主イエス・キリスト

ピリピ2:9-11

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2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 一、イエスというお方

 使徒信条は父なる神への信仰の告白、イエス・キリストへの信仰の告白、そして聖霊への信仰の告白の三つの部分に分けることができます。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という部分が父なる神、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という部分がイエス・キリスト、そして「我は聖霊を信ず」という部分が聖霊への信仰の告白になっています。

 使徒信条では、父なる神が「父」、「全能者」、そして「造り主」という三つの言葉で描かれているように、イエス・キリストも、「父の独り子」、「我らの主」、「イエス・キリスト」という三つの言葉で描かれています。「父の独り子」については後にお話しすることにして、きょうは「イエス」、「キリスト」、そして「主」という、三つの言葉について学んでみたいと思います。

 「イエス」については、この人がベツレヘムで生まれ、ガリラヤで育ち、人々に愛の教えを語り、数々の奇蹟をおこなったことを、誰もが知っています。聖書を読んだことのない人でも、イエスの言葉のいくつかは耳にしているでしょう。19世紀に、聖書はたんなる宗教文学で歴史的裏付けのないものだという考えが起こりました。イエスという人が実在したことさえ受け入れない人が多く起こりました。ルー・ウォーレスもそのひとりでした。それで、彼は聖書がでたらめだということを証明しようとして、イスラエルに行きました。ところが、調べれば調べるほど、聖書が正しいことが次々と証明されていったのです。イスラエルは「バイブル・ランド」とも呼ばれ、聖書の舞台となり、イエスがそこに足跡を遺していかれたところだからです。ルー・ウォーレスは、ついに神の真理を受け入れ、回心を経験しました。そして、彼は、イエス・キリストを証しするため、1880年にひとつの物語を書きました。それが、あのエキサイティングな物語『ベン・ハー』(Ben-Hur)だったのです。

 たとえ、イエスの実在さえも疑う人であったとしても、少し調べてみるだけで、イエスというお方が、聖書に書かれている通りのお方であることが分かります。聖書以外の歴史文書もイエスについて証言しており、考古学の発見はどれも聖書の記述とぴったり一致しています。ほんとうにイエスはいたのだろうか、彼は聖書が言う通りの人だったのだろうか。それは調べてみるのに価値のあることです。なぜなら、「イエス」という個人名には「神、救いたもう」という意味があって、イエスはすべての人の救い主だからです。イエスは、私たちにとって無関係なお方ではありません。全世界のどこの誰であっても、このイエスはなくてならないお方です。あなたは、このイエスを知っているでしょうか。心から知りたいと願っているでしょうか。

 二、イエスはキリスト

 次に、イエスは「キリスト」と呼ばれています。「キリスト」は、ヘブライ語の「メシア」に相当する言葉です。「メシア」は日本語で「救世主」と訳されるように、それには「救い主」という意味があります。神は罪に沈んだ人類のために救い主を約束されました。その約束は人が罪を犯した時からあったのですが、救い主についての具体的な預言は紀元前二千年ほど前のアブラハムから始まりました。「アブラハム」という名前には「諸民族の父」という意味があります。神は、アブラハムの子孫を神の民とし、救い主はアブラハムの子孫から生まれると約束してくださいました。ところがアブラハムから三世代を経て、アブラハムの子孫は飢饉のためエジプトに移住し、そこでエジプトの奴隷となり、長い年月が経ちました。しかし神は、アブラハムとの約束を忘れず、モーセによって人々をエジプトから救い出し、ご自分の民としてくださいました。これを「出エジプト」と言います。

 神の民はやがて王を持つようになり、ダビデは二代目の王になりました。ダビデはアブラハムから千年後の人物、つまり、紀元前千年ごろの人です。「ダビデ」という名には「愛された者」という意味がありますが、彼はその名のように神に愛され、神はダビデの子孫から救い主が出ると約束してくださったのです。ダビデの子、ソロモン王のときイスラエルは最も栄えましたが、ソロモンの死後、王国は南北に分裂し、北王国はアッシリアに、南王国はバビロンに滅ぼされ、人々はバビロンに移住させられました。これを「バビロン捕囚」と言います。しかし、神は、バビロンに囚われていった人々を自分たちの国に返してくださいました。いったん奴隷となった民族が解放されることや捕囚に遭った民がもといたところに帰るということは古代ではありえないことでした。「出エジプト」や「バビロン捕囚」からの帰還は、まったく神の救いのみわざでした。そして、それは救い主によって与えられる罪からの救いの前触れや雛形となる出来事でした。

 しかし、バビロンからの帰還後もイスラエルの国は失われたままでした。イエスの時代には、ユダヤの人々はローマ帝国の支配のもとにあり、重い税や強制労働などに苦しめられていました。ダビデの子孫は、もはや王族ではなく、何の力もなく、名もない者となっていました。しかし、神は、ダビデへの約束の通り、ダビデの子孫であるヨセフを選び、そのいいなづけであったマリアから、救い主を生まれさせてくださったのです。アブラハムからダビデまではおよそ千年、そしてダビデからイエスまでもおよそ千年、神は二千年という長い期間、その約束を忘れず、ついに救い主を与えてくださったのです。マタイ1:1に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますが、これは、イエスが約束通りの救い主であることを示しているのです。

 三、イエスはキリスト

 イエスはまた「主」と呼ばれます。「主」とは古代には支配者や領主などに対する呼び名でした。英国などでは、今でも “Lord” という称号があって、あのウィンストン・チャーチルの父、ランドルフ・チャーチルは “Lord Churchill” と呼ばれました。身近なところでは、英語で家主のことを “Landlord” といいます。日本語では妻が夫のことを「主人」と呼びます。どちらも “Lord” や「主」という言葉が使われています。しかし、聖書で「イエスは主である」という場合、それはたんなる尊称、敬称としてではなく、イエスが「主の主」、最高の主権者であるという意味で使います。それによってイエスを神としてあがめ、主権者として服従することを言い表すのです。きょうの箇所に「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白する」とある通りです。初代の信仰者たちは、ローマ皇帝を神として礼拝するように強要されましたが、命がけで皇帝崇拝を拒否しました。「栄光の賛歌」にあるように、イエス・キリストだけを「聖なる方」、「主である方」、「いと高き方」お方としたのです。

 しかし、イエスが「主」と呼ばれるときには、もうひとつの意味があります。それは、私たち人間を愛し、人間に近づき、人間と共にいてくださるお方という意味です。旧約にある神の御名「ヤーウェ」はあまりにも尊いお名前なので、ユダヤの人々はそれをそのまま読まないで「アドナイ」(わが主)と読みかえました。それで、新約聖書でも、旧約で「ヤーウェ」とあったところは「主」と訳されたのですが、神が「ヤーウェ」の名で示されているところでは、神と人との密接な関係が語られています。たとえば、創世記の一章では、神のお名前には「力ある者」という意味の「エロヒム」が使われています。「はじめにエロヒムが天と地を創造された」(創世記1:1)というわけです。ところが、続く二章からは「ヤーウェ」のお名前が使われており、「神である主(ヤーウェ)は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7)とあって、神が人をご自分の生命で生かし、エデンの園に置いて、ご自分とのまじわりの中に入れてくださったことが記されています。人が罪を犯した後も、神である主(ヤーウェ)は「あなたはどこにいるのか」と、人に呼びかけ、悔い改めを促してくださいました。

 神はモーセにイスラエルをエジプトから導き上るよう命じましたが、モーセは最初、「私にはとてもそんなことはできません」と、神の召しを断りました。そのとき、神は「あなたがひとりでそれをするのではない。わたしがあなたと一緒にいて民を救うのだ」とモーセを説得し、ご自分を「わたしはヤーウェ、有って在るもの」と言われました。神ご自身が「ヤーウェ」という名の意味を明らかにしてくださったのです。私たち人間は、誰一人自分の力で存在していません。神によって造られ、生かされているのです。私たちは「あって無きがごとし者」だと言ってよいでしょう。しかし、神は、唯一、ご自分で存在しておられるお方です。まさに「有って在る」お方です。しかし、神がモーセに対して「わたしは在る」と言われたときには「わたしはあなたと共に在る」「あなたのために在る」という意味で語られたのです。「わたしは有る」というお方が、有って無きがごとし者と共にいてくださる。ここに人の救いがあります。「主」には、「人とともにおられ、人を救ってくださる神」という意味があるのです。

 イザヤはこう預言しました。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。』」(イザヤ書57:15)この言葉は、人となって人々の真ん中に住んでくださったイエスによって成就しました。イエスは聖なるお方でありながら、自分の罪と弱さ、また小ささと貧しさを知る人々と共にいてくださいました。マタイ1:23はイエスについて「『…その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」と言っています。イエスこそ主、私たちと共にいてくださる、インマヌエルの神、ヤーウェなのです。

 ピリピ2:9-11に、「イエス」、「キリスト」、「主」の三つのお名前が同時に出てきます。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、 すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」この箇所の「イエス・キリストは主です」というところは、文章の形になっていません。原文では「主」、「イエス」、「キリスト」の三つの言葉が並んでいるだけです。しかし、この三つが同時に書かれているところに、信仰の告白があります。イエスはキリスト、主であるという信仰の告白です。キリスト者であるというのは、イエスを歴史上の人物として認め、尊敬するというだけのことではありません。私たちの信仰は、この「イエス」というお方が、世界の救い主、「キリスト」であり、私が従うべき「主」、また私と共にいてくださる神であると、信じるところにあるあるのです。

 ルー・ウォーレスは『ベン・ハー』に「キリストの物語」(A Tale of the Christ)という副題をつけました。彼はイエスの歴史的実在さえ疑った人でしたが、イエスが聖書が伝える通りのお方であることが分かったとき、イエスがキリストであり、また主であることも理解することができました。彼の書いた物語では、復讐の念に燃えていたベン・ハーがイエスの十字架を仰ぎ見るうちに、憎しみの心が溶かされていきました。また、ツァラート(癩)に冒されていた母と妹が、イエスの復活と共に癒やさていきます。それは、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、復活によって新しい生命を受けた作者自身の体験の証です。彼がこの物語を「キリストの物語」と呼んたのは、この物語のほんとうの主人公がキリストであると言いたかったからだと思います。誰でも、イエスを知りたいと願う人、真剣にイエスを求め、その十字架と復活に向き合う人は、イエスがキリストであり、主であることが分かるようになります。そして、そう信じて救われ、人生が変えられるのです。イエス・キリストが、その人の人生の主人公となってくださいます。生きる目的と意味を知り、喜びに満たされて人生を力強く生きることができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちに、「主イエス・キリスト」という救いの御名をくださり感謝します。私たちは、時として、習慣的に「主イエス・キリスト」と唱えるだけで終わってしましますが、そうではなく、信仰と服従、そして礼拝の心をもって主イエス・キリストを告白することができますよう助けてください。主イエス御名で祈ります。

2/3/2019