墓場に住む人

マタイ8:28-34

8:28 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
8:30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
8:31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
8:32 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。
8:33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。

 最近は、衛星放送やインターネットのおかげで、アメリカにいても日本の様子が手にとるように分かるようになりました。しかし、最近、日本から入って来るニュースは暗いものが多く、中学生や高校生が人殺しをしたり、親が子どもをいじめて殺したりと、背筋の凍るようなものばかりです。もちろん、このようなことは昔もありました。しかし、だれもがそれを異常なこと、特殊なことだと感じていました。ところが現代では、「また、同じようなことが起こったか」としか感じられなくなり、それを異常なこととして受け止められなくなってきているようです。異常なことが続けて起こるのは恐ろしいことですが、異常なことに平気になってしまうのはもっと恐いことですね。世の中が、人の心がどこか狂ってきているように思います。どうして世の中はこんなふうになってしまったのでしょうか。そんな世の中で私たちは確かなものや生きる希望を見つけることができるのでしょうか。今朝の聖書には、イエス・キリストが墓場に住む狂った人たちを正気に立ち返らせたことが書かれていますが、異常なことが次々と起こるこの時代に、どうしたら正常に生きることができるかを、ここから学んでみたいと思います。

 一、墓場に住む人の姿

 ユダヤの国のすぐ隣にガダラという町がありました。ここは、かってはユダヤの国だったのですが、イエスの時代には、もうユダヤの国ではなくなっていました。それは、この町で豚が飼われていたことから分かります。ユダヤでは豚は汚れた動物として決して飼われることはなかったからです。イエスの時代のユダヤの人々は「自分たちは神に選ばれた神の民だ」と誇り、他の国々の人を見下していましたが、その当時のユダヤの人々は頑固で不信仰で、決して自分たちを誇ることのできるような状態ではありませんでした。しかし、ユダヤの国には、なお、他の国々よりも優れたものが残っていました。それは、ユダヤの人々が、この世界を創造された唯一のまことの神を知っていたということです。ユダヤの国には、まことの神を知る知識の光がありましたが、他の国々は、まことの神を知らず霊的には暗黒でした。ガダラの町も、ユダヤの国のすぐそばにありながら、人々はまことの神を知りませんでした。暗闇では暗闇の力が働きます。そこでは悪霊たちが力をふるい、悪霊につかれた人々がその町の墓場に住んでいました。この人たちは人の心を失い、他の人々と隔離され、何の目的もなく朝から晩まで墓場の中を歩き回わるだけの生活をしていたのです。皆さんは、この人たちのことを考える時、恐ろしいと思いますか、それとも哀れに思いますか。あるいは、自分たちに関係のない物語だと思いますか。私は、このガダラの狂った人たちの姿の中に、現代の私たちの姿があるように思います。もちろん、みんながこの人たちのように狂った生活をしているわけではありません。けれども、普通の生活をしている人々も、この人たちと同じように、人の心を失いかけ、他の人と関わりを持とうとせず、何の目的もなく人生を送っているように思います。聖書の光に照らして見みると、ガラダの墓場に住んでいた人たちと、私たちの間にいくつかの共通点があることに気がつくのです。

 第一に、この人たちは墓場に住んでいました。墓場というのは、生きた人間の住むところではなく、死人の住み家です。「死人の住処に生きた人間がいる」―何か変だと思いませんか。これは、彼らが「生きながらの死人」であったことを意味しています。肉体は生きていても、この人たちは社会的には死んだも同然で、他の人といっしょに生活できませんでした。それだけでなく、神の目から見て、霊的に死んだものでした。聖書は、生きる意味や目的を見失っている状態、人間として本来あるべき姿を失っている状態を霊的に死んだ状態だと言っています。たとえ、多くの知識があり、仕事をする能力があり、道徳的な行いができたとしても、霊的に死んでいる人は、神が私たちに与えてくださった本来の生き方をすることができないのです。

 戦後まもなく、日本のいろんなところにアメリカ軍が駐留していた時のことですが、あるアメリカ兵が日本で一番立派な自動車に乗りたいと思いつきました。いろいろな自動車を探したのですが、アメリカにあるような立派な車はありませんでした。ところがある日、アメリカのキャンピング・カーのようなものを見つけました。屋根や窓がついていて、しかもそれが日本の古代建築のようになっていました。黒塗りでところどころに金色の装飾が施され、アメリカのキャンピング・カーよりも豪華なものでした。このアメリカ兵はその車がたいへん気に入って、「ぜひこれに乗りたい」と掛け合いました。車の持ち主は「これは普通の人は乗れないんです」と渋ると、「普通の人が乗れないなら、なお、乗ってみたい」と無理やり、その黒塗り、金ピカの車に寝そべって乗り、窓からVサインを出して町を一周したというのです。お分かりですね。このアメリカ兵は霊柩車に乗って町をひとまわりしたのです。これは笑い話にすぎませんが、私たちも、死人を乗せる乗り物に乗って、墓場に向かうような生活をしているかもしれません。それでいて、そうした自分の姿に気付いていないとしたら、それほど不幸なことはありません。

 第二に、墓場に住んでいた人たちは自分の力以上のものに支配されていました。彼らは自分の意志や理性でなく、悪霊の力に左右されていたのです。自分では、自由、気ままに生きているつもりでいたのでしょうが、実は、悪霊に縛られていたのです。多くの人は、聖書に「悪魔」や「悪霊」について書かれていても、聖書のことばどおりに信じようとはしませんでした。しかし、最近はあまりにも異常なことが起こるので、人々はこの世界の背後に、目に見えないところで働いている霊的な存在があることを認めるざるを得なくなっています。しかし、聖書から離れて、悪魔や悪霊のことに興味本位で首を突っ込むと、かえって悪魔や悪霊のとりこになってしまいますから、気をつけてください。この世界の背後に働く霊があることは事実ですが、神は、目に見えるものも、見えないものも、一切のものの主権者であり、悪魔や悪霊をも支配されるということを、しっかりと覚えておかなくてはなりません。

 聖書によると、神から離れた人は、自分以上の霊的な力に縛られているというのです。エペソ2:1-2にこう書いてあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1-2)これは、何もすべての人が悪霊つきであるということではありません。悪霊つきというのは、特別なケースです。しかし、キリストによって悪霊から解放されるまでは、自分で意識していようがいまいが、なんらかの形で悪霊の影響のもとにあったのです。ドラッグやアルコール、ギャンブルなどにのめりこんでいる人を見ると、その人たちが、その人たち以上の力に支配されていることがよく分かります。アルコール中毒の人は「お酒を止めようと思えばいつでも止められる」というのですが、実際は、お酒に飲まれており、お酒にコントロールされていて、自分では止めることができないでいるのです。ドラッグやアルコールばかりではありません。ねたみや怒り、思いわずらいや自己憐憫といったものも私たちをその中に束縛して逃れられないようにします。うらないやまじないを続けている人はかならず人格的におかしくなります。それは、そうしたものの背後に霊的な力があるからです。そのため、自分でコントロールできるはずの自分を自分でコントロールできなくしてしまうのです。

 第三に、このガラダの墓場に住む人たちは、他の人に危害を加え、また、自分で自分を傷つけていました。罪は、それがどんなに魅力的に見えても、最後には人を傷つけ、自分を傷つけてしまうものです。ドラッグは一時的に快楽を与えても、やがて肉体を蝕み、頭脳にダメージを与え、人格と生活を狂わせて、回りの人まで苦しめます。「あなたも億万長者になれる」と、ギャンブルはあなたをさそうでしょうが、最後には財産をなにもかも無くさせ、ギャンブルをする人とその回りの人々を滅ぼすのです。

 ドラッグやギャンブルばかりでなく、私たちの心の中に潜む解決されていない問題も私たちを駄目にします。ドラッグやギャンブルに走り、犯罪を犯す人のほとんどが、優越感や劣等感、怒りやねたみ、自己中心や欲望などに心を支配されていることが、リサーチの結果知られています。優越感や劣等感、怒りやねたみなどが解決されないで、心の中に積み重ねられていくなら、それらが、いつ、どの瞬間に人を傷つける言葉となり、行いとならないとも限りません。そして、人を傷つけたなら、必ず、自分もそれによって傷つくのです。

 生きながら死んでいる、身勝手に生きているようで縛られている、そして人を傷つけ、自分を駄目にしていく―ガラダの墓場に住む人たちの姿は、現代の私たちの姿を映し出しています。

 二、イエス・キリストの救い

 神から遠く離れ、悪霊にとりつかれ、人を傷つけ自分を傷つけているこの人たちはどうやって救われるのでしょうか。何の希望もないように見えます。「希望を持て」と言っても無理な状態ですね。しかし、イエス・キリストが、この人たちのところに近づいて来られました。イエス・キリストはユダヤ人の誰もが、汚れた土地として足を踏み入れなかったガダラの地に、ご自分の方から来てくださったのです。ガダラの町の人たちも恐れて近づこうとしなかった墓場にイエス・キリストは来てくださったのです。ここに、私たちの希望があります。

 キリストは、救いを必要とする人々をいつも心に深く留め、その人の所に来てくださいます。イエス・キリストは救いを必要とする人がどこにいるかご存知です。イエスはその人がどこにいようと、その人がいる所まで来てくださいます。ある時、イエスはユダヤ人の誰もが嫌っていたサマリヤの町にわざわざ行かれました。サマリヤの町のひとりの女性が救われるためでした。エリコの町に行かれた時は、その町で一番の嫌われ者ザアカイの家に泊まりました。ザアカイにはイエスの救いが必要だったからです。イエスがザアカイに言われたように、イエスは「失われた人を捜して救うために来」てくださったのです。(ルカ19:10)

 イエス・キリストが「来てくださった」という時、それは、神のもとから来てくださったということを意味します。神の御子であるお方が、私たちを救うために、神と共に持っておられた栄光の一切を、お捨てになって地上に来られたのです。イエスはご自分の持っているものを、求める人々に与えて、与えて、与えつくされ、最後にその命までもお与えになりました。私たちすべての罪を背負って、十字架で死んでくださったのです。イエスと共に十字架にかけられた犯罪人のひとりは死のまぎわにイエスを信じましたが、イエスはこの人を天国に導くため、その人のそばに行くために十字架にかかられたと言っても良いでしょう。イエス・キリストは救いを必要とする人のためには、墓にも、死者の世界にまでも降ってくださったお方なのです。イエスは、今も、救いを必要としている人々のところに来てくださいます。誰であっても、イエス・キリストを素直な心で、心に迎える時、その人に救いが来るのです。

 ガラダの町の人たちは、イエスが墓場に住む人から悪霊を追い出してくださったのに、そのことをイエスに感謝するどころか、失った豚を惜しみ、イエスを追い返してしまうのです。ガラダの人々にとって、悪霊につかれた人々が救われるよりも、豚のほうが大切だったのです。ガラダの人たちはイエスの救いも、神の力も要らなかったのです。そんな中で、この悪霊につかれた人たちだけがイエスのもとに来たのです。イエスのもとに来たと言っても、それは、もちろん、この人たちの意志ではありません。実際は悪霊がイエスのもとにきたのです。悪霊は、イエスが神の子であることを知っていて、とんでもないお方が自分のところに来られた、自分たちは彼から逃げ隠れはできない、このうえは、自分たちを滅ぼさないように、イエスに嘆願するほかないと考えたのです。人間の方は、自分たちの救い主を迎えようとせず、かえって悪霊の方が、彼らの裁き主を恐れてイエスのもとに来たというのは、なんと皮肉なことではありませんか。もし、私たちのところに来てくだったイエスを無視し続けるなら、私たちは悪霊以下になってしまうかもしれません。私たちは、いつもイエス・キリストに対して素直な心でありたいと思います。

 もし、まだイエス・キリストを心に迎え入れていない方がこの中におられるなら、今朝、謙虚な思いで、あなたのもとに来てくださっているイエス・キリストを心に受け入れませんか。イエス・キリストこそ、私たちを、私たちの本来あるべき姿に戻してくださる、救い主だからです。

 (祈り)

 父なる神様、多くの人々は生ける、まことの神であるあなたから離れ、人の心を失いつつあります。社会はますます混乱を深め、人々は時代の流れに流されています。若者たちの多くが生きる意味も目的も見失っています。ひとりでも多くの人々が、イエス・キリストを見出し、心に受け入れ、人生の希望を見出すことができますよう導いてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/5/2001