目標を目ざして

ピリピ3:12-14

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3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 一、能力における成長

 私たちは、毎年、この週の礼拝で75歳以上の方々の長寿をお祝いしています。心理学の学説によると、65歳から老年前期、75歳から老年後期に入るのだそうですが、このごろは、平均寿命が80年を越えるようになりましたから、この説も修正が必要になってきたようです。私たちは、この日を「敬老サンデー」と言っていますが、皆さんから「老人」という呼び名はけしからんという声が聞こえてきそうです。日本語で「老人」と言うと、体力も知力も衰えた哀れな「年寄り」という暗いイメージがあるからです。こうした否定的なイメージは、残念ながら、「科学的なデータ」といわれるものによって強められてきました。

 学者たちは、中高齢に達すると、運動能力ばかりでなく、知的な能力も衰えるというデータを出してきました。たとえば、成人用の知能テストをそれぞれの年齢層で実施してみますと、17歳では平均得点が103点、22〜23歳では最高の110点に達し、それ以後は年齢とともに下降し、50歳代の人々の平均が100点、70歳代では80点に下がっていると言われてきました。ところが、この調査結果には、いくつかの問題点があるのです。第一は、知能テストの内容です。知能テストは、学業成績を測るために作られたもので、その問題は学校の教室内でしか通用しないものに偏っていて、年長者には現実味や、興味のないものがほとんどで、そのため中高年の得点が低くなるのです。第二に、テストのやり方が年長者には不利なのです。年長者が良い点数をとれないのは、学校を卒業して長くたち、問題の解き方を忘れているからで、すこし練習の機会を与えれば、年長者も若い人とかわらず高い点数を取ることができることが証明されています。第三に、調査対象に問題があります。いくつかの年齢集団にわけて、同時に、調査をするやり方だと、各年齢グループの構成が学歴、社会環境、経済状態などが同じであるという保証はどこにもありません。今の若い人々は大学や大学院に行き、長い間学校に通うようになりましたが、年長の人々にはそういうことがなかったわけですから、こうした調査では、どうしても不利になってしまいます。しかし、一般の人々には、そうした問題点は隠されてきましたので、年齢とともに下降していくグラフを見せられると、「能力の衰えは科学的に証明されている。」といって、あきらめてしまうことが多かったのです。

 世代間の知的な能力の違いを調べるのに最も良い方法は、同一人物を、若い時と、中高年の時などのように、その生涯に渡って何度か調査することなのですが、実際にそのような調査をしてみると、若い頃の能力と、中高年になってからの能力ではほとんど違いがないことが分かってきています。シャイーという人は、同一人物というわけではありませんが、二十代から八十代までの人に、七年間隔で知能テストを三回にわたって行いました。つまり、その年に第一回目のテストを、7年後に二回目のテストを、14年後に三回目のテストをしました。14年かけて調査した結果、同じ世代内では、7年後でも、14年後でも、テストの得点はほとんど変わっていないという結果を得ています。

 中高年になっても、人は有能でありつづけ、多くの人々の役に立つことができるのです。また、中高年の人々の多くが、人々の役に立ちたいという意欲も十分に持っています。中高年になれば社会の役に立たなくなるというのは、先入観や誤ったデータに基づくものです。ですから、年齢を重ねた人は、失敗した時、うまくいかなかった時、それを「もう年だから…」と年齢のせいにしないようにしましょう。若い人も失敗する時は失敗し、うまくいかない時は、うまくいかないのですから。聖書は、年齢を重ねた人々を決して軽蔑してはいません。箴言16:31には「しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。」とあり、詩篇71:18には「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」とあります。教会では、若い人も、年配の人も、それぞれに仕事を分け合い、力をあわせて神に仕えていくのです。

 二、信仰における成長

 中高年の知能は決して衰えないことが分かってきましたが、知能の中でも「結晶性知能」というものはは、衰えるどころか、老年期にいたるまで、成長していくことが知られるようになりました。「結晶性知能」というのは、耳慣れないことばですが、これは図形などの区別によって測られる「流動性知能」とはちがって、語彙や社会的知識によって測ることのできるものを言います。たしかに、若い人よりも、年配の人のほうが「言葉」をたくさん知っていますし、世の中の仕組みにも精通しています。ものごとを機械的に判断するのは、若い人のほうがすばやくできるかもしれませんが、ものごとを総合的に判断するのは、なんといっても、年齢を重ね、経験を重ねた高齢者のほうが優れています。そうした総合的な判断力を「結晶性知能」というのですが、もっとわかりやすく言えば「人生の知恵」といったものです。ある学者は「知恵」を「人生の重要だがしかし不確かな出来事に対するよい判断能力」と定義しています。人生には、予測することのできないさまざまなことが起こってきます。思わぬ出来事が突然起こってきます。そのような時に、適切に対処できる「知恵」が必要なのですが、そうした面では、中高齢者は若い人よりももっと発達し、成長の余地を残しているのです。もし、そうでなかったら、会社で一番能力のあるのは、年齢が25歳までの新入社員で、年齢の高い管理職や役員はみな、新入社員に場所を譲らなければならなくなります。しかし、実際は、年齢と経験を重ねた人の知恵が必要なのです。

 芸術の世界では、ほとんどの人が生涯の最後までその能力を伸ばし続けています。三味線の名手で鶴沢寛治さんという人は、「私の師匠は、芸は十は十の稽古をせよ、はたちははたちの稽古をせよ、三十は三十、四十は四十、…七十は七十、死ぬまで稽古せよ、と言いました。」と話しています。六十になっても、七十になっても、八十になっても、芸の世界には終点というものがないのですから、死ぬまでが稽古だというのですが、稽古を続けていけば、年齢を重ねていくにつれて、その芸には味わいが出てきて、うまくなっていくのです。

 知恵の世界や芸術の世界で、最後まで、完成に向かって努力していくのなら、信仰の世界ではもっとそうですね。私は、聖書を学びはじめて四十年になりますが、今も、聖書を学ぶたびに、新しい発見をしています。若いころには見逃していた聖書の味わいというものを理解できるようになりました。聖書は変わるものではありませんが、二十代には二十代の読み方、三十代には三十代の学び方、そして、四十代には四十代の、五十代には五十代、六十代には六十代、七十代には七十代、八十代には八十代にふさわしい聖書の味わい方があるのです。原語を調べたり、神学の理論によって分析したりするだけでなく、人生の体験から、神のことばに迫っていく読み方もあるのです。年齢を重ねることによって、聖書の学びもさらに深められていくのを、皆さんも体験していること思います。

 使徒パウロが、ピリピ人への手紙を書いた時、彼はすでに65歳をこえていました。紀元一世紀には、65歳といえば十分に老境に達している年齢でした。パウロは、この時までに数多くの教会を立て、また、福音の真理を解き明かす手紙を書いてきました。しかし、パウロは、それで、自分の仕事が終わった、自分の信仰が完成したとは思っていませんでした。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。」(ピリピ3:12)と言っています。そして、「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(13、14節)と言って、完成を目ざし、目標を目ざして、信仰の道を、前にむかって走り続けています。

 老年になっても、はっきりした目標を持っている人、それに向かっていく意欲を持った人は、最後まで充実した人生を送ることができます。神を信じる者には、神の栄光を表わし、神を喜ぶという人生の目的があり、福音を伝える、他の人のために祈るなどという具体的な目標があります。何歳になろうと、この目的、この目標は変わりません。パウロのように、目標を目ざして進んでいきましょう。

 三、関係における成長

 私たちは、何歳になっても能力においても、信仰においても、成長していくことができ、また、成長するよう努力しなければなりませんが、とりわけ努力しなければならないのは、「関係における成長」です。高齢になりますと、どうしても、外に出かけることが少なくなって、家にひきこもり、他の人とかかわることが少なくなってしまいます。また、今まで親しくしていた友人、知人が次々と天に召されて、孤独になってしまうことがあります。「人間関係」は人生の諸問題の中で、いちばんわずらわしいものかもしれませんが、人は、人と人の間で生きる存在ですから、人間関係なしに生きることはできません。

 中高年の男性に「濡れ落ち葉族」というのがあります。職場での人間関係しか持たなかったため、退職してからは、付き合う人がいないので、水に濡れた落ち葉が靴底にぴったりとくっついて離れないように、奥さんの行くところ、どこにでもあとをついて行く人のことを言います。65歳から75歳の既婚者を対象にした調査では、男性のほとんどは、一番たよりにしているのは奥さんなのですが、女性のほうは、ご主人を頼りにしているのは、四分の一しかありませんでした。女性は、夫にはあまり期待していないのですが、中高年の男性は、ほとんどが妻によりかかっているというのです。日本の中高年の自殺者が年間三万人にも及ぶのですが、その三分の二近くが、他の人との密接な関係を持っていない男性たちであるのも、うなづけます。愛し愛され、信頼し信頼される人間関係のネットワークを持っている人は、さまざまな困難に直面しても、そのネットワークによって支えられるのです。カリフォルニア州のあるカウンティで行なった調査によると、こうしたネットワークを持たない人の死亡率は、それを持っている人と比べて、2.3倍、女性で2.8倍も高かったそうです。

 高齢になれば、どうしても他の人の世話を受けなければなりませんが、良い人間関係があれば、素直にそれを受けることができ、また、そのことに感謝することができます。高齢の方は、それまで十分に家族を支え養い、また、多くの人々を助けてきたのですから、今度は家族から支えられ、まわりの人々から助けられて当然なのです。「子どもの世話になるくらいなら、ポックリ死んだほうか良い。」ということばをよく聞きます。家族に迷惑をかけたくないという気持ちは、よく分かります。しかし、別の面から見れば、家族のつながりが薄くなってきたので、そうしたことばが出るようになったのかもしれません。退職後も、地位や名誉を求めてやっきになっている人もいないわけではありませんが、中高年になれば、たいていは、利害関係を離れて、人間関係を築きあげることができます。中高年になってからはじめて、本当の意味での良い人間関係を楽しむことができるのかもしれません。私たちの教会には、シニアのためのグループ、「ゴーゴープラス」があり、先週、今年最後のミーティングがありました。来年一月から再開されます。こうしたグループに積極的に参加して、教会でのまじわりを深めていかれるよう、お勧めします。

 しかし、一番、大切にしたい関係は、神との関係、イエス・キリストとの関係です。使徒パウロは「捕えようとして、追求している」と言いました。しかし、パウロは、自分の力だけでそれができるとは思っていませんでした。パウロが目標を目ざして前向きに生きていくことができたのは、「キリスト・イエスが私を捕えてくださった」という信仰でした。彼がキリストを捕らえようと努力することができたのは、キリストが彼を捕らえ、その手の中に彼を守っていてくださったからでした。神に自分を任せることのできる平安があるからこそ、神を求めてやまない努力が生まれてきたのです。私たちも、神とキリストの手に自分の人生を任せましょう。神に信頼することがなければ、私たちは年齢を重ねるにつれ、老後の心配で押しつぶされ、楽しく年をとることができません。神は言われます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)高齢者には、いろいろなことで誰かに頼らなければならないことが多くなってきます。しかし、それを苦痛とは思わず、神に頼ることを学ぶレッスンとして受けとめましょう。そして、信仰を働かせ、老後の心配のひとつひとつを神に委ねていきましょう。神が与えてくだっさた人生の知恵を役立て、信仰に成長し、神との関係、他の人との関係において、さらに成長させていただきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、今年も、ご高齢の方々が、健康を守られ、支えられ、こうしてご一緒に礼拝を守ることができありがとうございました。私たちは生涯、信仰を成長させることができます。ご高齢の方々に、その人生の年輪にふさわしい信仰の成長を与えてください。おひとりびとりの健康を強め、後に続く人々の良い模範として尊く用いてください。主イエス・キリストのお名前で祝福して祈ります。

10/19/2003