福音のコイノニア

ピリピ1:3-7

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1:3 わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
1:7 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。

 一、コイノニアの手紙

 「業界用語」というのがあります。特定のグループの中だけで使われる言葉のことです。出版業界では、「耳垂れ」、「雨垂れ」というと、疑問符「?」や感嘆符「!」のことを言います。文字の形が耳たぶや雨垂れに似ているからです。旅館業界では「タヌキ」というと、「夕食ぬき」の泊り客を言います。漢字の「夕」が、カタカナの「タ」と似ているところから来ています。

 警察関係には、そういうことばがたくさんあります。「サンズイ」は「汚職」のことで、「ゴンベン」は「詐欺」、「ニンベン」は「偽物」のことです。漢字の一部から生まれました。

 銀行で「日本茶」というと「あやしい客」のことを言います。日本では、面会に来た来客にお茶を出す習慣がありますので、信用のおけない客が来た時には、女性の銀行員に「日本茶をお願いします」と言って、警戒するよう伝えるのだそうです。

 「業界用語」は教会にも多くあります。教会でしか使わない言葉や、一般とは違った意味で使うものが数多くあります。「まじわり」という言葉はそのひとつでしょう。「まじわり」、あるいは「まじわる」という言葉は、「朱に交われば赤くなる」などことわざで使われたり、「直線AとBとが交わる値を求めよ」など、数学の用語として使われたりする他は、現代ではほとんど使われません。「まじわり」の原語の「コイノニア」は英語では多くの場合“fellowship” と訳されますが、原語の「コイノニア」には、“fellowship” だけでは表わしきれない意味があります。日本語の聖書が「コイノニア」を「まじわり」と訳したのは、それが、一般の意味とは違うことを言いたいためだと思います。

 この「コイノニア」の意味を学ぶのに良い聖書があります。それは、ピリピ人への手紙です。ピリピ人への手紙には「コイノニア」という言葉が三回出てきます。1:5と2:1、それに3:10です。ピリピ人への手紙には、「コイノニア」という言葉が出てくるだけでなく、「コイノニア」の喜びが生き生きと描かれています。ピリピ人への手紙には「喜びなさい」という言葉が多く出てくるので、「喜びの手紙」と呼ばれますが、じつは、ピリピ人への手紙の「喜び」は、「コイノニア」にもとづく喜びなのです。ですから、ピリピ人への手紙は「コイノニアの手紙」と呼んでよいかもしれません。

 きょうは、ピリピ人への手紙に出てくる三つの「コイノニア」のうち、最初のもの「福音のコイノニア」について、ご一緒に考えてみましょう。

 二、福音に向かうコイノニア

 1:5の「福音にあずかっている」の「あずかる」と訳されているところに「コイノニア」が使われています。英語の訳では、“your fellowship in the gospel” となっています。“in the gospel” と、“in” が使われていますが、直訳すると“into the gospel” となります。“in” と “into” では少し意味が違います。“in” という言葉の意味は、図に書くなら円を書いて、その中に点を書いて表わすことができます。「円の外ではなく、中にある」という意味になります。“into”の場合は、円を書き、その円の外から円の中に矢印を書いて表わします。「円の外から、円の中に入った」という意味があります。そこには、方向性があり、運動があります。ですから、「福音にあずかる」とあるのは、「福音へのコイノニア」、「福音に向かうコイノニア」と言ってよいわけです。では、「福音へのコイノニア」とは何なのでしょうか。

 それは、今まで福音を聞いたことのなかった人たちがそれを聞き、信じ、福音の真理に立ち返ることを意味します。福音の外にいた人たちが、どんどんと福音の中に入ってくる様子を表わしているのです。

 「福音」、「グッド・ニュース」、それは、人を救う真理です。コリント第一15:2に「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」とあります。「この福音」とは、イエス・キリストの福音です。世の中には、さまざまな「グッド・ニュース」があります。IPS細胞を使った再生治療が進歩した。パーキンソン病に効果のある薬が開発された。災害に遭った人たちに支援金が出るようになった、など、たしかに「グッド・ニュース」です。しかし、人を罪と死と滅びから救い、天に導き入れる「グッド・ニュース」は、イエス・キリストの福音の他ありません。わたしたちはこの福音を信じて、その中に入ったのです。ですから、わたしたちの「コイノニア」は、一にも二にも、福音にかかっているのです。福音がわたしたちを結びつけているのです。福音が「コイノニア」を生み出し、形づくっているのです。

 ピリピ1:27、28にこう書かれています。「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。」「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」とあるのは、「福音」がたんなる理論や概念ではないことを教えています。福音は、わたしたちを内面から造り変えるもの、内面からはじまって、生活のあらゆる領域に変化をもたらすものです。しかし、その変化は戦いなしに生じるものではありません。聖書は、この世を「曲がった時代」と呼んでいます。信仰者が正しく生きようとすることは、曲がったところをまっすぐに進もうとするようなものですから、どこかでぶつかり、戦いが生まれます。偽りが横行しているところで、正直に、誠実に生きることは簡単なことではありません。「福音を信じる」ことから「福音に生きる」ことへと進んでいくことは決してたやすいことではないのです。

 この世は「福音を信じる」ことを愚かなこととし、「福音を生きる」ことを嫌うだけでなく、福音そのものを攻撃してきます。「攻撃して来る」といっても、現代のアメリカや日本では、あからさまな反対はありません。一応は聖書を受け入れるのです。しかし、神よりも人間のほうが大切だ、イエスは人に過ぎない、十字架は偶発的な出来事で、復活は弟子たちの幻想だ。大事なのはお互いに仲良くすることであり、善とか悪とかを決めないで何でも受け入れることなのだという思想を行き渡らせています。そうすることによって、福音を別のものと置き換え、「神が、そのひとり子イエス・キリストを遣わし、その十字架と復活によって人を救う」という聖書の一番大切な部分を骨抜きにしてしまうのです。

 そんな中で、わたしたちが福音の真理を保ち、福音にとどまり、福音に生きるため、教会は「一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦う」必要があるのです。福音を聞き、信じ、学び、それを生きる、そんな「コイノニア」の中で、福音は保たれます。そのような「コイノニア」が築きあげられるよう、熱心に祈りたいと思います。

 三、福音のためのコイノニア

 「福音に向かうまじわり」“fellowship into the gospel” の “into” には“for”という意味もあります。“fellowship for the gospel”「福音のためのコイノニア」というわけです。

 多くの教会で、こんなアナウンスメントがなされます。「皆さん、礼拝が終わりました。どうぞ、この後、まじわりを持って家にお帰りください。」人々は礼拝堂から出てフェローシップ・ホールに移り、コーヒーやドーナツをいただきながら言葉を交わし、それから駐車場に向かい、家に帰る。アメリカのどこの教会でもある一般的な光景です。そのアナウンスメントに間違いはありません。でも、コーヒー・タイムまで「まじわり」は無かったのでしょうか。礼拝が終わってからはじめて「まじわり」が始まるのでしょうか。いいえ、共に礼拝をささげるという事自体が、「まじわり」ではないでしょうか。礼拝とは、天の窓が開かれ、わたしたちが天使たち、聖徒たちとひとつになって神をあがめることです。「礼拝のコイノニア」以上の「コイノニア」があるでしょうか。晩餐式は、コーヒーとドーナツで人々とまじわるどころか、キリストの血とからだとの「コイノニア」を体験する場です。わたしたちはそこで、最も親密な「コイノニア」を持つのです。

 「愛餐会」は晩餐式とともに、初代教会から行われていました。しかし、それは、食事とおしゃべりを楽しむものではなく、貧しい人々に食事をふるまうためのもので、「アガペー」(愛)と呼ばれていました。「まじわり」イコール「飲み食い」という図式は初代教会にはありませんでした。飲み物、食べ物は、お互いに言葉を交わすのを助けてくれ、それも大切なものですが、「まじわり」をそれだけにせばめてはいけないと思います。互いの信仰の証を分かち合う、心を込めて共に祈り合う、共に奉仕を捧げる、それこそが「コイノニア」です。

 パウロは、ピリピの教会に「あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している」と言って感謝の言葉をしるしています。ピリピの教会は、パウロと親しい関係を持ち、パウロを支援した教会のひとつでした。この手紙は、ピリピ教会の支援に対するお礼として書かれています。しかし、パウロは、ピリピの教会の友情や支援以上のものをここで感謝しています。ピリピのクリスチャンの「コイノニア」が福音のためのものであること、福音宣教にかかわっていることを感謝しているのです。

 新改訳聖書は、ここを「福音を広めることにあずかって来た」と訳しています。「広める」という言葉は原語にはなく、これは解釈の伴った訳ですが、この訳は正しいと思います。なぜなら、教会が存在する理由のひとつは、福音を広めることだからです。教会が、そのために存在するなら、当然、教会の「コイノニア」も福音を広めるためにあります。

 わたしたちは「まじわり」というとき、「親しい人たちが集まって何かをすること」と考え、その集まりが「内輪」(うちわ)のものになりがちです。わたしはこれを「団扇(うちわ)の集まり」と呼んでいます。「団扇」というのは、パタパタと自分に風を送るものです。自分たちだけが涼しい風を受ければ良いという「団扇」(うちわ)の集まりになってしまうと、その集まりは自己目的化してしまいます。そうなると、その集まりは福音の宣教のために力をあわせて奉仕したり、新しい人を「福音の中へ」と導くことができなくなってしまいます。それが「福音のためのコイノニア」でなくなってしまうのです。

 わたしは、クリスチャンの集まりが「団扇の集まり」ではなく、「扇風機の集まり」になるといいと思っています。団扇は自分に風を送りますが、扇風機は、外に向かって風を送ります。首振り扇風機なら、右にも左にも広い範囲に風を送ります。福音の風を多くの人に届ける、そんな目的をもった集りから、救われる人が起こされ、証しびとが育てられていくのだ思います。

 ピリピの人々は、パウロの宣教を支援しただけでなく、自分たちの町での福音の宣教のためにも働きました。初代教会には、ひとりの人に福音が伝えられれば、それはたちまち家族、親戚一同に広まりました。ひとつの町に伝えられれば、その町から隣の町々、村々へと福音は広がっていきました。テサロニケ第一1:8に「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである」とある通りです。そして、福音が広められたところでは、人々が救われ、「福音のコイノニア」が生まれ、育ったのです。コロサイ1:6にこうあります。「そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。」

 わたしたちの「コイノニア」が「福音によるコイノニア」、また「福音のためのコイノニア」であるように心から願います。クリスチャンひとりびとりが、福音によって結ばれ、福音の宣教のために力を合わせることができるよう、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたがわたしたちに与えてくださった「コイノニア」が福音に基づくものであり、福音の宣教のためにあることを教えてくださりありがとうございます。わたしたちが、さらに福音を知り、福音に生き、家族、友人、知人に福音を伝えることができるよう、教え、導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/12/2018