お心ひとつで

マタイ8:1-4

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8:1イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
8:2すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
8:3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
8:4イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。

 いま、私たちは主の祈りの第三の願い、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」について学んでいます。「御心」と訳されている言葉には「意志」、「願い」、「願望」を意味する言葉が使われています。神がこうしようと決められたこと、神がかくあれと願われたこと、神がこうあって欲しいと望んでおられること、それが、そのとおり行われますようにというのが、主の祈りの第三の願いです。

 一、御心の力

 この祈りを祈る人は、まず、御心の力を知っている必要があります。御心の力は、まず第一に「創造」に現れています。創世記1:3に「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神は、その言葉によって無から有を呼び出されました。聖書は「創造」から書きはじめられていますが、「創造」は信仰の出発点です。神を信じる人は「創造」を信じます。「創造」を信じるということは、神だけがご自分で存在しておられるお方であり、すべてのものは神によって存在させられているという真理を信じることです。「創造」を信じることは、神を神として信じることであり、決して軽く考えて良いことではありません。

 創世記で神は「おおぞらよあれ」、「地が現れよ」、「地は草と木をはえさせよ」などと、次々に命じて、この世界を人の住処として形造ってくださいました。世界は神の「言葉」によって造られたのですが、神が「言葉」をもって命じられる前に、神がこの世界を造ろうとされた「意志」や「願い」があったはずです。人を造られるとき、神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」と言われました。人間は、神の特別な思いや願いによって、それが込められて造られたことがわかります。

 他の動物も人間もともに神の「御心」にしたがって造られました。しかし、他の動物と人間とには違いがあります。他の動物は神の「御心」に本能的に服従するだけですが、人間は、御心を知って、その御心にみずから進んでこたえていく者として造られました。詩篇19:1に「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」とあるように、人間は、神の創造の中に神の知恵、力、栄光を見ることができます。広大な宇宙、地上のさまざまな生物、また、顕微鏡でしか見えないミクロの世界についての知識が増えれば増えるほど、神の御心の偉大さが分かってくるのです。科学者の中にクリスチャンが多いのは、その研究を通して、神の知恵や力に触れることが多いからだろうと思います。

 御心の力は、第二に「摂理」に表われています。「摂理」とは、神が、ご自分の造られた世界を守り、導いておられることを言います。神を信じる者は「創造」と同じように「摂理」を信じます。「摂理」は、神がこの世界とわたしたちとに関わりを持ち続けてくださる、生ける神であることを教えています。「摂理」は、英語で"providence"で、これはラテン語の"pro"(前もって)と"video"(見る)という言葉が組み合わさってできたものです。この言葉は創世記22章で、アブラハムが、その子イサクを捧げるようにと神に命じられ、アブラハムがそれに従ったときのことに由来しています。そのとき、神はイサクの代わりに一匹の雄羊を用意しておられました。それで、アブラハムはその場所を「アドナイ・エレ」と呼びました。これは「主は見ておられる」という意味で、ここから"providence"という言葉が生まれました。神は、神に従う者の人生を導き、見守っておられ、あらかじめ必要を備えていてくださる。それが"providence"、「摂理」です。

 信仰者たちは、この「摂理」を体験してきました。ヨセフの生涯は神の「摂理」を見事に表わしています。ヨセフはエジプトに奴隷として売られましたが、売られた先で良い主人に恵まれ、その全財産の管理を任せられました。ところが、その主人の妻の誘惑を断ったため、濡れ衣を着せられて牢獄に追いやられました。しかし、牢獄でも看守の信頼を受け、他の囚人たちの世話人となりました。そして、ヨセフはファラオが見た夢を解き明かすことによって、ファラオに次ぐ地位にまで上りつめました。ヨセフはさまざまな苦しみを通りましたが、それによって失望したり、自暴自棄になったりしませんでした。神の摂理を、摂理の神を信じていたからです。自分の生涯のうちに御心が働いていることを知っていたからです。

 すべてのものは御心にしたがって造られ、御心にしたがって治められています。しかし、地上では、人間だけが、その御心を知ることを許されています。人間だけが、神のご意志に対して、自由な意志でこたえることができます。信仰者とは、この神の御心を知って、それに信頼する者です。詩篇33:11に「主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ」とあり、詩篇115:3には「われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる」とあります。わたしたちは、順調なときには「御心」を喜ぶことができても、トラブルに巻き込まれたり、つらいことに直面したとき、「神さま、どうしてなんですか。なぜ、わたしにこんなことが起こるのですか」と言いたくなることがあります。しかし、そんなときこそ、この試練、この苦しみの向こうにある神の「備え」を見ましょう。御心の力がこの世界を支えているばかりでなく、自分の人生をも導いていることを信じて、御心が成ることを願い求めましょう。

 二、御心への信頼

 きょうの箇所にはひとりの「レプラ」の人が登場します。この人から、御心に信頼することを学びましょう。

 「レプラ」は、「らい病」、「重い皮膚病」などと訳されているものです。「レプラ」の多くは、今日の「ハンセン病」だろうと思われます。ハンセン病は結核菌に良く似た「ライ菌」という細菌によって起こる病気です。ライ菌が皮膚の神経細胞に住み着くと、神経が冒され、その部分の感覚がなくなってしまいます。そのため、その部分が傷ついても分からず、そこが化膿してひどい状態になるのです。しかし、ライ菌の感染力は低く、特効薬が開発されており、後遺症が残らないうちに完治できるようになりました。しかし、この病気に対する偏見はいまだに残っています。現代でもなお偏見があるほどですから、今から二千年前には、「レプラ」の人たちはもっとつらい目に遇っていました。ユダヤの国ではこの人たちは神に近づくことができない者とされていました。人からばかりでなく、神からも斥けられていると考えられたのです。しかし、この人たちに何の希望もなかったわけではありません。病気が治ったら、自分のからだを祭司に見せ、きよめの儀式を受ければ、社会に戻り、神殿に詣でることが許されたのです。

 主イエスは、これまで、さまざまな病気をいやしてこられました。マタイ4:23-24にこうあります。「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。」ここには主イエスがいやされたさまざまな病気がリストアップされていますが、「レプラ」はありません。「レプラ」の患者は隔離されていて、主イエスのところに連れてくることができなかったからです。

 ところが、この「レプラ」の人は主イエスのもとにやってきました。主イエスは、大勢の群衆に囲まれています。きっと、人々から、「あっちへ行け。わたしたちに近づくな」と言われたことでしょう。しかし、そんなことにかまいませんでした。なぜでしょう。主イエスがいやしてくださると信じたからです。この人は、ほかの患者仲間から「イエスというすごい預言者が現れ、どんな病気もたちどころに直しているそうだ」という話を聞いたのでしょう。ほかの人たちは、「しかし、われわれの病気は別だ」とあきらめてしまっていました。けれども、この人は、主イエスを預言者以上のお方、救い主に違いないと思いました。そして、救い主ならこの病気も直すことができると信じ、主イエスに近づいたのです。

 彼はこう言いました。「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」これにはふたつの意味があります。ひとつは、「主イエスさま、わたしは汚れた者です。ですから、わたしに触れないでください。ただ、わたしをあわれんで、お心をかけてください」という意味です。この人は、主イエスの前にひれ伏しましたが、外側の動作だけでなく、その内面もまた、主なるお方の前にひれ伏していたと思います。

 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」この言葉に込められたもうひとつの意味は、「主イエスさま、あなたは全能です。あなたは、それを意思し、欲し、願われるだけでなさることができます。あなたの御心の力を信じます」というものでした。新改訳聖書はここを「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」と訳しています。この人は、主イエスが「レプラ」をきよめることができると信じたばかりでなく、主イエスはそのことをしてくださると信じたのです。この言葉に主は「わたしの心だ。きよくなれ」(新改訳)と言われ、その病気をたちまちに癒やしてくださいました。

 "FaithisnotbelievingthatGodcan.Itisknowingthathewill."という言葉があります。「信仰とは、神にはできると信じるだけではなく、神がしてくださると知ることである」というのですが、本当にその通りです。神の全能を信じる正しい信仰を持っていても、神が、その全能の力を用いて、ことを行ってくださると信じるのでなければ、その人の信仰は、たんなる知識で終わってしまいます。神にはできないことはないと信じるだけでなく、神はかならずそのことをしてくださると信じて祈る。そのとき、御心の力が働くのです。

 「レプラ」の患者は「わたしに触れないでください」と言ったのに、主イエスはあえて彼に手を差し伸べ、彼に触れて癒やされました。足もとにひれ伏している人に触れるためには、主イエスも身をかがめる必要がありますが、主はそうされました。主イエスはご自分の前にひれ伏す者に対して、ご自分も身をかがめてくださるお方です。神であるお方がご自分を低くし、人となり、罪ある者の立場に立ち、十字架の死にまでもご自分を低くされました。このお方によって、わたしたちは救われ、癒やされ、きよめられ、再び立ち上がることができるのです。人々は「レプラ」の患者を避けて彼から離れました。しかし、主イエスは彼の側に、彼と共にいてくださり、この人に手をのべておられます。聖書に「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)とありますが、ここに、この言葉の成就を見ることができます。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。」この祈りが成就するために、主イエスは天から地へと降りてきてくださったのです。わたしたちも。この主の前に自らを低くしたいと思います。

 そして、それとともに、大胆に主の前に出たいと思います。詩篇138:8に「主はわたしのために、みこころをなしとげられる」とあります。この言葉のように、「主がしてくださる」と信じましょう。御心を信頼し、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り続けていきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは御心の力をもって世界を造り、それを支え、導いておられます。あなたの御心は、はるか高いところにだけあるのでなく、わたしたち、ひとりひとりの生活、人生の中にあります。御心の力に信頼し、それが成ることを信じて歩むわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/23/2015