喜びの信仰

ピリピ2:17-18

2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

 ピリピ人への手紙は、「喜びの手紙」と言われています。ここには「喜び」または「喜ぶ」ということばが繰返し出てくるからです。新改訳聖書で数えてみましたら、なんと13回も「喜」という漢字が出てきました。

 それでは、この手紙を書いた時、パウロには、よほどうれしいことがあったのでしょうか。いいえ、彼は普通の人なら決して喜べないような状況の中にあったのです。クリスチャンになり、イエス・キリストを宣べ伝え、教会を建てあげてきた彼は、同じユダヤ人から妬まれ、危険人物としてローマ皇帝に訴えられ、囚人船に乗せられ、今ローマの牢獄に閉じ込められているのです。しかし、パウロはとても喜べないような状況の中でも、「わたしは喜ぶ」「あなたがたも喜びなさい」と言っています。なぜ、彼はそんなに喜んでいることができたのでしょう。それは彼の心の中に喜びの源があったからです。ローマの権力はパウロの自由を奪ったかもしれませんが、彼の心の中にある喜びは奪うことはできませんでした。パウロの肉体を鎖につなぐことはできても、そのあるれる喜びを押しとどめることはできなかったのです。

 私たちは、そのような喜びを持っているでしょうか。もし、私たちの喜びが環境や状況、あるいは人の言葉や態度に頼って成り立っているとしたら、私たちは、毎日毎日アップダウンを経験しなければならないでしょうね。もしかしたら一時間ごとに、喜んだかと思えば怒り、怒ったかと思えば泣き、泣いたかと思えばで笑うという不安定な日々を送ることになるかも知れません。それをそのまま表面に表わしたら、精神的な病気の人と思われてしまいますから、たいていは、そうした不安定さを内側に押し込めてしまうのですが、それでも心の中は常にジェットコースターのような状態になっているかもしれません。「喜怒哀楽」は人間として普通のことですが、それがあまりにも極端になると、人間らしい喜怒哀楽を失い、ある人は怒りや恨みの中に日を過ごし、ある人は何をしても喜びを感じることのできないデプレションに陥ってしまうことがあります。

 では、どうしたら、私たちは毎日心の中に、深く静かな、消えることのない喜びを持つことができるでしょうか。今朝は三つの喜びの秘訣をお話ししましょう。

 一、自分の価値を知る

 その第一は、自分の価値を知ることです。心理学者たちは、喜びを失った人々を観察し、調査して、その多くは、自分の価値を認められない人たちだと言っています。私は先月から、白百合会で、セルフイメージのお話をはじめましたが、その言葉を使えば、不健全なセルフイメージを持った人、セルフエスティームの低い人ということになります。知的にも、身体的にも、環境的にもずいぶん恵まれているのに、いつも人とくらべて「自分は劣っている」とか「自分は優れている」とか考えている人は、決して喜びを持つことができないのです。神はあなたに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と語りかけておられます。どの人も神の目には価値のある尊い存在です。「自分には価値がある。」このことが分かれば、たとい回りの状況がどうであっても、誰がどう評価しようと、私たちは神が私をこんなにも素晴らしく造ってくださったということに感謝し、それを喜ぶことができるのです。

 「私たちには価値がある」と言いますが、その価値とはいったいどんなものでしょうか。だいぶ前、ある人が人間の値段というのを計算しました。私たちの体の大部分は水でできています。水は一応ただということにして、次は脂肪ですが、これは石鹸を一個作れるぐらい、あとは釘数本分の鉄分、マッチ数本分のリンがある程度です。人間のからだを元素に還元したらせいぜい何十ドルぐらいにしかならないでしょう。聖書に人は土のチリから造られ、死んでまたチリに帰るとありますが、物質の面から言うなら、人間の体は金銀宝石では出来ていない、ほとんど値打ちの無いものです。しかし、神は私たちに霊を、魂を吹き込んで、人間を考えることが出来るもの、感じることができるもの、進歩や向上を目指して努力することが出来るもの、神を信じ、互いに信じあい、神を愛し、互いに愛し合い、神に仕え、互いに仕えあうことのできるものにしてくださったのです。人間は動物とは違って、魂を持つものとして、神のかたちに造られたのです。ですから、人間の魂の価値は、イエス・キリストの言葉によれば、「全地球よりも重い」のです。

 さらに言えば私たちは、神の御子の命と同じほどの価値があるのです。みなさんが良くご存知のように、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、神から離れて罪の中に沈んでた私たちを、その罪からきよめて、神のものとして取り戻すためでした。キリストが、私のために命を投げ出してくださったということは、言いかえれば、私が、神の目には、キリストの命と引き換えにしても良いというほどの価値があるということなのです。そして、私にそれだけの価値があるのなら、あなたの隣に座っているあなたの兄弟姉妹も同じように貴い存在なのです。ですから聖書は、「キリストがその人のために死なれたほどの人をつまづかせてはならない」(ローマ14:15)と教えています。

 ある時、私はイエスが両手を広げておられる絵を見ました。その絵にはこんな詩が書いてありました。『「主よ、あなたはどれほど私を愛してくださったのですか」と私が尋ねると、両手を大きく広げて主はこうお答えになった。「子よ、こんなにいっぱいだよ。」そして主はその両手を広げたままで十字架におかかりになった。』美しい詩ですね。良く見ると、その絵のバックグラウンドには、その両手を十字架に釘付けられたイエス・キリストの姿が描かれていました。あなたは神の御子がその両手をいっぱいに広げておられるほどの大きな愛で愛されているのです。神の御子があなたのために、命さえも投げ出してくださった深い愛で愛されているのです。このイエス・キリストの愛を受け入れる時、私たちの心の中に、どんな時も変わらない喜びが湧きあがるようになるのです。

 二、自分の目的を知る

 次に、自分の人生の目的をはっきりと知っている人は、そのことによって喜びを持つことができます。人が見ればうらやむような良い仕事を持っているのに、その仕事が楽しくなくて、いつも不満ばかり言っている人がいたとしたら、その人は、おそらく、自分が何のためにその仕事をしているのか、自分の仕事の目的をつかんでいないからでしょう。何のためにこのことをしているのか分からないほど苦しいことはありません。昔、囚人たちにさまざまな残酷な刑が課せられたものですが、その中のひとつに、「砂運び」というのがありました。大きな砂の山をこちららからあちらへと移すのです。昔のことですから竹のざるか何かで砂をすくって少しづつ運んだのでしょうね。やれやれ終わったかと思うと、今度はもとのところに運びなおせというのです。そして、それがおわるとまたあちらへ。砂運びそのものは、さして厳しい労働ではないのですが、何の目的もなく、砂を運ぶだけという無意味なことの繰返しのために、囚人はまいってしまったそうです。人間は目的のないこと、意味のないことの繰り返しには耐えられないのです。

 こんな話しもあります。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太をならべ、少し動かしてはまたそれを並べ替えるというようにして、長い坂道を登っていました。そこにとおりかかった旅人が好奇心から「どうしてこんな大きな石を運んでいるのかね」と聞きました。一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は一日何ドルかで雇われただけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男は、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘のうえにはね、この町一番の立派な教会が建つんですぜ。これはね、その礎石なんですよ。さあ、もう一がんばりだ。」どちらの男が喜びを持っていたか、そして、一日の仕事に満足できたか、お分かりですね。何のためにこのことをしているのか、目的を知っていた人です。

 スポーツ選手が、苦しい練習を耐えることができるのは、競技に出て賞を得るのだというはっきりとした目的を持っているからです。ゴールが明確だからです。しかし、私たちの人生にはかならずしも、目的や目標の見えてこないものが多くあります。毎日子供の世話で追われ、忙しくしている主婦にとって、自分の人生の目的はこれなのだと確信するのは難しい場合があります。それで、いろいろな習い事をしたり、趣味を楽しんだりするのですが、それによっても、確信を得られないのです。人生の目的というのは、何かをマスターしたり、資格を得たりする以上のものだからです。

 深い意味での人生の目的は、私たちを造ってくださった神のもとに来るまでは分からないのです。アウグスティヌスは「私たちのこころには、造り主である神でしか埋め合わせることおできない空白がある」と言いましたが、その通りですね。私の娘がまだ小さい時のことですが、私は娘の子ためにあるおもちゃを買ってやりました。それはプラスチィックで出来たボールで、三角、四角、丸、星型、十字型の穴があいていて、それぞれの穴から、それぞれの形のブロックをいれて遊ぶものでした。この間、どこかのおもちゃ屋にそれが売っていて、なつかしく思いました。三角の穴には四角のブロックははいりませんし、四角の穴には丸いブロックは入りません。そのように、私たちの心にあるさまざまな空洞は、ある場合はお金によって満たされ、ある場合は友情によってお満たされるでしょうが、私たちの魂の中心にある空洞は、物質によっても、人間的な成功によって満たされないのです。神によってしか満たされないのです。

 イエス・キリストは言われました。「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)聖書が言う「永遠の命」とは、天国で永遠に過ごすことができるというだけでなく、この地上の人生を目的をもって、そして喜びをもって送ることができるということでもあるのです。イエス・キリストによって魂の中心を、永遠の命で満たしていただく、そうしてはじめて、私たちは本当に満ち足りた喜びの生活を送ることができるのです。その時はじめて、人生の意義と目的を見つけ出すことができるのです。

 三、愛されることと愛すること

 第三に、人生に喜びは、誰かに愛され、誰かを愛することの中にあります。愛のない人には喜びはありません。

 私は時々、牧師として何が一番楽しいですかと聞かれるのですが、それは、なんといっても結婚式です。アメリカに来てからはあまり機会がないのですが、日本では一年のうちに何回も結婚式をしました。私は結婚式の前には、これから結婚するふたりに来てもらって、Pre-marital Counseling をしますが、もうすぐ結婚という二人には何を言ってもニコニコして聞いてくれるので、とてもやりやすいのです。誰かに愛されているということを感じている人はどんな人にでもやさしくなれる、会う人誰にでも親切にしたくなると言われています。

 多くの人は、自分が愛されていないと感じるので、人を愛せない、人を愛せないから人からも愛されないという悪循環の中にいます。この悪循環を断ち切るために、「私は愛されている」ということを、いつも思いみましょう。過去に親から捨てられ、友だちに裏切られるという経験があったとしても、全世界のすべての人があなたを無視し、あなたを嫌っているわけではありません。どこかに、かならず、真心からあなたを愛し、あなたの友となってくれる人がいるのです。たとい世界のすべての人があなたに敵対しても、神はあなたの父となり、イエスはあなたの友となってくださるのです。イエスは十字架の上で両手をいっぱいにひろげて、「わたしはあなたをこんなに愛しているよ」と語りかけていてくださるのです。

 この神の愛を知るとき、私たちは、自然と自分のうちから愛が流れ出るのを体験するのです。愛は分け与えて減るものではありません。むしろ、何倍にも増えていくものです。誰も声をかけてくれない、誰も私の話しを聞いてくれない、誰も分かってくれないとつぶやいていても解決にはなりませんね。自分から誰かに声をかけ、人の話しを聞き、相手の気持ちを分かってあげましょう。そのことによってあなたも人に話を聞いてもらい、気持ちをわかってもらえる、まわりの人から愛されているということを確認することができるのです。愛を受けたいと思うなら、愛を与えましょう。

 先週の牧師リトリートで、しばらくぶりにランチョラコスタ教会の大倉先生に会いました。先生の顔を見ると、かすかですが、傷があったのです。「どうしたの、夫婦喧嘩でもしたの」と誰かが聞くと、先生はほんとうにうれしそうに笑って「うちの息子がね、うれしいとぼくの顔を手でつかむんですよ。まだ一歳なので、手加減できずに、ぼくの顔をひっかいちゃったんですよ」と答えていました。かわいい息子なら、顔の傷も傷とは感じなくなるのですね。私たちも、「人間関係で傷つけられた」と良く言いますが、もし、私たちに真実な愛があれば、その傷も、大倉先生のように喜びになり、誇りになるのです。

 今朝の聖書の個所、ピリピ2:16-18で、パウロは自分の生涯をふりかえって「私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(16節)と言っています。パウロは自分が神の目に価値あることを知っていました。自分の生涯がキリストを宣べ伝えるためにあるのだということを知っていました。囚人となって伝道する自由を奪われても、それが彼に与えられた人生の目的を妨げるものでないことを知っていました。神のご計画はかならず実現すると信じていました。そして、パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」(17節)と言いきることができるほど人々を愛しました。彼の喜びは、このような信仰から、愛から出てきたのです。パウロは私たちに勧めています。「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」(18節)信仰から来る喜びに、神を愛し、他を愛することから来る喜びにおひとりびとりが満たされますよう心から祈ります。

 (祈り)

 私たちを限りない愛で愛していてくださる父なる神様。この朝も、あなたが私たちをどんなに大きな愛で愛していてくださるかを教えてくださり、感謝いたします。私たちは、あなたに愛されていることを知っているので、人生に喜びを感じることができます。あなたの愛が変わらない愛ですから、私たちの喜びも消えることはありません。この週も、あなたがくださる愛によって、その愛を信じ受け入れる信仰によって喜びにあふれた日々を送ることができますよう導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/11/2001