しもべとして生きる

ピリピ2:1-11

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2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
2:2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
2:3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
2:4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 一、人間の謙遜

 「日本人は、謙遜で腰が低いと言われているね。」「いや、それは足が短いからさ。」「でも、最近は日本人も足が長くなりましたよ。」「そりぁ、足の引っ張り合いをしているからだよ。」こんな会話があるように、日本の文化では「謙遜」が美徳となっています。「ふつつかな者ですが…」とか、「つまらないものですが…」などという言葉を、よく口にします。日本人は「謙遜」が得意です。しかし、それは儀礼や処世術の一つであって、ほんとうの謙遜ではないかもしれません。

 100ドル札に肖像があるベンジャミン・フランクリンは、人生に必要な徳目を13あげました。「節制、沈黙、規律、決断、倹約、勉強、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙遜」です。彼は、自分であげた徳目を身につけようと努力し、ある程度は成功したようです。しかし、「謙遜」については難しかったようで、フランクリンは、自分の人生を振り返って、「謙遜は、最後まで身に着けることができなかった」と言っています。ほんとうの意味での謙遜を理解し、それを身に着けるのは難しいものです。

 クリスチャンなら、誰もがほんとうの「謙遜」を理解し、それを身に着けているのかというと、かならずしもそうとは言えません。ペテロの手紙の5章には、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい」とあって、信徒は、教会の指導者の下に立ち、指導者は、大牧者であるキリストの下に立つよう教えられています。教会のかしらはただひとり、イエス・キリストのみです。教会につらなるわたしたちは皆、キリストのからだの手や足であって、決してかしら、頭ではありません。そのことを忘れると、教会の中で「かしら」になろうとし、そのように振る舞ってしまいます。ヨハネの手紙第三に「みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれない」(9節)とあります。デオテレペスという人は、教会の中で自分の立つべき場所から迷い出し、「謙遜」を失ったひとりでした。

 わたしにバプテスマを授けてくださった牧師先生は、教会員に奉仕を依頼しても、「わたしにはとてもできません。わたしはそれにふさわしくありません」と言われて、断られることがしばしばあったそうです。先生は、そうしたことを指して、「それは謙遜的傲慢です」と言われました。へりくだっているように見えても、祈って、神のみこころを尋ねることもしないことは、ほんとうに謙遜とは言えないと、先生はよく言っておられました。わたしたちは、ほんとうの謙遜を知り、自分のものにしたいと願っています。

 二、キリストの謙遜

 ではどこにほんとうの謙遜があるのでしょうか。真実なもの、本物は、何であれ、すべて、イエス・キリストにあります。謙遜もまたそうです。本物の謙遜は、キリストにあります。わたしたちが目指すものは、「キリストの謙遜」です。

 ピリピ2:6-11は、キリストの謙遜と栄光を見事に描いている箇所です。6節と7節に「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とあります。これは、キリストが人となってこの地上にお生まれになったことを指しています。

 赤ん坊で生まれ、成長し、学び、働き、そして使命を果たして世を去っていく。それはわたしたち人間にとってはあたりまえのことですが、神の御子キリストにとっては、全く、考えられないこと、ありえないことでした。キリストは神の御子として、はじめも終わりもない、永遠のお方、どんな空間にも制約されない無限のお方です。時間と空間の中に生きている私たちには、「永遠」や「無限」といわれても、すぐには理解できませんが、学者たちの言葉を借りて言うなら、神は「時間に制約されず永遠であり、空間に制約されず無限であり、環境に制約されず不変であるお方」なのです。その神である御子が、今から二千年前、人となってこの世に生まれ、時間と空間と環境の制約の中に生きられたのです。

 キリストは人となられた時、神であることをやめられたわけではありませんが、神としての力と栄光とを制限されました。ペツレヘムで生まれた赤ん坊のイエスは、その後、ヘロデ王に命を狙われるようになりました。「赤子の手をひねるように」という言葉は「いとも簡単に」という意味で使われますが、全能の神であるお方が、全く無力で無防備な赤ん坊になられたのです。

 しかも、キリストは人として一番低い身分、「奴隷」になりました。ピリピ2:7に「(キリストは、…)おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」とありますが、ここで「僕」と訳されている原語には「奴隷」という意味があります。「奴隷」といえば、ローマの身分制度の中で一番低い者です。まるで品物のようにお金で売り買いをされる存在でした。人間扱いされなかったのです。キリストは、王の王、主の主、あらゆるものの上に立つ、最高のお方であるのに、最低の地位にまでくだられたのです。

 よく、身分ある人が、その身分を隠して、民衆のために尽くすという物語があります。キリストもそうなさったのでしょうか。「僕のかたちをとり」というのは、キリストがしもべのような格好をし、しもべのように振る舞ったということではありません。6節にキリストは、「神のかたち」であると書かれています。他の箇所でもキリストは「神のかたち」(コリント第二4:4、コロサイ1:15)言われていますが、これは、キリストは本質において神であるという意味です。したがって、「しもべの姿」もまた、キリストがまったくのしもべになられたことを言っています。「神のかたち」であるお方が「しもべの姿」になられたという、まさに、世界にふたつとない謙遜が、ここに描かれているのです。

 それだけではありません。キリストは、奴隷よりも卑しいもの、犯罪人となられ、十字架にかけれられるほどの罪を背負われました。8節に「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」とある通りです。たとえ奴隷であっても、亡くなれば丁寧に葬ってもらえました。しかし、十字架にかけられた犯罪人は、本来は葬られることなく、ヒノムの谷というゴミ捨て場に投げ捨てられるのが常でした。キリストは、それほどに低くなってくださったのです。

 キリストはご自分を低くすることによって、わたしたちを救ってくださいました。ですから、救われるためには、わたしたちも自らをへりくだらせる必要があるのです。自分が罪びとであること、自分で自分を救うことができないことを認め、へりくだって、キリストの救いを受け取るのです。ここに、「キリストの謙遜」に倣って生きる第一歩があります。みなさんは、キリストの十字架にまで至るへりくだりが、あなたの罪を赦し、あなたを救うものであることを知っていますか。それをへりくだって受け入れたでしょうか。本当にそのことをした人だけが、「謙遜」の持つ意味を知ることができるのです。

 三、キリストの栄光

 「キリストの謙遜」に倣う第二のステップは、キリストのもとにひざをかがめ、キリストを礼拝することです。ピリピ2:9-11にこうあります。「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」8節までは、キリストが人となり、奴隷となり、さらに罪人にまでなって、ご自分を低くされたことが書かれていましたが、9節からは、復活をへて天の御座に着かれたことが書かれています。キリストはもとおられた栄光にお帰りになり、今、主として、天と地のあらゆるものの礼拝をお受けになっておられるのです。

 「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ…」とあるように、キリストはすべてのものの造り主として、どこの国の誰からも礼拝されるべきお方です。人間ばかりでなく、人間が神の助けによって作り出した文化も、制度も、科学も、ありとあらゆる人間の営みは、キリストを主としてほめたたえるものでなければならないのです。自然界も、地球全体も、大宇宙の星という星も、キリストを賛美し、あがめ、たたえていると、聖書は言っています。

 しかし、その中でも、真っ先に、キリストをあがめるのは、キリストの謙遜によって救われた者たちであるべきです。キリストの栄光を仰ぎ見、それをあがめればあがめるほど、「キリストの謙遜」がどんなに大きなことであるかが分かってきます。キリストをあがめる礼拝は、わたしたちを「キリストの謙遜」へと導くのです。

 ピリピ2:6-11は初代教会の「賛美」のひとつであったことが知られています。信仰者たちは、この言葉を暗記していて、主の日の礼拝で、また、日々の個人の祈りの時間に、これを、くりかえし唱えたことでしょう。わたしたちもそうしたいと思います。そうすることによって、キリストの持っておられる、ほんものの謙遜が、わたしたちの心に宿るのです。5節に「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」とありますが、古い日本語の訳では、「キリスト・イエスの心を心とせよ」となっています。「キリスト・イエスの心を心とせよ。」これは、この箇所の言わんとするところをピタリと言い当てた名訳だと思います。「キリストの心」、それは「しもべ」の心です。神であり、主であるお方が、人のために、罪ある者のために、仕えて、仕えて、仕えぬいてくださいました。そのお心を自分の心とする。それが礼拝なのです。

 キリストの謙遜に倣う第三のステップは、キリストのしもべとして生きることです。ピリピ2:6-7で、キリストは「神のかたち」であられたのに「しもべの姿」をとられたことを学びました。キリストにあっては、「神のかたち」であることと「しもべの姿」であることは共存し、結合しています。「神のかたち」とは「しもべの姿」であると言ってもよいのです。このことは、わたしたち人間が「神のかたち」に造られたことを解き明かすものです。人は「神のかたち」に造られましたが、罪によってそれを失ってしまいました。つまり、「神のかたち」を捨てることによって「しもべの姿」をも捨ててしまったのです。神のしもべとして生きるのでなく、自分を主として生きることを選んだのです。

 神は、人が罪のゆえに「神のかたち」を失ったとき、本来の「神のかたち」であるキリストを世に遣わし、キリストの「しもべの姿」によって「神のかたち」を取り戻すようにしてくださいました。キリストが、「しもべの姿」を取り、神のしもべとして生きられたように、わたしたちもキリストのしもべとなって生きることによって「神のかたち」を取り戻していくのです。人が、「神のかたち」を取り戻し、人間としてあるべき姿になることができるのは、キリストのしもべとして生きることによってです。この礼拝で、「キリストのしもべ」となって生きる、その思いを新たにしましょう。日々の生活の場で、そのことができますようにと、祈り求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、わたしたちに「キリストの謙遜」を示し、「しもべ」として生きるようにと、教えてくださったことを感謝します。キリストがわたしたちを愛して、しもべとして生きてくださった、そのお心を、聖霊によってわたしたちにも与えてください。「しもべ」として生きることによって、主であるイエス・キリストを崇める者としてください。すべてに勝るイエス・キリストのお名前で祈ります。

10/28/2018