の聖書の箇所は、どのようにしたらその「目標」に達することができるかということが、具体的に書かれています。こには三つのことが教えられています。第一は、良い模範にならうこと、第二は、悪い手本を避けること、そして第三が、私たちの天にある完成された姿をイメージすることです。これらのことを順に見ていきましょう。

 一、良い模範にならうこと

 シュバイツアー博士が教育について講演した時、聴衆から質問がありました。「ドクター・シュバイツアー、子供を育てる時に一番大切なことは何でしょうか。」シュバイツアー博士は「一番大切なことは、良い模範を示すことです」と答えました。すかさず他の人も「では、第二は何ですか」と質問すると、シュバイツアー博士は「第二も、第三も模範になることです」と答えたと言うことです。「子供は親の言うことは聞かないが、親のしていることを見て育つ」と言われるように、親や教師が良い模範になるというのが教育で一番大切なこと、いいえ、二番目にも、三番目にも大切なことだということはうなづけますね。ところが、現代では、家庭において、親が親らしくなくなってきています。ずっと昔は「尊敬する人は?」と子供たちに聞くと「お父さん」「お母さん」という答えが返ってきたものですが、今ごろは、父親、母親は尊敬する人から完全に除外されています。ある中学生が「親見れば、オレの将来、見えている」という川柳をつくりましたが、笑えない現実です。また、学校の先生が信じられないような悪いことをするので、子供たちはおとなは誰も尊敬しなくなっています。子供は模範にできる人がいてはじめて人間として成長していき、若い人は目標にできる人がいてはじめて向上を目指すことができるものです。子供たち、若い人たちが尊敬できる人を持ってなくなっているのは残念なことです。これは子供や若者たちだけが悪いのではなく、子供や若者の模範になっていない大人たちにもおおいに責任があります。

 そんな現代の私たちと対照的に、使徒パウロは、「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17節)と言っています。これはとても大胆なことばですね。私たちにそんなことが言えるでしょうか。私たちは、こう言うかわりに「人を見てはいけませんよ、キリストを見上げなさい」と、信仰の初歩の人についつい言ってしまいます。確かにそのとおりなのですが、やはり、初信の人たちは、目に見えないキリストを見上げる前に、身近な先輩のクリスチャンを見てしまうのです。そして、先輩のクリスチャンを通して聖書を学ぶこと、祈ること、賛美をすること、奉仕をすること、献金することを学ぶのです。先に救われた私たちが「人を見てはいけませんよ、キリストを見上げなさい」ということばを隠れ蓑にして、後に続く人々の良い模範になろうとする努力を忘れてはなりません。

 もちろん、私たちは誰に対しても完璧な模範になれるわけではありません。しかし、たとえ、欠けたところ、弱い部分があっても、もし、私たちが使徒パウロのように「目標を目ざして一心に走っている」(14節)なら、私たちの神を見上げ、キリストを求める姿が人々の模範となるでしょう。

 聖書の中にも、歴史の中にも良い模範が数多くあります。また、私たちの身近なところにも、模範となるべきことを見つけ出すことができます。私たちは、知らず知らずの間に、回りの人々から影響を受け、また回りの人々に影響を与えています。「私は神だけを見上げていますから、周囲の人に左右されることは絶対ありません」と言えるような人は誰もいないと思います。ですから、私たちはお互いに良い模範になりあうように努力しましょう。私たちは良い模範にならい、良い模範になろうとすることによって信仰を成長させ、天にあるゴールに近づくことができるのです。

 二、悪い手本を避ける

 さて、良い模範があれば、悪い手本もあります。この世がすべて正しいこと、善いこと、美しいことだけで成り立っているのなら、私たちは何も悩むことなく人生を送ることができるでしょう。そうならどんなにいいでしょうね。けれども、実際はそうではないのです。しかも、悪い手本がクリスチャンの世界の外側にあるのでなく「クリスチャン」と呼ばれる人々の中に混ざり込んでいるからやっかいなのだと、聖書は言っています。

 使徒パウロは18節、19節でこう言いました。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」ここで「十字架の敵」と言われている人々は誰のことでしょうか。それは無神論者や他の宗教の人のことだけではないと思います。もしそうなら「十字架の敵」と書かずに「神の敵」とか「クリスチャンの敵」「信仰の敵」と書いたでしょう。パウロが涙を流して悲しんだのは「自分はクリスチャンだ。しかも、あなた方に信仰を教える教師だ」と言いながら、クリスチャンにとって一番大切なイエス・キリストの十字架を無意味なものにしてしまっている人々です。こういう人々を聖書は「偽教師」と呼んでいます。今日の教会では、「偽教師に警戒しなさい」といった教えはあまり語られませんが、パウロは「私は『しばしば』あなたがたに言ってきた」と書いています。パウロは「偽教師に気をつけなさい」と、一度や二度でなく、繰り返し語りました。それは、もし、私たちが、その教えに従っていくなら、その「最後は滅び」(19節)だからです。間違った教えを語る者たちは、必ず、神の裁きを受けます。そして、彼らに従って行った者も同じように滅びるのです。せっかく教会に来ていながら、聖書を学んでいながら、イエス・キリストの十字架の救いを否定して、滅びに向かっていくというのは恐ろしいことです。だから、パウロは、繰り返し、口を酸っぱくして「偽教師に警戒しなさい」と語ったのです。

 次に「彼らの神はその欲望」とあります。口語訳聖書では「彼らの神はその腹」となっています。その人の表面と内側があまりにも違う時、「腹が黒い」と言います。偽教師たちは、実際は、金銭や安楽な生活、名誉などといった、彼らの欲望を満たすことに懸命だったのに、表面はいかにも敬虔そうにふるまっていました。「腹黒さ」を隠すために「白い衣」を着ていたのです。それで人々は彼らが偽者だと見破ることがなかなかできなかったのです。「彼らの神はその腹、欲望」ということばに「彼らの栄光はその恥」ということばが続きます。偽教師たちが、今、地上で誇ってみせているものは、キリストの審判の日には、彼らの恥となるのです。それから「彼らの思いは地上のことだけである」とあります。自分では「信仰の教師」と言いながら、彼らの思いの中には神のことも、神の国のことも、霊的なことが少しもないのです。

 少し見ただけでは、本当の使徒たちと偽教師との区別はつけにくいのです。ですからクリスチャンには霊的な識別力が必要です。クリスチャンに第一に必要なものは、言うまでもなく「愛」です。しかし、私たちは「愛」の名のゆえに真理を判別するのをやめて、何でもかでも鵜呑みにしてはなりません。 ピリピ1:9-10に「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」との祈りがありますが、私はサンタクララ教会が、考える信仰、行動する信仰を持つことができると信じ、そのように祈っています。教会は外からの妨害や圧迫によっては、簡単には潰れません。むしろ、教会は、外からの妨害や圧迫をはねのけようと団結して、強くなっていきます。しかし、教会の中に誤った教えが入ってきて、教会が真理から離れていったら、どんなに教会が社会によって保護されていても、教会は霊的な力を失って、内側から崩れていきます。教会の中にたくみに入り込んでこようとする、真理でないもの、真実でないもの、「似て非なるもの」を、私たちは斥けていかなければなりません。

 三、完成された姿を見る

 第一に「良い模範に目を留めなさい」、第二に「悪い手本を避けなさい」と教えた使徒パウロは、第三に「天にある私たちの完成された姿をイメージしなさい」と教えます。使徒パウロは、今まで涙を流しながら、偽教師のことを書き綴ってきましたが、パウロは、今度は、喜びに満ちてこう書きます。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(20-21節)ここには、19節で「彼らの最後は滅び、彼らの神は欲望、彼らの栄光は恥、彼らの思いは地上のこと」と言われていたのとまったく逆のことが書かれています。本物のクリスチャンの最後は滅びでなく、救いです。私たちの神は、私たちの腹ではなく、もういちど天から来て、私たちを迎えてくださるイエス・キリストです。私たちの人生は恥で終わりません。私たちは栄光の中に入れられるのです。私たちは約束された栄光の天国をいつも思い見ます。ですから私たちの思いは、地上のことでなく、天のことなのです。そして天のことを思いみることによって、また、思い見、待ち望みながら、私たちは、目標へと、完成へと近づいていくのです。

 スポーツの選手は、その競技種目の練習だけでなく「イメージ・トレーニング」というのを行います。たとえばフィギュア・スケートの選手だったら、頭の中で、これから行う演技を想像してみるのです。完璧な演技が出来て、観衆の拍手喝采を浴び、審判員がみな満点をつけ、そして表彰台に立って金メダルを受けるところまでも想像をたくましくするそうです。そうすると、自分の内側に秘められた力が発揮されて、最高の演技ができるようになると言われています。芸術作品を作る人も、自分の作品の完成されたイメージを心の中にしっかりと持っていてはじめて、素晴らしい作品を作ることができると言われます。美しい建築物も、やはり、完成されたイメージが先にあって、それにそって立てあげられていくのです。

 私たちも、私たちの完成された姿を天に持っています。第一ヨハネ3:2に「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」とありますように、イエス・キリストが私たちの完成された姿なのです。クリスチャンがイエス・キリストを仰ぎ見るとき、それは自分たちの完成された姿を見ていることになるのです。世の終わりになって、私たちがキリストに顔と顔とをあわせて出会う時、私たちはキリストの栄光に触れ、キリストのように変わるります。私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって罪のさばきからすでに救われ、そして、今、その十字架の力によって罪の力から救われて続けています。しかし、この地上に生きる限り、私たちの弱さは残り、罪の誘惑はやってきます。自分の罪であれ、人の罪であれ、その結果によって傷つけられ苦しめられます。しかし、イエス・キリストがもう一度世においでになる時、つまり私たちの救いの完成する時、私たちは罪の存在そのものから救われます。その時、私たちは一切の罪から、弱さから、欠陥から、嘆きから、悲しみから、後悔から解放されます。私たちの救いは完成され、私たちは完全なものになれるのです。

 天国で、たましいの救いだけでなく、この肉体も含めた、一切の救いを受け取るのは、もちろん、私たちがイメージをたくましくしたから出来るというものではありません。天国や私たちの完成された姿は、私たちが想像しても想像しきれないほどのもの、それは地上とは次元の違ったものでしょう。しかし、聖書のことばによって、信仰によって、天国での完成された姿を確信していく時、私たちはより神に近づき、キリストに似た者へと変えられていくのです。私たちは、完成の日を待ち望んでいます。しかし「待ち望む」というのは、ただぼんやりと日を過ごすことではありませんね。私たちは、完成の日を思い見ることによって、そこに目を向けることによって、完成へと一歩一歩近づくのです。第二コリント3:18に「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。私たちがキリストの栄光を賛美し、ほめたたえるだけでなく、その栄光に触れていただくような体験を、日々に深めていくことによって、私たちも、キリストの栄光の姿に変えられていくのです。キリストの栄光の姿は、同時に、私たちの完成の姿でもあります。そのイメージを心にしっかりと収め、救われ、きよめられ、そして完成を目指して歩み続けましょう。

 (祈り)

 真理の父よ、今朝私たちの周囲には、偽りか真理か、滅びか救いか、恥か栄光か二つの道があることを教えられました。今朝、私たちが神の民であって、真理に、救いに、栄光に導いてくださることをしっかりと心に刻ませてください。真理の道を選び、救いの道に歩み、栄光への道へと進んでいくことができるよう、私たちを導いてください。再び天からおいでになり、私たちの救いを完成させてくださる主イエスの御名によって祈ります。

3/18/2001