ネヘミヤの祈り

ネヘミヤ記1:4-11

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1:4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、
1:5 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。
1:6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
1:7 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。
1:8 しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。
1:9 あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。
1:10 これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。
1:11 ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。

 ネヘミヤ記には、エルサレムの城壁がネヘミヤのリーダーシップと人々の一致によって建て直されたことが書かれています。ダラス神学校の校長だったチャック・スゥインドール先生は “Hand Me Another Brick” という本で、ネヘミヤ記からクリスチャンのリーダーシップについて書いています。ベストセラーとなった “The Prayer of Jabez” の著者、ブルース・ウィルキンソン先生も、“The Vision of the Leader” というレッスン・ビデオをネヘミヤ記から作っています。ネヘミヤ記は、リーダーシップやヴィジョンといったことも学ぶことができる大変興味深い書物ですが、きょうは、ネヘミヤの祈りに焦点を合わせて学んでみたいと思います。というのは、エルサレムの城壁の再建は、ネヘミヤの祈りから始まり、祈りによって成し遂げられたからです。

 一、信仰の祈り

 ネヘミヤの祈りはどのような祈りだったでしょうか。第一に、彼の祈りは「信仰の祈り」でした。神殿が再建されて、すでに70年経っていましたが、エルサレムの城壁は壊れたままで、そこに住むユダヤの人々は、他の民族から圧迫を受けていました。そのことを知ったネヘミヤは心を痛め、ネヘミヤ記1:5-11に記されている祈りを祈りました。

 その祈りで、ネヘミヤは「天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方」(5)と神に呼びかけました。これは、神への信仰告白の言葉です。「祈り」は「願い」だけではありません。そこには、賛美、感謝、悔い改め、願い、とりなしといった要素があります。「神さま」という呼びかけの中には、すでに、「私はあなたを信じます」という信仰の告白や「私はあなたを信じたいのです」という信仰を求める思いが含まれています。そのような意味では、礼拝で唱える「使徒信条」もまた祈りのひとつだと言えるでしょう。私たちは「使徒信条」を唱える度に、「神さま、あなたは全宇宙を創造し、地球に生命を生み出した全能のお方です」と、神への信仰を言い表し、神を賛美するのです。

 すべての人をお造りになった神はどの人にも「祈り」の心をお与えになりました。人間だけが祈ることをします。また、人は誰に教えられなくても祈るようになります。無神論者でさえ、いざという時には祈ると言われています。それは、神が、聖書にある通り、人間を「神のかたち」に、また、神に向けてお造りになったからです。どの人にも祈りの心があります。どの人もさまざまな形で祈っています。しかし、誰に祈るのかを知らないため、何をどう祈ったらよいかが分からず、確かな祈りを捧げることができないでいるのです。人が持っている「祈る心」はまことの神を知るまでは満足することがないのです。

 こんな話があります。ある町に、スミスさんという人がいました。その日は彼女の誕生日でした。その町の花屋が注文を受けて、スミスさんに誕生日の花束を届けに行きました。注文を受けた時に聞いた住所に行き、その家にいた女性に花束を渡し「ハッピー・バースディ、ミセス・スミス」と歌いました。その女性は、にっこりしてこういいました。「ありがとう。でも、きょう誕生日を迎えるのは、私の母で、先月、私のおばのところに引っ越したんですよ。悪いけど、通りの向こうの、あの家に届けてくれませんか。」陽気な花屋は、「そうですか」と言って、花束を持ってその家に入りました。そして、出てきた女性に花束を渡し「ハッピー・バースディ、ミセス・スミス」と歌いました。けれども、それはスミスさんの妹でした。「ミセス・スミスは、車椅子に座っている、あの人ですよ。」そう言われて花屋は、改めて花束をミセス・スミスに渡し、「ハッピー・バースディ、ミセス・スミス」と歌いました。

 この一部始終を見ていた近所の人が「スミスさんでない人に歌ったりして、おまえはなんてまぬけなんだ」と花屋にいいました。すると花屋はこう答えました。「ええ、私は、スミスさんでない人に歌ってしまいましたが、それでも、私は歌うたびにスミスさんを心に描き、スミスさんに向かって歌っていましたよ。本人を目の前にした時は、今までの思いを全部込めて歌いましたけどね。」

 まだ、まことの神を知らない人も、懸命に願い、祈ります。時には神を信じる人よりも熱心で真剣な場合もあるでしょう。しかし、そうした人たちがまことの神を知るようになったなら、「ああ、私の心はずっとこの方を求めていたのだ。今、やっと私は祈りを聞いてくださるお方を知って、ほんとうの祈りができるようになった」と言うことができるようになることでしょう。

 イエスはサマリヤの女性に「わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています」(ヨハネ4:22)と言われました。サマリヤの女性はそれに答えて「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」と言いました。するとイエスはそれに対して「あなたと話しているこのわたしがそれです」、つまり「わたしがキリストです」と言われました(ヨハネ4:25-26)。キリストはすでに来られ、世界中のどの人も、聖書によってまことの神を正しく知ることができるようにしてくださったのです。

 私たちも、聖書に教えられ、神がどのようなお方なのかをもっと知りましょう。そして、聖書によって教えられたとおりに、神を呼んでみましょう。漠然と「神さま」と祈るのではなく、生きておられ、私たちに目を向け、祈りに耳を傾けてくださるお方に向かって、「私を愛してくださった神さま」「私を導いてくださる神さま」「すべての善いものを与えてくださる神さま」などと祈ってみましょう。そうした呼びかけを神は喜んでくださいます。

 二、悔い改めの祈り

 第二にネヘミヤの祈りは「悔い改めの祈り」でした。ネヘミヤは「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした」(1:6-7)と祈りました。ネヘミヤはバビロン捕囚からおよそ100年以上もたってからペルシャで生まれた人でした。ネヘミヤ自身は捕囚という罰に値いするような罪を犯してはいません。しかし、彼は、神の民全体の罪を自分の罪として悔い改めました。これは、じつにへりくだった祈りです。ネヘミヤは、人間には、神に『こうして欲しい』と願い出る何の権利もないことを知っていました。そして、その上で神のあわれみを求めました。

 祈りとは自分の願いを神に押し付けることではありません。まして、神に「こうしろ」「ああしろ」と命令することではありません。すべてのものの主権者である神は、人間に命令を与えることができますが、人間が神に命令することはできません。日本のある地方には「縛り地蔵」というのがあって、地蔵を縄で縛り、馬で引き回すのだそうです。「おらたちの願いを聞かねえと、ひどい目にあわすぞ」と、日頃、手を合わせて願をかけている地蔵を脅迫するわけです。私たちも神の前にへりくだって悔い改めることを忘れると、主権者である神に命令するようなことをしてしまいかねません。

 ルカ18章の「取税人」は「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈りました。そして、イエスは、自分の功績を誇らず、自分の罪を認めて、ただ神のあわれみを求める切実な祈りが神に受け入れられると言われました。神には私たちの祈りに答えるどんな義務もありません。祈りが聞かれるのはただ神のご真実とあわれみによるのです。天からの雨は高いところにはとどまらず低いところへと流れていきます。そのように、神の恵み、あわれみ、祝福は、悔い改め、へりくだり、あわれみを求める人へと注がれるのです。

 三、不断の祈り

 第三に、ネヘミヤの祈りは「不断の祈り」(Unceasing Prayer)、絶えず祈る祈りでした。ネヘミヤは、エルサレムの復興のために、日々祈り続けました。

 ネヘミヤ記1:11でネヘミヤはこう祈りました。「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」「この人」というのは、ペルシャ王アルタシャスタのことで、一般の歴史では「アルタクセルクセス」の名で知られています。ネヘミヤは王の「献酌官」でした。「献酌官」といっても王に酒を注ぐことだけが仕事ではありません。王の側近くにいて、政治にも関わっていました。ネヘミヤは、ユダヤ人である自分にそのような立場が与えられているのは、エルサレムの復興を王に願い出、そのために働くためであると確信しました。それで、自分がエルサレムに行くことについて、王の許しが出るよう、神に願い祈り続けていたのです。

 ネヘミヤがエルサレムの現状を聞いて、そのために祈ったのはアルタシャスタ王の第二十年の「キスレウの月」(ネヘミヤ1:1)でした。ネヘミヤが「献酌官」として王の側近くに行く機会を得たのは「ニサンの月」(ネヘミヤ2:1)でしたから、ネヘミヤは「キスレウ」から「ニサン」までの四ヶ月の間、祈り続けたことになります。

 ネヘミヤの心はエルサレムのことでいっぱいになっていましたので、王の前でしおれていました。それで、王から「あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない」(2:2)と言われてしましました。ネヘミヤは王を不機嫌にさせたのではないかと恐れましたが、正直に自分の心の中にあることを話すと、王は「では、あなたは何を願うのか」と言いました。王はネヘミヤに「願いを聞き入れよう」と言ったのです。王がこんなにも寛大な申し出をしたのは、神が王の心に働きかけてくださったからでした。「この人の前に、あわれみを受けさせてください」という祈りが聞かれたのです。

 「そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた」(2:4-5)とあるように、ネヘミヤは、王の申し出を聞いたとき、心の中で、一瞬のうちに祈りました。このような即座の祈りは、いつも祈っていなければできるものではありません。聖書は「絶えず祈りなさい」と教えていますが、それは、どんな仕事もせずに、目覚めたときから眠るときまで祈り続けるということを言っているわけではありません。一日の中には祈りの時間があり、労働の時間があり、休息の時間があり、また生活の時間があります。そうした時間を正しく配分し、規則正しく守っていくことはとても大切なことです。しかし、祈りは、祈りの時間だけで終わるのでなく、働くときも、休むときも、私たちの心の中にあるべきものなのです。祈りの心で働き、祈りの心で休むということです。そうした祈りがあってはじめて、大切な場面で神の導きを得ることができるのです。「不断の祈り」は「普段の祈り」でもあるのです。日々に生活のどんな小さなことでも祈っていくということです。普段祈っている人は、いざという時、力ある祈りができ、祈りの答を見ることができるようになります。そのような祈りによって、神に祈ることのできる幸いを味わい、神が祈りに答えてくださる恵みにあずかりたいと思います。

 (祈り)

 真実であわれみ深い神さま。私たちはあなたに要求する何の権利も持っていませんが、あなたの真実に信仰をもって答え、へりくだってあなたのあわれみを求めるとき、あなたは、私たちの祈りに聞いていくださると約束されました。そのことを信じて祈り続ける私たちとしてください。私たちに祈るべきお方を教えてくださったイエス・キリストのお名前で祈ります。

2/16/2020