人はきよくなれるか

ピリピ3:10-16

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 人間には何事においても、今よりももっと良いものを手に入れたいという願いがあります。もっと早く、もっと遠くへ行ける乗り物を求めて、飛行機が作られ、改良に改良が重ねられて、今日のように、何百人という人を一度に太平洋、大西洋を超えで運ぶことができるようになりました。もっとも、大勢の人を詰め込むためにエコノミークラスでは日本の列車の座席よりも狭くなり「エコノミークラス症候群」などと言った病気までが起こるようになったのは問題ではありますが…。もっと便利に、もっと快適にという人間の願望が科学技術を進歩させてきたのですが、人の心にはそれだけでは満たされないものがあります。自分をもっと向上させたい、自分の内面を変えたいという願いがあるのです。特にクリスチャンには、もっと正しくありたい、きよくありたいという願いがあります。今朝の聖書の箇所には使徒パウロが、一心に、きよくあること、「きよめ」を追い求めている姿が描かれています。

 現代では、「豊かになること」「美しくなること」「強くなること」などは追い求められても、「きよくなること」はほとんど追求されません。「きよい」からといってそれで得をするわけではない、損をするばかりだと思われているからです。しかし、きよくあることには、この地上でも、天でも大きな報いがあるのです。今朝は、きよくなるとは一体どういうことなのか、人はきよくなることができるのか、できるとしたら、どのようにしてか。そんなことをご一緒に考えてみましょう。

 一、きよめとは

 きよくあること、「きよめ」とは何でしょうか。10節と11節を読みましょう。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」ここで「死者の中からの復活」と言われていますが、ふつう、「死者の中からの復活」というと私たちが世の終わりに復活することを意味します。しかし、ここでは、そのことではなさそうですね。私たちが世の終わりに復活するのは、キリストの再臨の力によるのであって、キリストを信じる者にはそのことはすでに約束されているのです。パウロがここで「どうにかして」と言っているように、人間の願望や努力によって達成できるものではないからです。ですから、パウロがここで言っているのは、世の終わりの復活のことでなく、今、この地上で、キリストの復活の力を体験したいということです。パウロは今までもキリストのいのちによって生かされてきましたが、もっと豊かにキリストのいのちにあずかりたちと願っているのです。

 パウロは今、牢獄にとらわれています。いわれのない罪を着せられ、苦しみを受けています。しかし、パウロは自分の身の不幸を嘆くことなく、その機会を、より自分をキリストに近づける時として用いました。パウロは、おそらく、このように考えたことでしょう。「キリストが自分のために十字架の上で味わってくださった苦しみに比べれば、私の苦しみなどは小さなものに過ぎない。けれども、キリストのために苦しむことによって、もっとキリストに近づきたい。キリストに近づいて、キリストとひとつになり、キリストの復活の命によって生かされたい。私が生きるというのでなく、キリストが私のうちに生きてくださるように。」パウロはかってガラテヤの教会に宛てた手紙にこう書きました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 パウロにとって、きよくあること、「きよめ」とは、キリストが彼のうちに生きていてくださるということだったのです。私たちは「きよめ」というと、自分をささげてキリストのために生きること、私たちがキリストのように変えられることなどということを思いうかべますし、確かに聖書には「きよめ」をそのようなものとして描いています。しかし、パウロは、ここではさらに一歩進んで、彼の目を自分からキリストへと移します。「きよめ」は自分が何者かになることではなく、むしろ、自分は徹底してキリストのしもべとなり、器となり、自分の生涯に、自分の人生にキリストが生きてくださることだと、パウロは言っているのです。ピリピ1:20-21でパウロはすでにこう言っていました。「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」この言葉はガラテヤ2:20につながっていますね。「きよめ」とは何か。一言で言えば、「私の身によって、キリストのすばらしさが現されること」、あるいは「生きることはキリスト」と言うことができるでしょう。

 二、きよめの道

 では、私たちはどのようにしてこのゴールに到達することができるのでしょうか。それは、そのことを生涯かけて追い求めていくことによってです。パウロは、きよめへの道をスポーツに、とくにマラソンのような長距離競技にたとえています。13節と14節でこう言っています。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」「きよめ」を求めることにおいては終わりはないのです。それは生涯かけて追求するものです。たまに「私はもうきよめられた。もうきよめを求める必要はない」と言う人がいてびっくりするのですが、パウロのような深い信仰を持った人でさえ、「私はまだ得ていない。完全ではない。まだ捕らえてはいない。追い求めているのだ」と言っているのですから、私たちはなおのことゴールを目指して、前のめりになって走らなければなりません。

 パウロは「うしろのものを忘れ」と言っています。それは、5節から7節で言われていたことを思い起こさせます。 こう書いてありました。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」ここで「得」と訳されている言葉は複数形ですが「損」と訳されている言葉は単数形です。パウロには数え上げればさまざまな特権や誇りがありました。しかし彼はそれらのものを一まとめにして「損」だと言っているのです。それらは「うしろのもの」となったのです。

 私は、この「うしろのもの」の中には、パウロが今まで成し遂げてきた伝道活動や、キリストのために受けてきた苦しみも含まれていただろうと思います。パウロのような大きな業績を残した人物は後にも先にもいません。なのに、彼は自分の業績のために「記念碑」を建てるようなことをせず、そこからさらに前進します。今はその分野で何の成果もあげていないのに、過去の業績だけで、あたかもその分野の第一人者であるかのように振舞っている人たちもいますが、パウロはそんな人ではありませんでした。パウロは自分の業績も「うしろのもの」にしてしまって、さらに前に向かって進むのです。

 私たちにも「うしろのもの」がありませんか。過去の罪を引きずっていませんか。まだ癒されていない心の傷はないでしょうか。いつまでも過去の失敗にこだわっていないでしょうか。ヘブル12:1に「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあるように、そうしたものを「うしろ」に置き、「ひたむきに前に向かって」進もうではありませんか。私たちはまた、「きよめられた」という過去の体験だけに安住したり、「私は教会で役員までした人間だ」という誇りにこだわったりしないで、そういったものも「うしろ」に置きましょう。本当のスポーツマンは、一度レースで一位になったからといってそれで競技に出なくなるわけではありません。何度でも同じレースにチャレンジして、記録を塗り替えようとします。そのようにパウロは、日々、新しい気持ちで、神の栄冠を求めて走りなおしました。私たちも彼のようでありたいですね。「前のものに向かって、神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に」走ること、これが「きよめ」の道です。

 三、きよめの出発点

 「きよめ」のゴールは何か、「きよめ」の道は何かを、最初にお話してしまいましたが、では、「きよめ」の出発点はどこにあるのでしょうか。16節に「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」とありますが、この「基準」というのがスタートラインにあたると思います。

 この個所は、クリスチャンの成長の度合いはみな違うのだから、それぞれ自分の基準で歩めば良いというふうに受け取られやすいところです。確かに神は、キリストを信じたばかりの人に、長年クリスチャンとして歩んできた人に要求されるのと同じことを要求されはしません。クリスチャンになったばかりの人はまだ霊的には赤ん坊です。私たちは他の人を見て「あの人のようにできないから」と考えるのでなく、自分自身の歩みを一歩一歩踏みしめて前進しなければなりません。しかし、すべてのクリスチャンは、生まれたてのクリスチャンであろうと、長年のクリスチャンであろうと、共通した「基準」に立たなければなりません。「すでに達している基準」というのは、おのおののクリスチャンの成長の度合いを言っているのでなく、すべてのクリスチャンが立たなければならない信仰の土台、教えの基準という意味です。

 15節でも「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」と、みなが同じ土台に立つように教えられています。「成人である者」とはクリスチャンのことです。この章でパウロは、キリストの教えを持たない人々に警戒するように言っていました。その人たちは、自分たちこそ、完全な者、成熟した者、つまり「おとな」、「成人」だと主張していました。それに対して、パウロは、本当のクリスチャンこそ「おとな」「成人」であると言っているのです。成熟したクリスチャンは、ユダヤ主義や律法主義という幼稚な教えに逆戻りすべきではないのです。「神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」と言うのは、神がその過ちを示してくださるという、やや強い言葉です。間違った教えからは間違った生活が出てきます。私たちの生活は心の中にあるものを反映するのです。カルト集団の教えを信じる人の生活は狂ったものになってしまいます。正しい生活を求めるなら、正しい教えに立たなければなりません。

 では、私たちにとっての「きよめ」の出発点は具体的には何なのでしょう。それは12節の中に示されています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」パウロは「私がキリストを捕らえようするのはキリストが私を捕らえていてくださるからだ」と言っています。「クリスチャン」という言葉は直訳すれば「キリストの者」という意味です。キリストに捕らえられている者、キリストの手の中にある者、キリストにある者、キリストとの命のつながりを持っている者という意味です。「きよめ」られるためには、まず、悔い改めと信仰によってイエス・キリストを信じ、救われていなければなりません。そして、いつでも、自分はキリストのものなのだ、キリストにあるものなのだ、キリストの手の中にあるのだということを確認し、確信していなければなりません。そうでないと、「きよめ」を得ようと懸命に努力しても、それはつかんだと思ったら逃げていき、どんなにしても手の届かないものとなってしまいます。キリストを離れて、自分の力で「きよめ」を捕らえようとしても失敗と失望しかありません。

 こんな場面を想像してみてください。小さな子供が木になっている果物を指さして「あれが欲しい」と言います。それを取ろうと手を伸ばしますが、到底届きません。そこで、父親が来て、子供を抱いてやります。すると、子供は、大人の背の高さまで達して、果物を取ることができるのです。私たちも、キリストの手に抱かれた子供のように、キリストの手の中にある時、はじめて、手を伸ばして望むものを手にすることができるのです。

 「キリストにある」ということから「きよめ」への道を始めましょう。これが私たち一同が立たなければならない「基準」です。「基準として、歩む」という表現は、人々が列を組んで整然と行進する様子をさしています。キリストにある者、クリスチャンが同じ基準で、同じ思いで、同じ目標に向かっていく、そんな私たちでありたく思います。キリストは、個々人の「きよめ」とともに、ご自分の花嫁である教会全体の「きよめ」を強く願っておられるのです。

 「人はきよくなれるか。」その答えは「キリストにあって」なのです。

 (祈り)

 父なる神様、あなたはイエス・キリストの救いによって、私たちの罪を赦されたばかりか、私たちを罪からきよめようとしてくださっています。罪の赦しがイエス・キリストにあるように、罪からのきよめもキリストにあります。私たち一同を「キリストにある」者たちとしてください。キリストにあることを信じ、認め、喜ぶ、そのことをスタートラインにして、ここから共に前進させてください。私たちの信仰のレースのゴールとなり、また伴走者となってくださるイエス・キリストの御名で祈ります。

3/11/2001