からだのいやし

マタイ8:14-17

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8:14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。
8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 今朝は「からだのいやし」について学びます。祈りのリクエストの中でいちばん多いのが病気のいやしです。近年、「いやし」という言葉はずいぶんポピュラーになりましたが、聖書では「たましいのいやし」、「こころのいやし」、そして「からだのいやし」を教えており、神を信じる者たちはみな、神が私たちのたましいとこころとからだのすべてをいやしてくださるお方であることを信じています。多くのひとびとの病気をいやされたイエス・キリストは生きておられ、今も私たちをいやし続けてくださっているからです。

 この「からだのいやし」については、いやしと罪、いやしと信仰、いやしと祈り、いやしと医学、いやされない病気などの多くの主題があり、とても一回で話しきれるものではありません。それで今朝は、イエスが何のためにいやしをなさったかにしぼってお話をしたいと思います。

 一、イエスが救い主であることをあかしするため

 イエスが数多くのいやしをなさったのは、第一に、ご自分が救い主であることを人々に示すためでした。聖書ではいやしをはじめとするさまざまな奇蹟を「しるし」と呼んでいます。「しるし」(サイン)というのは、何かを指し示すものです。こどもが歩いている絵のついた黄色い三角形のサインがあると、それは近くに学校があるというしるしです。近くに学校があって、こどもが道路を横断するかもしれないので、車のスピードを落としなさいということを、このサインは伝えているのです。そのように、イエスのなさったいやしもイエスが救い主であるというメッセージを語るサインなのです。

 マタイ11:3-6にこう書かれています。

さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、らい病に冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
バプテスマのヨハネの質問に、イエスはご自分のなさっておられる奇蹟やいやしを示して、ご自分が「来るべき方、メシア、救い主」であると答えておられるのです。

 ヨハネ20:30-31には

この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
とあります。イエスがなさったいやしは、イエスが神の子キリストであることを教え、私たちを信仰に導くためのものなのです。しかし、人々の中には、「イエスの教えは素晴らしけど、聖書には奇蹟やいやしなどがあるから信じられない」と言う人もいます。奇蹟やいやしは非科学的で信じられないと言うのですが、もし、イエスが奇蹟もいやしもできないお方だったら、いったいどうやって人々とこの世界を救うのでしょうか。人間のたましいを救うお方が、人間のからだをいやせないわけがありません。

 私は、はじめて聖書を読んだとき、マタイの福音書の5章から7章にある「山上の説教」にとても感動しました。素晴らしい教えだと思いました。しかし、この教えに比べて、自分はなんと罪深いのだろうと思いました。そう思いながら続く8章のはじめで、イエスがらい病をきよめられたことを読んで、「らい病をきよめることができたイエスだからこそ、私のこころをもきよめることができるのだ」ということを信じることができたのです。

 ある人が自分のお兄さんに連れられてはじめて教会に来ました。そのときの説教はイエス・キリストの復活についてでした。お兄さんは、無神論者の弟がいきなりキリストの復活の話を聞かされて大丈夫だろうかと心配したのですが、その弟は「身も心も疲れ切っている私を救うことができるお方がいるとしたら、それは死んでも生き返るお方のはずだ」と考えて信仰を持ったというのです。復活はイエス・キリストが救い主であることの最大の証拠ですが、イエスのなさったいやしや奇蹟もイエスがキリストであることの証拠、証明なのです。

 マタイ8:14-15にはイエスがペテロのしゅうとめの熱病をいやされたことが書かれています。ここをルカの福音書で読んでみると、「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、…」(ルカ4:39)と書かれています。「しかりつける」という言葉はマタイ8:26にも繰り返されています。ガリラヤ湖で嵐にあった弟子たちのためにイエスは風と湖をしかりつけてそれを鎮められたのです。弟子たちは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(マタイ8:27)と言って大いに驚きました。イエスは熱病をしかりつけることによって、ご自分が天と地のすべてのものの上に立つ力あるお方であることを示してくださいました。そして、同時に、イエスが、病気で苦しむ者、嵐に悩む者に深く同情し、それを思いはかってくださるお方であることをも示してくださいました。

 私がこどものころ、近所に大きいお兄ちゃんがいて、小さいこどもがいじめられていたら、いじめっ子をしかってくれました。こどものころ、そのお兄ちゃんがとても頼もしく思えたものです。そのようにイエスも、病気やその他の私たちを苦しめるものをしかってくださるのです。このように、いやしはイエスの力だけでなく、イエスの愛をも私たちに示してくれます。

 私たちは病気のとき祈ります。そして、いやされます。思うとおりにいやされないときがあるかもしれませんが、神は私たちのたましいに、こころに、からだに働いてくださいます。私たちはいやしをいただくと共に、それによってイエスを知る知識をも受けます。いやされるたびにさらに深く主を知ります。ですから、いやしを祈り求めるたびに、「このいやしによって、主イエスを示してください」と願い求めていきましょう。

 二、いやされた者がが主のために生きるため

 いやしの目的は第二に、いやされた者が主のために生きるようになることです。ペテロのしゅうとめはいやされてどうしたでしょうか。マタイ8:5に「イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」とあります。イエスによって熱病を治してもらったペテロのしゅうとめは、すぐに立ち上がってイエスをもてなしはじめたというのです。ふつう高い熱を出した場合、熱が下がったからといって、すぐに起き上がって人をもてなすようなことができるわけはありません。熱は下がっても、まだからだはふらふらしていて働く力がないのが普通です。しかし、ペテロのしゅうとめはすぐにイエスのために働きはじめました。これは、イエスのいやしが完全なものであることを示しています。また、それと同時に、イエスによっていやされた者は、イエスのために生きるようになることも教えています。イエスが私たちの病気をいやしてくださるのは、私たちが健康なからだで主イエスに仕えるためなのです。

 私は学生時代、ある内科医院の夜間診療の受付の仕事をしていました。受付と診療室の間にはドアがないので、医者と患者との会話が聞こえてきます。ある患者が風邪で熱があってふらふらしながらやって来ました。医者が「薬をあげるから、ゆっくり休みなさい」というと、患者は「いや、明日は友だちとスキーに行くことになっているんです。なんとか熱がさがりませんか。注射を打ってくださいよ」とせがみました。医者はやむなく注射をうってから、「無理をするんじゃないよ」と言い聞かせていました。「遊びにいきたいから病気を治してくれ」というのは、ずいぶん都合のよい要求ですが、私たちもいやしを祈り求めるとき、自分の都合が先に出てしまうことがないでしょうか。いやしを願ってもすぐに聞かれないと、「これだけ祈っているのに、どうして何もしてくれないのか」といった、的外れな不満を持ってしまうことがあるかもしれません。神には神のご計画があります。そして、それは私たちにとって最善であり、それが最も良く神に仕える道なのです。せっかくいやされても、それに感謝していっそう神とイエスに仕えることに励むのでなければ、いやしの意味がなくなります。いやしを求めるとき、いやされたら、その健康をもってどう主イエスに仕えようかと考えてみるのは良いことです。そうすれば、いやされた後の生活がいやされる前の生活よりももっと充実したものになるでしょう。いやされるたびに、さらにより良く主イエスにお仕えしていく、そんな私たちでありたいと思います。

 三、罪とその結果を贖うため

 第三に、イエスがいやしをなさったのは、人間の罪とその結果のすべてをご自分の身に引き受けるためでした。続く16-17節にこうあります。

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:16-17)
「預言者イザヤを通して言われた事」というのは、イザヤ書53章にあることばのことです。イザヤ書53章はイエス・キリストの十字架の預言です。そこには、イエスがいけにえの子羊のように、人々の罪を背負って死なれることが予告されています。旧約時代には、人々が罪のゆるしを受けるためには、子羊などの動物を神殿に持っていき、それに手をおいて、祭壇の上でほふりました。いけにえの動物に手をおくというのは、人間の罪をその動物に移しかえることを意味しています。しかし、動物の犠牲には、すべての人の罪をゆるし、きよめる力はありません。そこでイエスはご自分がいけにえとなって、過去、現在、未来にわたるすべての人のための完全な犠牲を、ただ一度限り、神にささげてくださったのです。

 このために、イエスは、神を神として認めない人類の罪と、そこから来るさまざまなゆがみ、ひずみ、争い、痛みのすべてをご自分の身に負われました。病気もまた人類の罪の結果で、もし、この世界に罪が入ってこなければ病気も死もなかったのです。イエスは私たちの病気を引き受けることによって、人類の罪とその結果を引き受けられたことを示されました。病気が罪の結果であるというのは、すべての病気がある特定の罪から来ているとか、病気をした人は健康な人より罪深いなどということを言っているわけでは決してありません。イエスはペテロのしゅうとめに、熱病になったのは、これこれの罪のせいだといって彼女を叱ったのではなく、彼女を苦しめていた熱病のほうを叱られたのです。イエスは決して病気の人を責めてはおられません。イエスのもとに病人が連れてこられるたびに、イエスは「彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された」(マタイ14:14)のです。しかし、イエスはある人の病気をいやし、「もう罪を犯してはなりません」(ヨハネ5:14)と戒められたこともありました。個々の病気が特定の罪と関連していなかったとしても、私たちは、病気の根源が人間の罪にあり、自分もまた罪びとであり、イエスがその罪のために死なれたことを覚えて、罪びととしての悔い改めをもっていやしを願いたいのです。それによって、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの素晴らしさを知り、たんに健康を取り戻すだけでなく、イエスの豊かないのちによって生きることができるようになるからです。

 こののち行われる聖餐は、イエスが神の子羊となって十字架の上でささげられた犠牲を再現するものです。パンが裂かれ、私たちの口の中で砕かれるとき、イエスがそのからだにありとあらゆる傷を受け、そのたましいにあざけりとののしりを受け、私たちが病気になって味わう痛みや苦しみのすべてをイエスが引き受けてくださったことを覚えるのです。杯をいただくときには、罪の支払う報酬である死をイエスが全部引き受け、私たちにご自分のいのちを差し出してくださったことを覚えるのです。聖餐の式辞に「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリント第一11:26)とあるように、聖餐は物言わぬ説教です。聖餐にあずかるすべての者が「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」と、まずは自分に向かって、それから他の人に向かって説教するのです。聖餐はイエスのいやしをいただく時です。聖餐のテーブルに集い、ここでいやしを受けましょう。そして、イエスが私の主であることを喜び、この主に仕えていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエス・キリストは私たちがゆるされ、いやされ、救われるためのすべてのことを成し遂げてくださいました。旧約の人々が動物の犠牲に手をおいたように、私たちも信仰の手を主イエスにさしのばします。主イエスの受けた傷によって私たちをいやし、その十字架の死によって私たちを生かしてください。神の子羊、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/26/2010