心に憩いを与える人

ピレモン1-7

オーディオファイルを再生できません
1:1 キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、
1:2 姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。
1:5 それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
1:6 私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
1:7 私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。

 使徒パウロは教会や個人に宛てて数多くの手紙を書きました。それは教会から教会へと回覧され、礼拝で読まれ、書き写されて保存されました。新約聖書には、教会に宛てた九通の手紙と個人に宛てた四通のパウロの手紙が残されています。パウロの手紙は、教会宛てのものも個人宛てのものも、教えや勧告、指示がほとんどの部分を占めており、現代の手紙とはずいぶん違った内容です。しかし、パウロの手紙のいちばん最後に置かれた「ピレモンへの手紙」は、主題や内容、ことば遣い、また分量からみて、現代の手紙に近いもの、手紙らしい手紙です。パウロのどの手紙にも、パウロの神への愛、人々への思いやり、真理に対する情熱などを見ることができますが、「ピレモンへの手紙」にはパウロの心情がさらに細やかに描かれています。「ピレモンへの手紙」はパウロがピレモンの奴隷であったオネシモの処遇に関して書いた手紙で、パウロについてばかりでなく、ピレモンのことやオネシモのことからも多くを学ぶことができます。今朝はこの手紙の最初の部分から、ピレモンがどんな人だったかを学ぶことにしましょう。

 一、愛された人ピレモン

 ピレモンはまず、神に愛された人でした。ピレモンはパウロによって「愛する…ピレモン」(1節)と呼ばれています。英語では "beloved" となっており、現代訳では "dear friend" となっているものもあります。私たちが手紙や Eメールを書くときには、"Dear John" とか "Dear Kate" などと書きます。それが手紙を書くときの習慣や形式となっているからです。しかし、聖書では「愛する」ということばは、たんに習慣や形式以上のものとして使われています。新約聖書が書かれたギリシャ語には「愛」を表わす言葉がいくつかありますが、神の愛を表わすときには決まって「アガペー」が使われます。「愛する…ピレモン」というところでは「アガペー」から来た「アガペートス」という言葉が使われています。聖書で使われている「愛」は「キリストにある神の愛」を指しますから、パウロが「愛する…ピレモン」と呼びかけたとき、それは、ピレモンがパウロの友人であり、他の人々から好意を持たれているからというだけでなく、ピレモンが「キリストにあって神に愛されている」人だったからなのです。

 聖書によると、キリストを信じる人々はすべて「神に愛されている」とあります。たとえばローマ1:7でパウロはローマのクリスチャンに「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。」と呼びかけています。テサロニケのクリスチャンも「神に愛されている兄弟たち。」(テサロニケ第一1:4)「主に愛されている兄弟たち。」(テサロニケ第二2:13)と呼びかけられています。ユダの手紙のはじめにも「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」ということばがあります。

 神はもちろん、すべての人を愛しておられます。イエス・キリストは、その神の愛をもって、すべての人の罪のために、十字架の上で身代わりの死を遂げてくださいました。神に愛されていない人などいないのです。しかし、すべての人が、キリストにある神の愛にこたえているとは限りません。神の愛をまだ知らない人が大勢いますし、神に愛されているのに、その愛にそっぽを向いている人もいます。また、神の愛を求めながら、その愛を確信できないでいる人も多いのです。聖書が「神に愛された人」という場合には、キリストの十字架の愛を知り、信じている人のことを指します。そして、神に愛されている人は、その人のうちで神の愛が成長し、神を愛する人となるのです。パウロはローマのクリスチャンを「神に愛されている人々」と呼びましたが、同時に「神を愛する人々」とも呼んでいます。ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という力強いみことばがあります。ここではクリスチャンは「神を愛する人々」と呼ばれています。神と私たちの間にある愛は、神だけが私たちを愛している「片思い」の愛ではありません。私たちがその愛にこたえて神を愛する「相思相愛」の愛です。「神に愛されている人々」は同時に「神を愛する人々」になることが期待されており、そのように神の愛にこたえる人々のために、神はすべてのことを働かせて益とし、神の愛のあかしを立ててくださるということを教えているのがローマ8:28なのです。

 ピレモンにはそうした神の愛のあかしがありました。4節でパウロはピレモンのことを神に感謝していますが、5節で、「それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」と、その理由を述べています。また7節には「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。」とも書かれています。ピレモンの使徒パウロや他のクリスチャンに対する愛は、ピレモンが神に愛されていることのあかしであり、実りでした。自分の力で、自分の愛で人を愛そうとしたら限界があります。愛に生きようと真剣に努力する人は自分には愛が足りないことに気づいて自分に失望することもあります。愛は注ぎ出すだけではいつか枯れてしまいます。無いものは出すことができません。受けなければ与えられないのです。ローマ5:5に「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあるように、神と人とを愛して生きるためには、聖霊と信仰によって神とつながり、たましいに注がれる神の愛を豊かに受けていなければならないのです。「愛の人」と呼ばれた人たちは皆、人には知られない神とのまじわりの時を大切にし、そこで神の愛を豊かに受けていた人々でした。私たちもそのようなひとりになりたいと思います。

 二、同労者ピレモン

 次にピレモンは「同労者」と呼ばれています。パウロといっしょに伝道のために働いた人、パウロの「コ・ワーカー」と言うわけです。パウロは、テモテ、テトス、プリスカとアクラたちを「同労者」と呼んでおり、ピレモンへの手紙の24節にはマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカの名前もあります。ピレモンはそうした人たちとともにパウロの「同労者」のひとりに数えられており、それはとても名誉なことでした。ピレモンは裕福な人で、その邸宅の一棟が教会堂として使われていたようです。ピレモンは同時にその教会の牧師をしていたかもしれません。2節に「姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」とある姉妹アピヤは彼の妻、戦友アルキポは彼の息子で、父親のピレモンといっしょに、パウロに仕え、伝道の戦いを共に戦っていたのではないかと推測する人もあります。しかし、ピレモンが牧師でなかったとしても、自分の家を教会として提供し、教会の家主になるということによって、彼は十分にパウロの同労者となることができたのです。

 この時代には、まだ教会堂というものがありませんでしたので、財産のある信徒たちが自分の家を教会として提供しました。ところが、地方の役人たちは、財産のある信徒を狙って言いがかりをつけ、その財産を自分のものにしようとしていました。そうすれば、クリスチャンたちはもはやその家に集まることができなくなり、キリスト教が広まるのを防ぐことができ、自分のふところも肥やすことができたので、役人たちには一挙両得でした。そんなわけで、自分の家を教会に提供していた財産のあるクリスチャンはたちまち無一物になる危険があったのです。ピレモンはその危険を覚悟で自分の家を教会に提供し、そしてその教会を守り続けたのです。パウロが同労者と呼んだアクラ、プリスカ夫妻はパウロを守るために自分の首を差し出した人たちでした(ローマ16:3-4)。パウロはどの使徒よりも広い地域で働き、数多くの教会を建てましたが、それができたのは、パウロと同じ志を持ち、財産も命も惜しまない「同労者」がいたからだったのです。

 私たちはアクラ、プリスカのように伝道のために命をかける、ピレモンのように全財産を主にささげるということができなかったとしても、自分のできることで伝道のための「同労者」になることができます。ヨハネの手紙第三の5-8節に「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」ということばがあります。これは、生活の糧を神にのみ信頼し、真実に働いている伝道者を迎え、次の伝道地へと送り出してあげるようにとの勧めなのですが、「そうすれば、…彼らの同労者になれる」と教えています。だれもが、伝道者、宣教師と同じ働きをすることはできません。しかし、自分に与えられた力に応じて、自分のできることでそうした人々を心からサポートするなら、私たちも伝道者、宣教師の同労者になることができるのです。

 教会はしばしば「船」にたとえられますが、それは「客船」でしょうか。それとも「漁船」でしょうか。教会は人々を天の港に運ぶものですから客船のようものですが、同時に、イエスが弟子たちに「人間をとる漁師にしよう。」と言われたように、教会は人々をすなどる漁船のようなものでもあるのです。客船と漁船の違いはどこにあるでしょうか。客船は少ない乗務員で多くの乗客の世話をします。も乗務員は乗客の10パーセントぐらいでしょう。もっとも豪華客船では乗客ふたりに乗務員がひとり、あるいは乗客ひとりに乗務員がひとりという割合のものもあります。しかし、それでも最高50バーせんとです。ところが、漁船は100パーセントが乗務員です。だれひとりお客さんはいません。漁船ではみんなが乗務員、仕事の種類は違っても、だれもが働きます。教会が客船となって人々を天国に運ぶときには、わずかな働き人でもなんとかやっていけるでしょうが、漁船となって伝道しようとするときにはみんなが働き人にならなければ、決してできません。何かをしようと計画して話し合うとき、「こんなことをしたい。あんなことをしたい」と希望を述べるだけ、「こうすべきだ。ああすべきだ」と批判するだけでは、いっこうに話が進みません。「これは私がやります」「このことは私が引き受けましょう」というように、進んで奉仕を引き受ける声があがる話し合いは、神を喜ばせます。そのようにして、みんながすすんで働きあっていくとき、教会の伝道は進んでいくのです。

 三、憩いを与える人ピレモン

 ピレモンは神に「愛された人」と呼ばれ、伝道の「同労者」と呼ばれていますが、さらに、他の人々に「憩いを与える人」とも呼ばれています。7節に「私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。」とあります。ここで「力づける」という部分には「アナパウオー」という言葉が使われており、これには「休息を与える」「リフレッシュする」「休む」「リラックスする」などの意味があります。同じ言葉は20節の「私の心をキリストにあって、元気づけてください。」というところで使われています。コリント第一16:18の「彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。」、コリント第二7:13の「テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。」というところでも使われています。私はこの言葉を「憩いを与える」と訳してみました。

 人々の心を安心させ、安らぎを与えらるというのは、なんと素晴らしいことでしょう。それは、たんにすぐれた能力を持っている、人をひきつける魅力がある、強力なリーダーシップがあるという以上のものです。他の人に憩いを与えることができる人は、能力をひけらかす人よりも、むしろ謙遜な人でしょう。ピレモンは、教会の家主でしたから、彼の世話になっていない人は誰もいませんでした。彼にはすぐれたリーダーシップもあったことでしょう。しかし、彼はそれで高慢になり、教会の「主(ぬし)」にはなりませんでした。ピレモンはある程度の年齢に達していたでしょうが、決して先輩風を吹かせるようなこともしませんでした。主の前に謙虚に人々に仕えたに違いありません。そうでなければ決して人々の心に安らぎを、憩いを与えることはできないからです。人生の年輪を重ね、さまざまな試練を通して、主の前に謙虚にされた年配の信仰者からは、そんな憩いを感じることができます。私はどこの教会でもそうした人々に会ってきました。そして、心を温められ、励まされてきました。ある教会で、足が弱くなって教会に来るのにも、日常の生活にも娘さんに助けてもらわなければできない姉妹がいました。その娘さんといっても、もうお孫さんがいる年代なのですが、彼女はいつも「若い人たちの足手まといになっていて、申し訳なく思います。」と言っていました。けれども、彼女が礼拝に来ているだけで、その場の雰囲気が変わり、教会のみんなが温かいものを感じ取ることがでたのです。教会に若い人たちが大勢いるのは素晴らしいことです。しかし、教会にはこうした年配の信仰者も必要です。若い信仰者たちはこうした年配の信仰者たちから良いものを学ぶのです。教会は、世代を超えたた霊的な励まし合いによって前進するのです。

 私たちの神は、私たちの羊飼いです。私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23篇)今は、教会のカレンダーで「グリーン」のシーズンですが、「緑」は「いのち」「成長」とともに「いやし」を表わす色です。「水」もまた「いのち」と「いやし」を表わします。緑の牧場と憩いの水に導いてくださる神は私たちのたましいに憩いを与え、私たちの心だけでなく、からだにも、疲れた生活や傷ついた人生にもいやしをくださるお方です。イエス・キリストは「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。ですから、神を信じ、キリストに従う者は、自分自身が神からの平安、キリストからの安息を受け、それを他の人にも憩いを与えることができるようになりたいと願うのです。その人に会うとほっとする、その人がそこにいてくれるだけで、そこに憩いが生まれてくる、そんな人になれるなら、人々はそこに神の愛を見ることができるでしょう。自分自身が重荷に押しつぶされそうになっていたり、耐えられないような痛みを抱えているときは、なかなか他の人のことを心にかけ、その人のいやしのために何かをする余裕がなくなってしまうことがあります。しかし、多くの場合、他の人を慰めることによって自分も慰められ、人に与えることによって自分も良いものを受け取ることがありますから、そんな人になれるよう、ともに目標を目指しましょう。私たちもこの時代、この地域のピレモンでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに数多くの信仰の模範を、聖書の中に、歴史の中に、また私たちの身近なところに置いてくださっていることを感謝します。今朝、私たちはあなたの愛を知り、その愛に生きて、使徒の同労者となり、多くの人々に憩いを与えたピレモンのことを学びました。主イエスにならった聖徒たちの模範によって、私たちも主イエスにならうことができるよう導いてください。そして、人生の年輪を重ね、信仰の年月を重ねるにつれて後の世代のための良い模範とり、ピレモンのような愛の人となることができるように助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/11/2009